暗晦、出づる月弓

墨魚

第1話 逢魔時、視える瞳

 「この子が後代?」

 

 幼い少女の前に、一人の女性が話しかけていた。

 物怖じのしない人なのだろう。少女はオドオドとしていたが、そんな事も気に留めないような、我が物顔で堂々とした立ち振る舞いをしている。

 それも一介の"人間"であったのなら幾分かマシだったのかもしれない。女性の外見は、煌びやかで色素の薄い金髪に、淡い赤瞳。――そして、ふわふわとした、イヌ科の獣耳が生えていた。


 七歳の誕生日。

 重なっていた祭の終わり。月明かりが眩しい夜に、少女は両親に連れられて、顔を合わせた。

 他にも辺りに人はいるが皆、少女とその両親、女性を前に一列に並んでいた。少し前まで騒いでいたのが嘘のように、厳かな表情をして人形のように立っている。

 初めて見る目の前の女性は、馴染みがあるようで、全く無いような。安心感を得ると同時に、重苦しい雰囲気を幼いながらに感じ取っていた。それに恐れ呆然と立ち尽くしていたが、ハッと意識を取り戻すと、思わず母の後ろに隠れてしまう。母は少女の頭を撫で、父は少女の事を見たあとで、眉をひそめて少し不安そうな表情をして女性に向き直した。


 「そうなんです。申し訳ありません、まだ指教している途中で」

 「構わないわ」


 耳にスっと入るくらいの透き通った声。元から緊張感があって何人も居た割に辺りは静かだったが、そんな中でも一際に女性の声は、心に直接問いかけるような程の通った声だ。父も思わず話途中で止めてしまう。

 女性は歩みを進めて少女の前に近づくと、そっと目線を合わせるように屈んだ。何かを見透かしている様な赤い瞳が少女の瞳の中を覗く。


 「初めまして。お名前は?」

 「……やすの、いちか……」

 「市禾ね。よろしくね」


 少女はたじろいながらも名乗ってみる。精一杯に捻り出した声は、きっと聞こえづらいものであった。女性はその耳からしっかりと聞き取ったのか、軽く微笑みかけると立ち上がって両親に向き直る。ふわっと柔らかな髪が靡き、月光によって透けて白く見える。

 

 「じゃ、そういう事だから。よろしく」

 「はい、ありがとうございました」


 女性はひらひらと適当に手を振ると、両親は深深と腰を曲げて一礼。少女はあっさりと挨拶が終わって拍子抜けしたのか、まだ状況を飲み込めず何が何だか分からなかったのか。そうやって呆然と立っていると父に催促され、去ってゆく背中に慣れていないお辞儀をした。




 ――暖かな日差しを感じる。

 薄らと眠気のある瞳を開け、現状を確認する。カーテンから漏れる日差しなのだろう。目に痛いぐらいの明るさに、春という季節に相応しいくらいの暖かさ。こんなに気候も丁度良いとなると、そりゃあ眠りも深くなるというもの。むしろ眠らなければ勿体ないほど。

 ──今日が春休み明けの始業式の日、だという事を除けば、だが。


 「わ、わああああ!?!?」


 眠気で朦朧としていた意識から突如目を覚まし、急いで時計を確認する。現在、六時三十分。普段の起床時間より一時間半も遅れているではないか!

 先程まで寝ていた敷布団から飛び起き、襖を開けて、制服を取りだして着替える。ある程度寝癖のある髪を梳かしながら、自室のある二階から階段を降りて一階に赴き、居間に辿り着く。

 そこには着物姿のいつも厳格な風貌の父、矢巣正文ヤスノマサフミが居た。


 「お、お、お父さん!」

 「まずは挨拶からせんか」

 「あ! お、おはようございます!」

 「おはよう」


 この一連から分かるかもしれないが、風貌に見合うように、礼儀に厳しい父である。挨拶してから互いに一礼。この流れもいつもなら気にしないが、今日は急いでいるだけに雑になってしまうので許してほしい。

 と言っても、自業自得だと正論の毒舌を吐かれてしまうので口には出せないのだが。


 「それで? 遅刻しそうなのか」

 「は、はい……」

 「はぁ……」


 深いため息。これも仕方のない事。

 市禾は父子家庭で、遅刻しそうな娘をわざわざ起こしに来てくれるような母親の存在はいない。父としても年頃の娘の部屋に向かうのは控えてくれているのだろう。そうじゃなかったとしても、厳格な父なので自分の力で起きてこいと言わんばかりなのだろうが。


