第3話 狐碑 前編
―――ピピピ
アラームが鳴り響く。
まだ眠気のある目を擦り、軽く背伸びをすると、敷布団を畳んで襖の奥に仕舞う。今の時間帯は午前六時。外は春先ゆえかまだ仄暗く、寒気がするので身震いをしてしまう。
顔を洗って歯を磨き、薄茶色の髪を梳かして、肉球柄のある赤いリボンの着いたカチューシャを付ける。
箪笥を開け、パジャマからお気に入りの私服へと着替えてゆく。中に白いワイシャツを着て、上にオレンジ色のセーターを着る。丈の短いフレアスカートを履いて、肉球柄の着いたベルトでウエストを締める。
最後に鏡の前に立って、身嗜みをチェックする。髪色と同じ色の瞳が、自分を上から下までくまなく見つめてくる。やはり年頃の少女なのだから、いつでも自分の外見がきちんと可愛くなっているのか、不安になって確認はしてしまうものだ。
「うん、可愛い」
どうやら格好に満足がいったのか、にっこりと鏡の前で可愛らしい笑顔を浮かべては、上機嫌に一階へと降りてゆく。
「おはようございます」
「おはよう」
一階に居る父に挨拶を交わす。正文はこの時点で仕事着にしており、白衣に紫奴袴を着ている。位で二級を表す服装だが、神職が二人しか居ないのに態々示す必要があるのかと度々疑問に思ってしまう。
それはさておき、当然仕事に入っているという事は朝食の用意も出来ているようで、机の方を見てみると何か文字列のある紙に、一人分の朝食、そして二人分の弁当が並べられていた。
「お狗様は既に召し上がった。おまえも待たせないように早く食べなさい」
「はい。お父さんは今日、いらっしゃらないんですか?」
「悩んだが、どうやら勉学の一つとのことでな。私は着いてこなくても良いそうだ。ただし、詳細は報告しなさい」
「分かりました」
今日は休み。
約束したとおり、お狗様と共に狐碑を確認しに行く日だ。次の休みとのことで確認するのに日が空いてしまったが、大丈夫なのだろうかと内心気にかかってはいる。
父にも、その事柄を説明すると顔を青くして現場へ向かおうとしていたが、どうやらお狗様は市禾のみに来てほしいようだったので、渋々諦めたらしい。
お狗様は既に社に来ており、朝食を食べたらしい。弁当が二人分あるのも狐碑が遠地にあるので、確認するだけだと言っても数時間は余裕で帰れない。そのため、昼食は現地でとる形になる。
正文は確かにお狗様の事を見えはしなかったが、机にある紙に目を向けると、『市禾を迎えに行く』と書いてあった。恐らくお狗様による執筆だろう。正直達筆すぎて読みにくいが、唯一市禾を介さずにコンタクトを取る方法である。
朝食は卵焼きに梅干しのある白米、肉じゃがに漬物だ。和食は嫌いではないが、時折フレンチな朝食も頂きたいなという気持ちもありつつ、美味しく食べる。これが市禾の担当であればきっとそうしていたのだが、如何せん正文の方が早く起きるので作ることはない。
食べ終えると、居間にいるとのことで移動する。
市禾の『妖魔の見える瞳』は、確かに逢魔時に本領が発揮される物であるが、あくまで妖魔に限った話。その瞳を祭神が授けたとされる伝承があることから、お狗様、もとい神格の姿は常に捉えるのだという。そんな瞳を駆使して、自身の祭神を出迎えに行く。
――そこには、漫画を読みながらだらけているお狗様が居た。そこに神と言えるほどの威厳もへったくれもなく、うつ伏せで、舌も出したままで足をぱたぱたと動かしている。
犬が舌を出しっぱなしにする理由の一つに、『顔の筋肉が弛んでリラックスしている』状態を指すことがある。今、まさにそれをお狗様が体現していた。神職として、正直見ていて複雑な気持ちになるものだ。
「……お狗様、準備出来たよ」
「んー? おはよー。やけに長かったわね」
「これくらい普通でしょ」
声をかけた途端に、喋ると同時に舌をしまって漫画をパタンと閉じる。女子はこれくらい自分の身嗜みを気にするものだとツッコミつつ、気づいてないのかな、なんて疑問を浮かべているとお狗様と目が合ってしまう。
「うそ、舌出してた?」
言葉にしていないのに、市禾の顔を見て気づいたらしい。
