第2話 お狗様の話

 「おまえのその瞳は、神様に愛された証拠だ」


 まだ幼い時の記憶。

 七歳の誕生日を迎え、幾日か経った頃に父親である正文に呼ばれていた。

 市禾のこの亡霊が視える瞳を、正文は『悪くないモノ』だと言うのだ。曰く、正文を含めた先祖代々が継いできたものであり、崇拝している神様から賜った力であるという。


 そう言いながら正文は、市禾の顔を、瞳を真っ直ぐに見ていた。いつも通りの硬い表情であったが、何かを見透かされているような気分になってしまい、市禾はそっと目を伏せて逸らしてしまう。少なくとも、今そう言われた事で、実際に良く思っていない事が分かっているようだった。


 「……『七つ前は神の内』という言葉がある。七歳までは神様に見守られるが、お前はもう七歳になったから既に一人前だ。だからその瞳は、己を守る術だと覚えたらいい」


 目を逸らした娘に言及することも無く、そのまま淡々と述べていく。

 その言葉の意味合いは、世間一般的な物とは微妙に違った。本来は七歳までは神の子として丁重に持て成し、『非礼をしても責任を問わない』というものであるが、矢巣の間では正文の言った通りの意味で通しているらしい。


 「安心をし、明日から『お狗様』より稽古が付けられる。じきに怖くなくなるよ」


 お狗様。それは矢巣が代々祀っている神の呼び名であるり、狼の神格だ。特異な点の一つで、矢巣は神直々にその霊異ある力を教示され力を賜るというものだった。公にされてはいなかったが、一部の者は知っているようで、時々その力を借りて人々を苦しめる悪しき妖怪を懲らしめてきたという。


 元々魑魅魍魎の話はよくされていたし、父は冗談や嘘をつくような性格じゃないと知っているため、市禾はこの話をすんなりと受け入れた。

 だが、まだ甘えたい盛りの市禾にとって、強くなる事よりも視えなくなって欲しい気持ちの方があった。平穏に生きていた中、急に修羅の世界が見えてしまったのだ。まだ幼い娘にとっては不安な気持ちでいっぱいになるのは当然である。


 「……分かり、ました……」

 「あぁ。今までと変わらず修行に励み、そして気をしっかり保ちなさい」


 しかし、その思いを口に出さずに心の中に仕舞い、二つ返事で答えた。正文は伝えたい事を言い終わったのか、立ち上がって外へと出る。父とは不仲でないが、この歳でありながらも距離を掴めずに居た。自分一人が残った居間にはただ気まずい空気だけが流れる。


 何となく、『何か』から目を背けたい気分になり、境外の鳥居の傍らにある狼像に視線を移して眺める。



────



 「お、お、お狗様!?」


 学校の帰り、逢魔時に見舞われつつも何とか無事に辿り着いたその時。いつの間にか目の前にいた女性に吃驚してしまう。

 しかしその驚きようは、相手に対する自分の独り言を聞かれた事や、突如目の前に現れた事への恐怖などではなく、久方ぶりに予想外な人物に会ったような反応であった。


 「おかえり。その様子だと大変だったみたいね」


 市禾の反応に触れることも無く、淡々と言葉を返される。しかしその驚きようが面白いのか、口角をあげて柔らかい微笑みを浮かべていた。


 「ひ、他人事だと思って……で、何の用?」


 こちらもこちらで、随分な言い草をする。

 お狗様といえば、矢巣が崇拝している神の呼び名であり、市禾も巫女として祀り上げなければならない存在のはずだ。その割には互いにフランクな態度をしている。

 女性は市禾の不敬を特に指摘はしなかったし、市禾も相手の顔を伺うような様子はなかった。


 「何よ、用がなきゃダメなの?私の家でもあるでしょう?」

 「家って……」


 しかし、市禾の言い草をやはり不服に思ったのか、ぷくっと頬を膨らませて反論してくる。目の前の相手による子供っぽい感情表現を反対に、呆れたような表情を浮かべてしまった。

