第4話 狐碑 後編
―――コレラ、という感染症がある。
江戸から明治にかけ、幾度も流行して多くの人を死に至らしめた病名である。致死率は七十%もあり、重症化すると全身が痙攣し、三日の内にコロリと死んでしまうため『三日コロリ』とも呼ばれていた。当時全国で三七万人もの犠牲者を出した、即死病である。
なぜ突然こんな伝染病を説明したのか。
狐碑に封印された妖怪、もとい憑き物というのが、まさしくこのコレラを指していたからだ。
医学も発展していない年代なだけあり、何も出来ずたったの三日で死んでしまうこの病を、人々は人間の理解を超えてしまった妖怪と定義したのである。
その正体とされたのは様々で、
その中でも一際多かった呼び名が『アメリカ狐』という。曰く、米国から遣わされた狐の妖怪がこの病原菌を流行らせたとされたからだ。
お狗様、もとい大口真神は、狐や虎より強く、そのような憑き物を退治する神格として崇められていた。同時期に疫病除けの神である牛頭天王を信仰していた層も居たが、疫病から除けるための祇園祭が、疫病によって三回も延長するという本末転倒な事が起きた。
そのため、ますますその正体は病原菌でなく、妖怪といった存在であると信憑性が増し、魔除けが御利益である真神への信仰に切り替わったともいう。
その御利益は真神が直々に活躍するというより『
矢巣市正が狐碑に封印をした理由は、彼がお狗様を祀る神官であったから。御利益のあるお狗様の神官ともなれば、その賜った力で退治をしてくれるだろうと信頼され、依頼を承り遥々この地へと訪れたのだろう。
その後、彼は同時期に隠居したとされているため最後の仕事だったようだが、後世の矢巣の者にとって、尊敬する模範として口承されてきたようだ。
――――
「近いうちに、この辺一帯が妖怪や魔物に侵されるかもしれない」
お狗様からそんな事を言われ、暫しの沈黙が流れる。平穏に生きてきた日々が、突如崩壊した音が聞こえたような気がした。
「いやいや……じゃあ呑気にしてられないじゃん!」
噤んでいた口を開いてツッコミをする。後回しにした事が何度も気になって仕方が無かったのだが、嫌な予感が的中してしまった。いくら学業で忙しいとはいえ、父にでも行かせれば良かったのかもしれない。若干の後悔が混じってきたような、そんな声色だ。
「落ち着いて。何のために稽古をしたと思っているのよ」
「そんなの七歳の頃の話だし、そのあと三年弱でほっぽり出したのを稽古とは言わないんだよね」
「そうだっけ?」
声を荒らげる市禾に対し、冷静に振る舞うお狗様。しかしながらそんな宥めも意味がなく、耳に痛いような反論が投げられてしまい、惚けたような反応をされる。
もっと細かに言えば、稽古をしていた三年弱という期間も、お狗様の機嫌という名の都合により度々しない事の方が多く、正直言って内容の殆どは忘れている。そんな状態で稽古の成果が出るとは到底思えない。
「まあまあ、今からでも間に合うと思うわ」
「なんで昔はほっぽり出したわけ?」
「だって、まさか掘り返されるとは思わなかったんだもの」
問い詰めても相変わらず平常としている。なんでこんなに呑気なのか理解ができず、思わず溜息が出る。
狐碑は管理者も無く、平坦な地に置いてあるため誰でも侵入できるし誰でも観測できる場所だ。なのに予想外なことが起きたというのは、この敷地がお狗様によって守られているからだ。
近くをよく見て回ると、何らかの文字が記されたであろう札が樹木に貼り付けてあり、破れているようだった。恐らく符憑魔だろう。
「見ての通りでしょ? だから予想外なの」
肩を竦め、呆れたような反応をされる。
管理者が居ない代わりに、この地をお狗様の狼が守っていたという示しである札だ。妖怪を含めた悪人がこの札の近くにいると、中から狼が現れ喰ってしまうというものなのだが、破られているという事はそれ以外の存在が触れたということ。それが子供か鳥か、はたまたイタズラに破られたか。正体は分からないが、ともかくそのおかげで上手く札が作動しなかった事で、碑が暴かれたのは確かなようだ。