現に喋っているのだから分かるだろうに、自分の口元を触り、舌が出ていないか確認している。いくら習性とはいえ、やはり自身の面子が潰れるのは避けたいのだろう。普通に気にしてしまうようだ。
「ねえ、勝手に見るのやめてよ」
「仕方ないでしょ、見えるんだもの」
「プライバシーの侵害だよ」
「ぷら……なんて?」
お狗様は、その赤い瞳で人の心の中が見えるらしい。御利益が『悪暴き』と『魔除け』とされており、主に前者の悪を暴く事による読心能力なのではないかと推測されている。
具体的な作用の仕方については分からないが、少なくともお狗様はこの力を使って盗人や放火魔などといった悪人や、人に化けた妖の存在を看破したとされ、矢巣が代々継いでいくという瞳も、この力の一部を賜っているのではないかと推測されている。
然し、それはともかくとして、市禾は当然思春期真っ只中な年頃の少女なので、正直心の中を読まれるのは変な事を考えないとか関係なしに控えてほしいと思っている。もし仮に男であったのなら、とても心苦しがっただろう。
「もう、とにかく行くよ。遠いんだからさ!」
こんな不毛なことに時間を取られては勿体無いので、半ば強制的に話を終わらせる。
弁当を取り、鞄に入れては玄関に赴き、靴を履いて外へと出る。まだ寒気があるものの、早朝の仄暗さがなくなり、暖かな日差しが差し掛かっていた。
「晴れて良かったわね。絶好の散歩日和って感じ」
「散歩じゃないでしょ」
「いいじゃない、出掛けるのには変わりないんだし」
春による山の清涼な空気を感じながら、階段を下り、参道の石畳を通ってそんな雑談を交わしていると、前から人が通りかかってくる。
「おぉ、市禾ちゃん、おはよう」
「おはようございます、藤田さん」
「これからお出かけかい?」
「ええ、少し」
常連の参拝客の藤田だ。
ペコリとお辞儀をされたので、こちらも軽い会釈を返して挨拶をする。腰の曲がったお爺さんで、とても愛想の良い微笑みをよく浮かべている。幼い頃から境内で見かけては度々お菓子を貰うことがあり、とても良い人でよく懐いていたし、今でもよく登校時などに挨拶を交わしている。
「ワン! ワン!」
「おや、吠えるなんて珍しい。どうかしたのかな」
吠えているのは藤田が飼っている柴犬で、名前は土筆という。散歩ついでに参拝するためよく連れ歩いている。他の神社ならば大抵犬に限らずペットを禁止されるのだが、靭夜神社に関しては狼の神を祀っているという事で犬の参拝だけは認められており、偶に他にも犬を連れてくる者もいる。
老犬で大人しい性格なため普段は吠えないのだが、今日に限ってはよく吠えており、飼い主である藤田は困惑してしまう。それは近くにお狗様がいらっしゃるからだ。今は市禾の隣にいるので、辛うじて他者からは市禾に吠えているように見えるが、実際はお狗様に向かって吠えている。
「よしよし」
お狗様が屈み、土筆を撫でると途端に尻尾を振って大人しくなる。だが藤田先生はそれを怪訝そうに見ている。何せ、愛犬が突然吠えたり突然大人しくなったりしたのだから、それは訝しむというもの。
「は、はは。ところで参拝ですか?」
「あ、そうそう。正文さんはいるかい?」
「はい。社務所にいるかもしれませんが、お声を掛けたらすぐに出てくるかと」
苦笑しつつ、無理やり話を変える。神社に来ているのだから、当たり前に参拝だろうに変な聞き方をしてしまった。しかしそのお陰で話が逸れたので、内心ホッとしている。市禾は嘘をつくのは苦手な様子で、その証拠に変な冷や汗も出ているが、悟られないように口角を上げてにっこりと笑みを浮かべた表情を見せる。
「ありがとねえ、それじゃあ行ってくるよ」
土筆を連れ、再度ぺこりと会釈をされる。
去ってゆく背中を見送り、市禾達も歩みを進める。
「別に見えやしないんだから、気にしなくていいのに」
「気にするよ! もう……」
正論ではあると思うが、そういう問題では無い。如何せん視える側なのだから、目の前で色々とやられると気になって仕方がないのだ。しかし、それを神に説いても、大方理解が及ばず困惑されるだけだと思うので、深い溜息だけを吐いて残すことにした。
「しかしまあ、あのお爺さんも大変そうね」
