第8話

駆け落ち旅行


 汗だくで大原邸をノックしました。


「いらっしゃい」とハナちゃんも急いでドアを開けてくれます。


「ハナちゃん」


「早く、入って」


 まるで私たちは誰にも見つかってはいけないような雰囲気で慌てて応接室に入りました。


「ちょうど、お姑様が出かけているの。一応来ることはお伝えしてるんだけど」と言いながら、ハナちゃんは私を見ます。


「あの…、どうしよう」と汗をかいているのに、手の震えが止まりません。


「ちょっと待って。そこに座って。すぐに何か飲み物を用意するわね。女中の方にもいいからって伝えてあるの」と言って、急いで出て行きます。


 私は吹き出す汗をハンカチを取り出して拭います。拭っても、汗は止まりません。しばらくすると冷たいサイダーを入れて持ってきてくれました。


「この間、いただいてそのまま出せなかったから…」と私に手渡してくれます。


 冷たい感覚が心地よく、私は一口飲みました。


「あの一郎様は?」


「一郎さんはお母様とお出かけしているの。近所のお友達のところへ行くっておっしゃって」


「じゃあ、すぐに話すわね」と言って、さっき正様に言われたことを話します。


「え? 台湾?」とハナちゃんも驚いてます。


「それもどうなるか分からないけれど…」


「そうね。とりあえず、事態を把握しなければいけないけれど、三条様は決められた方と結婚をする意思はないし、もし無理にでもことを運ぶのだとしたら、台湾へ行くっておっしゃってるのよね?」


「そう…。そうなの」


「それでユキちゃんの気持ちは? どこまで決まったの?」


「私…。あの。大福が…」と突然、言い出したので、ハナちゃんは「大福?」と復唱してくれました。


「縁側で大福を一緒に食べたいって言って下さって…不意にその情景がリアルに浮んで…、私もそうしたいと思いまして…、そうお伝えしましたの」


「まぁ」と丸い口が開きました。


「…でもそれは…後先考えずというか」


「でも本心ですわ。考えれば、考えるほど…多分…正解からは遠くなりますもの」


「えぇ。気持ちは一緒にいたいのですけど…」と俯いてしまいます。


 ソーダーを手にしたままなので、ガラスについた水滴が手のひらを濡らします。


「その気持ちを…いい形にできたらいいのですけど」とハナちゃんもため息をつきます。


「駆け落ち…って、ハナちゃん考えたことございますか?」


 するとハナちゃんは目を大きくさせる。


「ユキちゃん…。私…」と言って、ここだけの話だけど、と断ってから「ある」と答えてくださいました。


「でも勇気がございませんでした。それに…。いえ。ただの意気地なしです」


 そう言って、駆け落ちしたことを想像する時もあるとも。私はそんなハナちゃんを見ると、思わず抱きしめてしまいました。でもハナちゃんはすっと体を離すと、私の顔を見て言います。


「そうよ。ユキちゃん。二人で旅行なさったら?」


「え?」


「私の息子と一緒に夏の旅行に行きましょう。それでたまたま…偶然にもそこへ三条様もいらして…って言うのはどうかしら?」


「そんな…」と息を呑みます。


「夜は私たちの部屋に戻られたらいいですし…。もしあれでしたら…先に休んでおきます」


 なんてことを…と思いましたが、その案を聞いた時の私の胸は大きく波立ち、そして強く惹かれました。


「あの…私…。はしたないと思いますが…行きたいです」


「えぇ。では行きましょう」


 そうです。私は結婚しないと決めたような女ですから、親に決められた結婚相手がいる正様を好きになってもいいのだ、と勝手なことを考えておりました。


「でもね。ユキちゃんが嫌なら…無理しないで」


「緊張はしてますけれど…。でも…女は度胸ですわ」と言って、無理矢理、笑った。


 夏休みですもの、旅行に行くことは…自然なことです、と何度も繰り返した。


 結局、旅行には大原様のお姉様も付き添いで来てくださることになりました。大原様のお姉様は何もかも事情を知っておられるようで、従兄弟である正様への旅行の相談もしてくれました。自分も秘密の恋をしていると言って、そして何から何まで手配してくださったのです。