「んま、こんな事が起きた以上、今日から頑張りましょ」
「うげえ〜……」
切り替えの速さが異常な目の前の相手に、心底嫌そうな声を漏らす市禾。お狗様の稽古というのはそんな大それたことをする訳では無く、滝行や山駆けなど、一般的な古神道の行法と変わらない。矢巣一族の先祖はその姓にあやかるように大昔は武家であったということで、弓道を嗜むことがある。決定的に他所と違うのは、祭神が傍に居るかどうかだろう。
市禾はまだ中学生で、学生生活を謳歌している途中だ。つまり、学業と稽古を並行してやらなければならないし、それに逢魔時の事だってある。思いっきりハードスケジュールだ。
「と、友達と出かけることも出来ないじゃん……!」
「そこまで根を詰めすぎなくてもいいわよ。たまにサボればいいわ」
「え? あ、あぁそう……」
予定を考えるだけで気が遠くなりそうになった市禾は、声を荒らげて不満をぶつけるも、あっさりとした返答に拍子抜けしてしまう。いや良くないだろとも思いつつ、その答えを甘んじて受けてしまうほど精神は未熟だ。
「目下の目的はまず、逢魔時を何とかしましょうか」
「何とかって?」
「貴方が戦えるようにすること」
「ぜっっっっったい無理!!!!!!」
即答。
その返答が出るのは予想ついていたようで、全力で否定する。つい最近でもこんなに声を出したのは今日だけだろう。実戦経験こそは一度もないが、幼い頃の稽古内容や正文からの話で、薄々そういった存在と相見える事もあるのだろうと察していたのだ。
しかし、当然現代ではそんな存在も迷信とされているためまともに戦うこともなく、このまま平穏に天寿を全うすると思っていた。少なくとも、お狗様もそう予想して、稽古を数年でほっぽり出したのだろう。
「そう即答しないで。正文だってあんな調子だし、頼みの綱が貴方しかいないのよ」
「そんな事言われたって……ご先祖さまは強かったかもしれないけど、その子孫も強いとは限らないよ」
「ともかく、やってみなきゃ分からないわ」
市禾は不服そうにして、お狗様は眉を下げて困ったような表情を浮かべる。だが市禾からしたら突然突拍子もないような話をされ、おまけに自分の身を投げ打たなければならないと考えてしまえば、若干の不満は募ってしまうものだ。二つ返事で了承するわけもない。
「少なくとも、帰路に困ることは無くなる。そう考えるだけでも利点じゃない?」
「……まあ」
逢魔時を何とか出来るなら、正直言って大助かりではある。この時間帯のおかげで友人と帰路の途中で道草を食うことも出来ないし、逃げて疲れ果てながら帰ることもなくなるだろう。しかし上手く丸め込まれた感じがするのが、なんとも癪なような気がする。
「よし、一先ず帰りましょう。用は済んだのだし」
「……はぁい」
狐碑自体に思っていたほどの収穫は無かったが、その後のお狗様の方にとんでもない情報を託されてしまった。父の正文にも伝えなきゃならない、と考えるとやはり気が滅入ってしまう。なぜならば、稽古に真面目に勤しむよう以前より目を光らせてくるだろうから。少なくとも、ハードスケジュールを組まれるのは間違いないだろう。
不貞腐れ、憂鬱な気分を浮かべながら、市禾たちはこの場を後にした。
――――
「うっ……疲れたあ……」
「もう? 最初にやるべき稽古は山駆けかしら」
「勘弁してよ……」
電車に数時間乗り、無事に帰宅。午前十六時と思ったより早めに帰れてしまった。少しばかり、現地の限定品を買うなり食事の時間を取ったり、甘味に対するお狗様の興味を逸らすなりをして道草を食ったりはしたが。
しかし余裕はあっても、普段から山の昇り降りをして若干の体力が着いていたはずの市禾の体はもうヘトヘトだ。正直言って帰って早々布団に飛び込んで寝たいぐらいだ。
しかし家の玄関の前に立つと、そんな怠惰な意識を忘れるように、パンパンと自身の頬を手の平で叩いて「よし」と一声掛ける。そして、扉の引き戸を開けた。
