第7話

鰻と大福


 ハナちゃんから即返事が来ました。一郎様がお昼寝している間に、素早く出てくるというのです。通っていた甘味処で待ち合わせることになりました。大原邸に行くと、お姑様の関与がありますので、そこはハナちゃんがなんとか抜け出して、私と二人きりで会おうということになったようです。

 もし一郎様がお昼寝しなければ、連れてでも出て来ると言ってくださるので、本当に感謝しかありません。


 私はまだ溶けていないものの、レモネードの元になるレモン漬けを瓶に入れて、風呂敷に包んで出かけました。日傘を差しながら、急いで向かいます。きっと短い時間になるでしょう。私はハナちゃんがここまでしてくれるのが本当にありがたくて仕方ありませんでした。

 甘味処の前で向こうからリキ車が来るのが見えます。きっとハナちゃんでしょう。私が手を振ると、ハナちゃんも手を振ってくれました。


「ごきげんよう」


「ごきげんよう。今日はごめんなさいね」


「えぇ。大丈夫。久しぶりだから楽しみにしてきたの。一郎さんはお義姉様がプールに連れて行ってくれたから…、しばらく大丈夫よ」


「そうなんですか。…申し訳ない」


「いいえ。私は妊婦だから連れて行けないでしょう? だから喜んでついて行ったわ」


 久しぶりに暖簾をくぐります。暑いので氷にしようかと思いますが、ハナちゃんは遠慮して、みつ豆にしました。


「久しぶりだわ。このお店も」


「私もです。生徒がいっぱいなので、なかなか入れなくて」


「それで…どうなったの?」とハナちゃんが体を寄せて聞きます。


 私はプロポーズを受けたような、受けてないような感じのことを話し、そして口づけをしたことも全て話しました。驚いて息を呑むハナちゃんでしたが、「大丈夫?」と心配もしてくれました。


「驚いたけれど…。嫌じゃなかったです」


「そう。…あのね、実は…」とハナちゃんが言いにくそうに言いました。


 三条家の本家の方で、正様の結婚相手を探すことになっているらしく、正様は反対していらっしゃるようですが、すでに二人ほど候補が上がっているようだ、と気を遣いながら話してくださいます。正様は好きな人がいます、と言ったらしいのですが、本家の人は「それは構わない」と言われたそうです。


「構わない?」


「…二号さんを…持てばいいってことでしょう」


「二号…さん? …私が?」


「そうなると思うわ。三条様の好きな人って…ユキちゃんでしょ?」


 私は頭を打たれたような痛みを感じました。自分の気持ち以前の問題があったのです。


「…あ…の…じゃ…あ。私…」


「ユキちゃんとデートした翌日にそんな話があるって、お義母さまが教えてくれたのよ」


 ショックを受けている時に、目の前に氷が置かれました。山盛りのあずきが乗っている氷です。いきなり食べる気が失せましたが、条件反射のように手がスプーンへと伸びました。


「ユキちゃん? 私…なんとか三条様に連絡を取ろうかと思っているの。お勤め先の病院の住所と電話番号よ」と言って、ハナちゃんは鞄から紙を取り出して、私に渡してくれます。


「ハナちゃん。ありがとうございます。でもこれ以上は…ハナちゃんは大切なお身体ですし。私が…一人でやってみます」


「大原邸に来てもらってもいいのよ。お義母様はユキちゃんのことを気に入ってるから。でも今日は二人で会いたかったから…」


「えぇ。いつも本当にお気遣いありがとうございます」


「ユキちゃん…だめよ。諦めては」


 ハナちゃんがそう言ってくれますが…、私が二号になるか、身を引くか…どちらかしか道はございません。そう思うと、もう私の取るべき道は決まったようなものです。やはり私は生徒たちを育てるのが人生の目標だと、神様もそうおっしゃっているのです。そう思っているのに、涙が溢れてしまいます。