 当日、ハナちゃんたちは車で私の家まで迎えに来てくださり、私の家族に挨拶までしてくださりました。家族旅行にお邪魔させて頂く体を装い、誰にも彼にも申し訳なく思いながら車に乗り込みます。駅まで送ってくださると、そこには正様が待ってくださっていました。まるで駆け落ちしているかのような気持ちになります。ハナちゃんと一郎様とお姉様は車で向かいます。私の旅行鞄も運んでくれるそうなので、身軽です。


「ユキさん…」と正様は何だかひどく感動したような顔をされました。


「…すみません。こんなことをお願いして」と私は謝ります。


「本当に…話を伺った時は耳を疑いました。嬉しくて。でも…いいのですか?」


「いいのです。結婚…できなくても…私は三条様を…お慕いしておりますので」と言うと、正様は申し訳なさそうに眉を寄せます。


 汽車が参りました。私たちは二等席に乗り込みます。一等席だと知り合いに合うからと言って、謝られました。私はますます駆け落ちしているような気持ちになります。きっとそういう雰囲気に酔っている気分も少しあったと思います。

 横並びの二人掛けの椅子に座りますと、「手を繋いでもいいですか?」と言われます。


「はい…」と言って、私から手を出しました。


「何だか夢のようです」


 温かい手の温もりを感じながら、夢かもしれない、と私は思いました。きっと夢だ、と。


「きっと…」とそれだけ言って、私は目を閉じました。


「ユキさん…」


 私は返事をしようと思いましたが…昨晩からずっと緊張していたのが、急に解けてしまい眠気が襲ってきました。


「ゆ…め…」と言ったような気がしますが、記憶は途切れました。


 電車の揺れはまるで赤子のように眠ってしまいます。ゆらゆら揺れて、眠れない人はいないでしょう。


 目が覚めた時はもう随分景色が変わっていました。山ばかりです。


「お目覚めですか?」と言われて、どうしてここにいるのか思い出しました。


「…あ、おはようございます」と間抜けなことを言ってしまいました。


「よく寝てらっしゃるようで…気持ちよさそうでした」


 私はどうやら正様の肩に凭れていたようで、慌てて体を起こします。


「すみません。重かったでしょうか」


「いいえ。温かったです。可愛い寝顔だったので、飽きずに見ようと思いましたけれど…穴が空いては困るので…僕も目を閉じました」


「眠れましたか?」


「いいえ。少しも。嬉しすぎて、何度も目を開けて、確認しました」と優しく、笑いかけてくださいます。


 何時かと訊ねると、もうお昼を回っていたそうです。私はお昼ご飯を旅行鞄に詰めていたことを思い出しました。


「あぁ…私ったら…。三条様と一緒に食べようとたくさんおにぎりを作ってきたのですけど…。うっかりハナちゃんたちの車の中の鞄に入れてしまいました」と慌てて謝りました。


「じゃあ、足りないかもしれませんが」と三条さんは自分の鞄からビスケットを取り出してくれます。


 いい大人の二人が並んで座ってビスケットを食べます。


「美味しいですね」と言いますと、「ユキさんと一緒なら、なんでも美味しいです」と答えてくれます。


 幸せでした。ただそれだけで、胸が温かくなるような心地がします。恋愛が苦しいだけではないことを知りました。


「ユキさん…。このままどこかへ行けたらいいのに」と正様がおっしゃいます。


「今から…山に行きます」と私は今度はわざと見当違いなことを言いました。


 もう先のことは考えても仕方がないのだ、と分かっております。大原家のお姉様があれこれ手を尽くして旅行ができるようにしてくれたのは、叶わない恋だからだと思います。少しお姉様から聞いたところによると、結婚相手の候補者二人の内、一人に絞られ、お相手も色良い返事をしているとのことです。正様だけが返事を渋っておりますが、きっとお優しい正様がお家を捨てることはないでしょうし、私も家族と縁を切ることはできません。それはお互い様でございます。


 山の中の空気は新鮮で窓を開けておりますが、トンネルに入る時は窓を閉めないと煤が入ります。慌てて皆さん閉められるので、私もそれに倣って、窓を閉めようとしますけれど、硬くて動きません。後ろから正様が力を加えて閉めてくれます。正様に近づいて、温かい匂いを感じます。私は微笑んで感謝をしました。誰から見ても、仲の良い夫婦に見えることでしょう。


 束の間の夫婦でいられるのですから…。束の間だけかもしれませんが、それでも幸せなことでございます。

 トンネルに入りました。窓には幸せそうな二人が切り取られておりました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る