「ただいま戻りました!」
声を張って、帰ったことを報告する。先程までの行動は父に無遠慮な振る舞いを見せぬようにするもので、切り替えるための市禾流の気の引き締め方である。
「おかえりなさい。どうだった?」
その声を聞いて、静かな足音を立てて玄関に正文が迎えに来る。
「見かけは異常なかったです。ただ、お狗様の札が破られていたので、それが要因で防げなかったそうです」
「そうか……符憑魔か」
「はい。それだけだったならまだしも――」
市禾は、お狗様との会話内容も伝える。狐碑が暴かれ、封を解いたことで今後妖怪に侵されてしまうかもしれない事、それに伴い市禾の稽古が再開される事。
「……嫌な予感はしていたのだが、思っていたよりも深刻そうだな」
話を聞いた途端に、眉間に皺を寄せ神妙そうな表情を浮かべる正文。市禾よりも自身の仕事と真っ当に向き合っている彼にとって、やはり一大事な事だと思っているのだろう。
少し間を置いて、考えている様子から変わって正面の市禾に向き直る。
「藤田さんの所のお孫さんが、狐憑きの被害に遭っているかもしれないという話だ。一度相談を受けたものの、肝心の藤田さんが受け入れにくいようでな。だが恐らく、近々改めて来るかもしれない」
「狐憑き……?」
「ああ。もしかしたら狐碑が暴かれたことによる影響だろう。最近はめっきり無くなったはずだが」
藤田といえば、早朝に会った常連の参拝客だ。
正文を尋ねて来たようだが、どうやら話の内容はこの事だったようだ。狐憑きは現代では医学によって精神病の一つとされているが、時折こうして本当に憑いてしまう事があるらしい。
その症例は若い女の人に多く、油揚げを好み狐のように振る舞う者、病にかかり伏せてしまう者、力の限り乱暴になる者。市禾は幼い頃に、正文による祓いを数回見た程度だが、被害者は傍から見ても分かる通り、やけに異常だったのはよく覚えている。
しかし、前述した通り狐憑きは精神病の一つとされている。脳か精神に異常がきたしている事でそのような行動を起こしてしまうものとされ、本来は病院にかかるものだ。それなのにお祓いの相談をされるという事は、解決できなかったのだろう。
「だから丁度いい機会だ。市禾、おまえが祓いなさい」
「えっ、わ、私がですか?」
「そうだ。時には行動に映すべきだろう。知識だけ蓄えても仕方がない」
突然話の矛先が自分に向けられ、目を見開いて驚いたような表情をしてしまう。
言いたい事は分からないでもない。父は確かに瞳の力を無くし、憑き物祓いの依頼はめっきり来なくなった。祈祷するだけならまだしも、目に見えぬ存在を討ち滅ぼす事は出来ないのだから。
だからって普通、それに対応するための稽古もまともにやれていないような娘にそんな仕事を丸投げするものか?と、やや困惑しているのである。
「いい提案ね、やってみましょうよ」
「でも、お狗様……」
「貴方なら大丈夫よ」
根拠がないのに、平然と「大丈夫」という言葉を使ってくる。だからといって、冗談で言っている訳では無いのだろう。お狗様は正直に物申す人だ。例え実力のない相手に、鼓舞するような言葉を投げかけるほど優しく能天気な訳でもない。無いものは無いとはっきり言ってしまう。
だからこそ、この場では否定して欲しかった気持ちはある。
「う、分かりました……精一杯務めさせていただきます」
半ば嫌そうに了承した。
本音を言えばやりたくないのが正直なところ。しかし、断ったところでいつかはしなければならない事の一つであるし、何より父の視線が痛い。ならばいっそ開き直って、真っ当にやった方が幾分かマシなのではないか。そう考えたのである。
「(今日は厄日だな……)」
大きなため息を吐きながら、今日一日過ごした時間を思い返して、そう思ってしまった。
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