「…ユキちゃん」


 ハナちゃんがスプーンを持ったままの手を握ってくれます。ガラス容器からはみ出ていた氷は溶けて、テーブルの上に落ちました。


「…素敵な恋でした。ハナちゃん。ありがとう。十分よ…。十分」


 口ではそう言っているのに、涙は少しも止まりそうにありません。ハナちゃんがハンカチを差し出してくれます。自分のを取り出そうとしても、上手くいきません。そしてハナちゃんにそっと目をハンカチで押さえてもらいました。


「食べましょう。まだ…何かできるかもしれないわ」


 そう言ってくれるハナちゃんは本当に頼り甲斐のある素敵なお友達でした。それでもこれ以上の迷惑はかけられません。夏休みということもありまして、私は明日にでも正様の病院に行ってみようかと思っております、とハナちゃんに伝えました。


「その足で、ハナちゃんに会いに行きますから…また慰めてくださいませ」


「そんな…。えぇ。もちろんよ」とハナちゃんがなぜか涙を零しました。


 私たちは恋をしたところで、それはやはり物語のように別の世界なのでございましょう。私は男性を追いかけて道なかばで息絶えることもなく、教師として一生を終えるようです。

 また氷がテーブルの上に落ちて小さな水溜りを作ります。慌ててスプーンを差し込みました。



 翌日、午前の診察が終わる前に私は病院に向かいました。入院もできるような部屋が少しあるような病院でした。私は受付に参りますと、


「診察券はお持ちですか?」と言われました。


「いえ…。あの…。三条先生に御用がございまして」と名前を言うと、じろじろ眺められて、「少々お待ちください」と言われました。


 最後の患者さんが呼ばれて、待合室には私一人だけになります。何を話したらいいのか、考えていました。考えても考えても何も思いつきませんが、涙が滲んでしまい上手くいきそうにもありませんので、私は百人一首を始めから順に思い出すことにしました。蝉丸までくると、最後の患者さんが出てきました。腰の曲がったおばあさんです。隣に腰掛けました。


「暑いですねぇ」と声をかけられ、


「えぇ」と返事したものの、それどころではありませんでした。


 おばあさんはおしゃべり好きなのか、あれこれ話しかけてきます。夏のきゅうりの漬物は少し酢をかけるとさっぱりするとか、なすは素揚げがいいけれど、油が高いから仕方なく焼いているとか…です。最初は興味がございませんでしたが、話しを聞いていると気持ちが逸がれるので助かりました。会計に呼ばれたので「お先に」と言って、おばあさんが立ち上がりますが、少しくらっとしたので、手を貸しました。