 「朝餉ぐらいゆっくり食べてほしいものだが」

 「はい……」

 「仕方ない、少し早いが小遣いをやる。それで道中、コンビニに寄るなりして買っていきなさい」


 正文は渋々市禾にお小遣いを渡す。千五百円分。確かに礼儀に煩い人だが、頭が堅い訳でも古臭い訳でも無い。ただ、逆にそこまでして礼儀に煩いのは、矢巣一家が神社を営むからなのだろう。


 「ありがとうございます。行ってきます」

 「行ってらっしゃい」


 礼を述べて、また一礼。父も答礼を返せば、市禾は玄関に真っ直ぐ向かう。ふと振り返ってみれば、父もこれから神職である神主の仕事を行うつもりの様子。しかしながら、うちはそこまで大御所な場では無いので、この時間帯からでも仕事を開始したとて、参拝客はそこまで訪れない。

 市禾は靴を履き、とんとんと爪先を立てて整えると、玄関を出て直ぐに自転車に乗る。家は山中にあるため、他の生徒より早めに出なければならない。正直参道ですらもあまり整っていない山なので自転車で降りるのは避けたいのだが、流石に始業式に遅刻は色んな意味でマズい。ガタガタと小石で揺れ、命の危機を感じつつも山を下って行った――



 「市禾ちゃん、寝坊したのー?」


 周りが騒々しいにも関わらず、自分の机でうつ伏せにしていると聞き慣れた声が掛けられる。市禾の親友、付泥珠李フデイ シュリだ。

 結果的に言えば、始業式には間に合った。かなりギリギリで。しかし必死に漕いでいたおかげで既に疲労困憊だったので、教室に着いた瞬間に自分の机に突っ伏していた。


 「そうだよ、ちゃんと昨日は寝たのに……」

 「んま、この時期は眠くて眠くて仕方ないよね」


 クスクスと笑われ、机に突っ伏している市禾の頭をそっと撫でられる。珠李は人並み以上に優しい子で、市禾のような困っている人を放っとけない性分だ。


 「はあ……今年も同じクラスで良かったぁ!」


 そんな優しく接してくれる珠李を、市禾は顔を上げて抱きついた。珠李とは今年を含め、三年間ずっと同じクラスに居る。小学校は別々だったので一年生から知り合った2人だが、かなりウマがあったのか共に居る回数も多く、自他ともに認めるほどの仲の良さである。

 家では父親相手に萎縮していた市禾も親友の前ともなるとやはり年頃の少女だ。噤んでしまっていた口元も今では緩んでいる。


 「さすがに今年は受験だしねえ。私もひとりじゃ心細かったかも」

 「うっ……その話はまだしないで、現実逃避してたい」


  そう、市禾達は今年で中学三年生。もう高校受験目前と言ってもいいほどの時期となっている。ただでさえ市禾は成績が平均より悪いのだから、これ以上積み重ねるとマズいと感じているようだ。

 珠李から腕を離し、手のひらで自分の耳を塞ぐような仕草をする。そんな一連の流れを終えた丁度に教室の引き戸が開かれ、市禾のクラス担任であろう教師が入ってくる。気づけばもうHRの時間らしい。


 「うーい、席につけー」


 担任が気怠げそうに声をかけると、珠李が離れる際に手を振ってくれたので、市禾も手を振り返す。他の同級生も着々と席につき始めた。ガタガタと動かされる椅子の騒がしい音の後、皆キッチリと座ったことで一気に静けさが訪れる。

 始業初日から色々と危うかったが、こうして市禾は無事に放課後になるまで学業を終えた。




 ――放課後。


 「……あぇ!?」


 机から顔を上げると同時に、そんな頓狂な声を上げる。どうやら授業の終わりに眠気の限界が来て机に突っ伏して寝てしまっていたらしい。珠李は居なかったが、恐らく帰ったのだろう。他にクラスにまだ生徒が居たことから安心感を得ると同時に、ふと時計を見る。