 合っているといえばそうだとは思うのだが、自身が祀られている神社を家と呼ぶのは些かどうなのかとツッコミたくなってしまう。


 「こほん……冗談はさておき、さっき言った通りよ。大事な話があるの」


 気を取り直して、と言わんばかりに咳払いをする。先程の態度とは打って変わって何か神妙そうにしている。

 何か大切な事を伝えようとしているのか。先程のように気安く話しかけてはいけない、そんな張り詰めた空気を感じてしまう。


 「……夕飯、まだよね?食べに来たの」

 「は?」


 想定外の発言に思わず反射でトーンの低い声を出してしまった。少しでもシリアスを感じたのが一気に馬鹿らしくなる。


 「違う違う、夕飯食べ終わったら話したいなーって。疲れてるんでしょ?」

 「そうだけど……」


 じとっとした目でお狗様を見る。

 本当は話なんかなく、夕飯を食べに来ただけなのでは?そんな意味合いを込めた疑いの視線をぶつける。


 「本当にあるわよ、失礼ね!」

 「はいはい」


 とうとうムキになったようで、声を少し荒らげるも、とうの市禾本人は子供を宥めるような対応をしている。これまでの会話から何となく察しがつくだろうが、二人は思ったより蟠りが無さそうな関係性なようだ。

 傍から見れば姉妹のような、遠慮のしない仲のように見えるだろう。そう指摘されたとて、恐らく互いに自分が姉だと思うだろうが。


 「もう、ほら行くわよ」


 お狗様が先に歩くと、市禾はその後を追っていく。───ふと、後ろ姿を眺めてみる。頭の先から足先まで。

 隣に並ばなくとも、身長はそう大して変わらないのが分かる。少し市禾の方が数センチ高いくらいで、二人共小柄な体格をしていた。もっといえば、お狗様は幼い頃の記憶と見比べてみても、さほど変化がない。やはり振る舞いは人間のらしくとも、その存在は異質なのだ。

 幼い頃は見上げたり、もしくは屈んだりされたが、今はその必要が無い。


 そう考えると何となく、哀愁を感じた。



 「何ぼーっとしているの?」


 その言葉で、意識をハッと取り戻す。

 目の前には『靭夜神社うつぼやじんじゃ』と額が掲げられた鳥居があり、その奥には神社がある。いつの間にか境内に来ていたようだ。


 「なんでもない」

 「本当に?」

 「本当に」


 何も無い事はないが、心配している素振りも別になかったので、適当に合わせて答える。

 神社は小さいもので、正文と市禾の父子以外に神職はいない。そのため、神社の隣にある社務所が実家となる。その後ろに自転車を置きながら、そのまま社務所の裏口から二人共に入ってゆく。


 「ただいま戻りました」

 「おかえりなさい。随分賑やかだったが、お狗様がいらしているのか?」


 正文が出迎える。どうやら外の会話が聞こえていたらしく、待ち構えていたようだ。

 お狗様は市禾の右隣にいるが、見えないのかそう問いかけてくる。


 「……はい」

 「そうか。お狗様。どうぞごゆっくりお寛ぎください」


 答えを得ると、正文は市禾の右隣に体を向け、深深と一礼をする。見えはしないが、寄せずに謎に空いた空間があるためにそこに居ると予想したのだろう。


 「市禾。仲睦まじいのは良い事だが、くれぐれも粗相をしないように」

 「はい」

 「夕餉は台所にあるので、お狗様の分もよそってきます」


 次に市禾に向かってそう述べてくる。娘とお狗様の関係性は知っているようで、釘を指してくる。

 元々崇拝してきた代であったため、正文はお狗様の性格は知っているようだったが、それに適応してしまって巫女としての責務を果たさないなんて事にならないよう、都度言っているようだった。

 正文は再度一礼をすると、台所に向かって歩いていった。


 「正文ったら、まだ立ち直っていないのね」


 耳打ちをするように、お狗様が話しかけてくる。

 実際に市禾の瞳がその姿を捉えている以上、同様に矢巣の血が流れている正文にも見えないとおかしな話である。それもそのはずで、矢巣家の瞳にはとある条件があった。それは、『身体・精神共に健康体である事』だ。

 身体が健康的という事は病にかからず大きな怪我ひとつない状態を指し、精神が健康的という事は病まず狂わずの状態を指す。つまり、正文は身体もしくは精神が侵されているということ。


 市禾はその理由を知っている。母が亡くなったからだろうと。


 齢九歳だった頃。母は持病の影響で元々体が弱く、家事をそつなくこなすことが出来るものの、体を動かすことは推奨されていないので殆どを家の中で過ごしていた。市禾と共に遊ぶ事も少なく、それをいつも申し訳なさそうにしていたが、特に気にする事はなかったし、そんな母を心から慕っていた。

 正文も妻の前だと弱くなるらしく、いつもの堅苦しい表情も柔らかくなって綻ぶ程で、仲睦まじい二人を見るのが好きだった。


 そんなある日のこと。

 市禾が学校に行っている中、母が家事の途中で容態が急変し、倒れてしまった。父が発見し緊急入院したものの命を取り留められず、そのまま亡くなってしまった。一瞬のような出来事だった。