「大丈夫ですか?」


「あぁ、ありがとう。優しい娘さんだねぇ」


「そんな」


「あぁ、そうだ、孫の嫁に…どうだい?」と言われて、私は驚きました。


「えぇ?」


「うちの孫は軍人さんだよ。海軍の」と言って、お会計を済ませます。


「いえ…あの」


「ぜひ、来ておくれ」とお婆さんは私の袖を握りしめます。


 とりあえず、出口までお送りしようとしていると、


「ユキさん」と正様から呼ばれました。


「あれ? 先生の知り合いかね?」とお婆さんは振り向きました。


「そうですよ。山下さん…。ゆっくりでいいからたくさん歩いて骨を丈夫にしてくださいよ」と言って、正様が出口まで送ってくださいました。


 私の袖はいつの間にか離されております。


 おばあさんを見送った後、正様が微笑んで「ユキさんから来てくださるとは…よかったらお昼を一緒にどうですか?」と言われました。


「近くにカフェがあればいいんですけれど、鰻でも食べませんか。嫌いですか?」


「大好物です」


「よかった。僕も大好きなんです」とまた穏やかな笑顔を見せてくれます。


 そのまま出口を出て、すぐ角を曲がるとうなぎの暖簾が見えました。


「美味しいですよ。この病院で働いて、よかったと思ったのはこのお店が近くにあるからです」と言って笑います。


 本当に幸せになるような笑顔でございます。


 お店に入ると、店主さんが「あれ? お久しぶり…。あ、お連れさんがいらっしゃるんだね? 奥の座敷座って」とおっしゃいます。


 小さな畳のスペースに仕切りがされていて、二人で話すにはうってつけでございます。すぐにおかみさんがお茶を持ってきてくださいます。


「先生、本当、久しぶりよねぇ。前は週に三回は来て下さってたのに…。夏バテでもしてるのかしらって言ってたのよ」


「えぇ。そんな感じです」


「あら? えらく痩せたわねぇ。うちのうなぎ食べに来ないからでしょ? …はい、どうぞ」とお茶を私の前に置くと、おかみさんはじっと私を見て口を開けました。


「ありがとうございます」と言いますけれど、しばらく私を見て言いました。


「あ、先生、もしかして…この方?」


「あ…。いや…。…はい」


 私は二人のやりとりが分からずに見比べます。


「そりゃ、可愛らしいお嬢さんだものねぇ。…先生、もしかして…。あ、まぁ、今日は特上鰻にしておきますね」と言って、そのまま出て言った。


「すみません。何だか変な話をして」


「いえ…」と言って、顔が赤くなっている正様を見ます。


「…今日は来て下さってありがとうございます」と言って、私に頭を下げます。


「いえ、突然押しかけて…うなぎまでご馳走に…。あ、特上…じゃなくても」


「いえ。ぜひ特上で」と勢い込んでおっしゃるのも、何だかおかしくて、笑ってしまいました。


 すると安心したように正様も笑います。でも一つ気になったので、私は専門外ながら言いました。


「でも週三回のうなぎは…多いかと」


「え? あ、そうですね。もう食べません」


「いえ。そうではなくて…」と生真面目に返事されるのも微笑ましく感じました。


 男性にそんな気持ちを感じるのは初めてのことでございますし、不思議な気持ちです。でもお地蔵様のようだった理由が鰻のせいだ、と分かりました。大好きな鰻は楽しく美味しく召し上がって頂きたいので、辛気臭い話しは後にすることにします。


「以前に…初めてデートして頂いた時に…もうお会いすることができないと思いまして、帰りにここに寄って、鰻で悲しみを紛らわせておりました。その時におかみさんが話しを聞いて下さったので…。ユキさんのこと…」


「鰻で…悲しみを?」と思わず私はそちらの方が気になってしまいました。


「はぁ。…まぁ、上手くはいきませんでしたけど…。好物の鰻でも…と」


 私は手のひらをぎゅっと握りました。背の高い正様が鰻で悲しみを…と想像すると、もう堪らなく愛しくなります。


「いや…。お恥ずかしい」と言って、俯きます。


「いえ…。鰻は私も好物ですから…。悲しみが紛れるかは分かりませんけれども…、食べたくなる気持ちは分かります」


 私はなんというか、心臓がくすぐったいような気持ちで黙り込み、正様は顔を赤くして俯いております。そうしているうちに、おかみさんが特上鰻を運んでくれました。


「え? どうしたの? お二人とも…。やけに静かだと思ったら」と私たち二人を見て、言いました。


 立派な鰻がお重に詰められております。お吸い物、香の物もついております。


「先生、しっかりなさい。可愛らしいお嬢さんじゃないですか」と言って、何かを耳打ちしました。


 途端に、正様は私を見ます。


「本当ですか?」


「何が…でございますか?」


「あ、いえ、すみません」とまた謝ります。


 おかみさんは笑いながら「ごゆっくり」と言いました。


「では頂きましょう」と正様が何事もないようにおっしゃるので、私も手を合わせます。


「頂きます」


「頂きます」


 思わず声が揃ったので、笑いました。


 白米の上に乗った、身の厚い鰻はふくふくと柔らかく、端の方は香ばしく焼かれております。口の中には幸せなおいしさが広がって、目の前には幸せそうな正様も顔があります。私は鰻も正様も大好きでございます。会う度に好きになっていきます。