 午後四時半を針は指していた。


 「え、あ、か、帰らなきゃ!!!!」


 つかの間、ほんの数秒前とは打って変わって直ぐに焦ってしまい、急いで立ち上がってはガタガタと机と椅子を揺らして大きく音を鳴らしてしまう。

 それに驚き、どうしたこうしたとクラスメイトから視線を浴びているが今の市禾にはそんな事まで気にしている余裕がなさそうだった。


 「早く行かなきゃ、早く行かなきゃ……」


 教室から廊下へ。廊下から階段へ。そして玄関まで。市禾の持つ全速力を持って校舎外まで出ると、朝登校してきた自転車に乗って漕ぎ出す。


 ――逢魔時。

 ソレが市禾の焦っていた理由であり、また別名を大禍時と言う。昼と夜の移り変わる時刻の名で現在の午後六時頃とされており、夜に移ろうことで、妖怪や魔物が活発になるというもの。

 しかしながら、現代において古くの妖怪や魔物などといった存在は迷信とされ、いつの間にか存在を消されていたが。



 「ねえ


    もう帰るの?」



 ある程度進んだ帰路の途中。"ソレ"と相見える。


 「――あぁ、もう! 最悪! いつも執拗いんだから!」


 話しかけてきたその正体に、市禾は目もくれずに進んでいく。一体だけではない。何人も居る。男性の声も、女性の声も、はたや犬猫の声までも。決して後ろを向くほどの余裕は無いが、ただ数多ものソレが居ることだけが分かる。


 「助けて、助けてよう」


 「苦しい、苦しい……」


 見たくは無いが、視界に映ってしまう。全身を火傷している者、下半身のない者。眼球の無い者に、泣く事も無い赤子を抱いている者。

 ソレはこの世の者では無い。黄泉の亡霊であった。


 亡霊だけではない、生きている一般の市民も居る。しかし、どの者も市禾のようには焦っておらず、帰宅途中であろう人や友人と共に過ごしている人。何かから逃げているような素振りをしている市禾を不思議そうに見ている人。各々がそれぞれ"普通の生活"をしている。

 亡霊は市禾にだけが見えた。そして死者は、市禾だけを執拗に追っていた。


 「はぁ、はぁ……はぁ……!!」


 息切れも間もない時。自身の家がある山の麓まで差し掛かっていた。そして山中に入ると、自転車から降りて参道である山道を全速力で駆ける。神様が通る道だ、とかなんとかそんな礼儀の事を考えられてないくらい余裕が無い。せめて走りに変えただけ褒めてほしいくらいだ。


 「ま、間に合、え……!!」


 やがて鳥居が見えるようになると、一心に手を伸ばして触れる。

 ――――瞬間。亡霊は一斉に忽然と消え失せた。


 「ぜえ……はあ、もう……本当に最悪……!」


 思いっきりイラつきを露わにする。地団駄をしたりして発散をするが、結局そのやりどころの無い気持ちを押し込め、少し戻っては自転車を押して山道を登っていく。


 鳥居は、石造りのもので一般的な朱色ではない。鳥居には注連縄が掛けられており、柱には三日月の朱印に『大口真神』と書かれた札が貼られている。その両脇には阿吽の代わりに狼の像が置いてある。稲荷神社の方面では狐の像が置いてあることから、市禾の実家である神社は狼に関係する神格が祀られている事が予想できるだろう。

 亡霊が消えた理由も、鳥居から先は神域だからだ。成仏した訳では無いだろうが、少なくとも命からがらに助かったことだけがわかる。何回も相見えたが捕まったことは無いので、その先を考えるだけでもおぞましい。


 とぼとぼと歩いていく。普段から山登りをしているだけあって体力はそこそこにあるはずだが、今回の件に関しては消耗が激しかった。汗だくになってしまった体をさっさとシャワーを浴びて着替えたい気持ちに駆られるが、身体の疲れがその思いに応えられない。


 「もう、こんな眼、いらないよ……」


 ほぼ泣き言のように、独り言を呟いた。

 そう、市禾にだけ死者が見えたのも、死者が市禾に粘着していたのも、この瞳があったせい。見た目からは何の変哲もない瞳であったが、先程のように逢魔時になる事で亡霊を認識出来てしまうらしい。

 当然だが、好きで見ている訳じゃないので市禾はこれを忌々しく思っているようだ。




 「――あら、また私への愚痴を言ってるのね」

 

 やけくそに地面を蹴るように歩いていると、声が掛けられた。俯いていた市禾は、反応がワンテンポ遅れつつも顔を上げて相手を見てみる。

 どこかで聞いたことのあるような、通った声だった。


 「話があるの、聞いてくれる?」


 顔を合わせると、ニコッと微笑みを浮かべる。

 目の前の相手は、七つの誕生日に顔を合わせた。――あの獣耳の生えた女性だ。

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