「え?」
「なんでもない」
ポツリ。お狗様が何か言ったが、市禾には聞こえなかったようで、聞き返すもはぐらかすようにする。相変わらずのその澄まし顔からは何も得られることはなく、多少疑問を浮かべながらも、直ぐに切り替え、歩みを進めた――
――――
再三言うが、狐碑は遠地だ。山から直線で数えて、五十五キロも先にある。
徒歩で十四時間、電車で三時間、車で二時間程。無論、市禾達は片や中学生で、片や神格なので免許など持っている訳もなく、電車での移動となる。
切符は一人分。時折お狗様と来ると何人分買えばいいのか分からなくなるが、傍からは見えないので一人分のみにしている。こういう瞬間は何だか悪い事しているような気分になる。
そうして周りの視線を気にして特に電車内で会話が弾むことも無く、やがて徒歩で狐碑のある場所にたどり着いた。現在午前十時半。
狐碑は、著名どころの『殺生石』のような危険性のある地でも、大層な伝説がある訳でもなく、とても妖を封印したとは思えないほど、こじんまりとしている。管理者も特にいるわけじゃない。
主に目に付きやすいのは立て看板に、『碑狐』と記されたこじんまりとした石、庚申塔が順に横並びに立っている。
立て看板の方を見やると、こんな事が書かれていた。
――簡単に意訳すれば、『人々に害を成す狐。靭夜の矢巣市正がここに埋め封じた。永遠に掘り返してはならぬ』という内容が記されている。
「今更興味が湧いたの?」
「いや……」
文久と記されているが、江戸時代の事だ。一八六一年三月から、一八六四年三月までの四年間の元号。年代から考えれば、およそ一六十年前。市禾の曽祖父か、高祖父ぐらいにあたるだろう。そう考えると割と最近のようにも思えてしまう。
しかしながら市禾は、こういった類の話にあまり興味は無い。『何かすごい事をやったんだな』と思うぐらいで、それ以上でもそれ以下の感想が出てくる訳でもない。何せ、便利な物が多い平和な時代に生まれてきたのだから、昔の事を考えるのは野暮である。そういう思考なのだ。
「変わってないように見えるけど」
「目に見えて変わっても困るわ」
それはそれとして、封印をされたという妖怪の所在はこの狐碑の下だが、他に辺りを見回すも、幼い頃に来た時とあまり変わらないような気がする。確かにあからさまに変わりすぎても困りはするが、異常事態だとは到底思えない。
「暴かれたんでしょ?」
「ええ。でも、何かあるわけじゃない。犯人は失踪しちゃったらしいし」
「……来る意味あった?」
「『今は』何も無いだけよ」
一度、その飄々とした態度と、何も無いと聞いて拍子抜けしてしまう。しかし、お狗様へと視線をやると、その表情は段々と眉をひそめて神妙な面影を帯びていた。
その顔を見て、ことの重大さを理解していない市禾も、大事なのだろうと察しがつき、それとなく目を背ける。
「……でも、ご先祖さまのおかげで封印されているんだから、普通は何も出来ないんじゃ?」
「だから油断したの。暴かれたのだって、大方憑いたのだと思う。てっきり医学が進歩したこの時代だから、それに合わせて力が弱まっていたとばかり」
どうやら、お狗様の見立てでは、封印されていた妖が思っていたよりも余力を残していたようだ。悪狐本人かその仲間かまでは分からないが、人に憑いて碑の下にある死体を暴いたのではないかと考えており、憑かれた人間はそのままその死体を連れ去り、失踪したのではないかと考察している。
「で、本題なんだけど。掘り起こされて数日経ったのだから、何も無いなんてことはないと思う」
「これでも大層な妖怪だったの。だから――」
瞬間、強い風が吹き、近くの木の葉を煽って音を立てる。
同時にスカートのはためきを手で抑えつつ、次に聞こえてくるお狗様の言葉に、耳を疑った。
「近いうちに、この辺一帯が妖怪や魔物に侵されるかもしれない」
次の更新予定
毎週 日曜日 18:00 予定は変更される可能性があります
暗晦、出づる月弓 墨魚 @bokugyo
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