「美味しいです」と私が言うと「そうでしょう」と何度も頷いてくれます。


 お腹が苦しくなるほど、食べました。


「ユキさんは少食のように見えましたけれど…」と言われてしまいます。


「いつもこれくらいはペロリです。…でないと教壇に立つのも大変ですから」と少し恥ずかしくなって、小さな声になってしまいます。


「いや、僕はそれくらい食べてくれる人がいいです」


「三条様…」


 そろそろ潮時かと思いまして、私は話を切り出そうと思いました。すごく素敵な方ですが…やはり縁というものは仕方ありません。


「おかみさんが」と正様も口火を切ります。


「おかみさん…ですか?」


「さっき僕に言ってくれたんですけど…お似合いだと言ってくれて…」


「あ…」


 さっき耳打ちしていたのはこのことだったのですね、と私は納得しました。


「つい嬉しくて…。声を上げてしまいました」


「あの…私…ハナちゃんから聞いたんですけれど、三条様はご結婚相手がいらっしゃると伺いまして」


「…それは」


「…やはり私には勿体ないお方だと思います」


「…僕の心はそう思っておりません。どうしても結婚しろと言われたら…台湾の方へ行こうかと考えておりました」


「台湾?」


 私は驚いて目を丸くしてしまいました。


「台湾の方で手伝いをしてる人が探しておりまして。どうしても結婚というなら…台湾へ行こうかと」


「…でもそれで…ご納得されますでしょうか?」


「…では…駆け落ちでもしましょうか?」


 私は一体、どうしたらいいのか分からなくなりました。


「ユキさんと一生を過ごしたいのです。時折、鰻を食べて…。一緒に縁側で大福を食べて…」


 恐ろしいことに、私はリアルに縁側で並んで大福を食べている様子が再現できました。その時はきっと幸せな気持ちで庭を眺めているでしょう。


「…私も…そうしたいです。ですが…」


 不意に、心の底からの願望が口から出てきてしまいました。


「そうしたい…とおっしゃってくださいましたか?」


「えぇ…。でも…」


「では…そうしましょう」


 私はどうしていいのか分からなくなります。そもそも結婚の話も考えなくてはいけないのに、結婚を受けるような返事をしてしまった、と気づきました。


「でも…お待ちください」


「なんでしょう?」


「私…まだ…」


「結婚しても仕事を続ければいいではないですか?」


「え?」


「僕もあなたも働いたらいいんです。それは何の障害にもなりませんよ」


 にこにこ笑う正様を見て、私は驚きました。結婚したら仕事を辞めるのは当然でしたから…。


「でも家事が…」


「女中さんを雇えばいいんですよ」


「あの…でも…子供が…」


「乳母もいるでしょう…。それにユキさんほど、優秀な先生でしたら、きっと復職するということもできます。…ユキさんのお気持ちが固まれば…ご挨拶に伺いたいのですが」


 私はいきなり話が決まってしまったような気持ちで慌ててしまいます。


「でも、とりあえず僕の方の問題を片付けなくてはいけません。もし…台湾に行くなら…ついてきてくださいますか?」


 台湾…。いきなり遠い場所を言われても私は何の想像もつきません。


「台湾にも教える仕事はあると思いますよ」


「先生のお仕事ですか?」


「そうです」


 思わず黙って考えてしまいます。おかみさんがお茶の準備をしてくれます。


「先生…、可愛らしいお嬢さん、どこで知り合ったの?」


「従兄弟のお嫁さんのお友達なんですよ」


「あら…。それはそれは」と言って、「頑張りなさい」と肩を叩いて去っていきます。


 二人の会話をぼんやり聞きながら「…あのこの話は今度ゆっくりでも…」と言いました。


「えぇ。嬉しいです。デートしていただけるのなら、いつでも」


「またご連絡します」と私は言いました。


 突然の話の展開に頭がついていきません。病院前で正様と別れると、私は大原邸に急ぎました。ハナちゃんに相談をしようと夏の日差しが影を短くする午後、日傘を差して急ぎました。

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