 市禾は当然ショックを受け、一時期不登校にはなったもののなんとか回復したが、正文は娘よりも精神状態が悪くなっていたようで、立ち振る舞いは回復したように見せてもその瞳が証拠であるように、まだ立ち直れていないらしい。


 「……うん」


 父とは幼い頃から仲は一際良いと言えなかったが、母の死がきっかけでますます難しくなったように思える。考えないようにしていたが、とても複雑な心境になってしまう。


 「夕飯、食べるんでしょ。お父さん用意してくれてるから行こうよ」

 「そうね」


 これ以上はまた何か変な事を思い出してしまいそうだったので、気を取り直して催促する。学生鞄を廊下の隅に置き、台所へ向かった。



 「あ、いい匂い!」


 台所には、皿に盛り付けている最中の正文が居た。内容を見ると、典型的な和食で白米と味噌汁にきゅうりの漬物、主菜でアジの開きのようだ。神職といえど基本的に他の人と変わらない食事を取っても良いのだが、どうも正文は大好物らしく、いつもこの様な和食が多い。

 お狗様はやはり狼なためか嗅覚が鋭く、ご飯にありつけることに喜んでいるのか尾を激しく振っていた。


 「市禾。私はもう眠るが、後の対応はお前に任せるよ。くれぐれも、寝坊に繋がらないように」

 「う……はい」

 「では、私はお先に就寝します。失礼します」


 盛り付け終わったあと、来たことに気づいて話しかけられる。遅刻しかけた今朝のことを含めて言っているようで、とても耳が痛かったので思わず態度にも出てしまう。

 今は午後の八時としているが、正文はもう寝るらしい。市禾は大体遅れて起きてしまうので具体的な時間は分からないが、どうやら午前の四時か五時には起きているようにしているようである。引き戸の前に立って一度お辞儀をすると、静かに戸を締め、その後に足音が段々と小さくなった。


 「さ、食べましょ」


 お狗様は待ちきれないのか、既に食事が並べられている机の椅子に座っている。市禾も椅子に腰をかける。


 「いただきます」

 「いただきます!」


 手を合わせて互いに食礼。箸を持って食べ進めていく。

 美味しい。学校帰りの疲れに染み渡る。


 「あつっ」


 前からそんな言葉が聞こえてくる。お狗様は猫舌なようで、味噌汁を飲む際に火傷してしまったようだ。


 「大丈夫?」

 「大丈夫、やっぱり美味しいわね。さすが正文」


 神とはいえ少し心配するも、どうやらそんな痛みより食事の方が大事なようで、味に満足しているのかとてもご満悦なようだ。

 市禾も目の前の表情豊かな人物に気を取られ、ふっと眉を下げて微笑みを浮かべてしまう。久しぶりに友人以外で賑やかな食事をしたような気がする。そう思いながら、どんどんと箸を進めていった。


─────


 「ふう……ご馳走様でした」

 「ご馳走様でした」


 食後にも手を合わせて一礼をする。お狗様は結構な大食らいらしく、その間にお代わりを3回もしていた。おかげで再度ご飯を炊く事になり、炊飯器にタイマーを設定している。


 「それで、話って?」

 「あぁ、そうだそうだ。狐碑のこと覚えてる?」

 「覚えてるけど」


 少し前まで忘れていたのか、市禾の発言を聞いて思い出したかのように述べる。

 狐碑とは、矢巣の者───市禾の先祖にあたる存在が、『妖怪である悪狐』を封じ込めたという碑だ。幼い頃に行ったっきりなのでうろ覚えではあるが、その話題を出すあたり本当に大事な話なのだろう。大事なのであれば後回しにしないでほしいが。


 「それがね、掘り返されちゃったらしいの」

 「はい?」


 平然と言っているが、普通に大事じゃないか?と困惑してしまう。封じ込めた碑というだけあり、その下には妖怪の死体か何かがあるはずなのだが、それを掘り返されたというのだ。一般的に考えるのであれば、封が解除されたということだ。

 もしそれを聞いたのが正文であったのなら、まず後回しにせず一目散に駆けつけていた事だろう。


 「というわけで──次の休み、一緒に現場に見に行きましょう」


 ほぼ強制的に付けられた休みの予定。相手はなぜだかニコニコとしている。

 先程までの和やかな空気がなくなってしまい、目眩がしてきそうだった。

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