第6話
初恋
私は初めて恋をしました。溌剌としていたハナちゃんのため息が増えたのも、ようやく気持ちが分かります。私も一人になるとため息をついています。でも生徒の前ではそんなこともできません。私はしっかりと授業をしなくてはいけません。
「…いたずらになりにけり」と読んで、生徒を見ます。
伊勢物語の梓弓の授業をしておりました。
ずっと待っていたかつての男が三年ぶりに来ました。しかしその三年間に言い寄られていた新しい男と今日、結婚すると言うタイミングで。
女は素直に戸を開けることができずに「今夜結婚する」という和歌を読みます。そして男は「新しい人と幸せに」と言って去っていくのです。去った男を慌てて追うが追いつかず、女は道の途中で思いを残した和歌を読み、亡くなってしまうと言うお話です。
「先生」と一番後ろの生徒が手を挙げます。
私が彼女を当てますと、思いがけない質問が来ました。
「急に走ったくらいで、彼女はどうして亡くなったのでしょうか?」
私は困りました。死因と思われることは書いていないからです。しかしまた手があがりました。
「追いかけても追いつかないと言うくらいなのですから。この男はものすごい勢いで走って逃げたのでは?」
そこから大討論が始まりました。
「ではなぜ、三年ぶりにわざわざ女の元へ?」
「気まぐれで声を掛けたのでは?」
「気まぐれで声をかけて、女がつまらないプライドを出したから逃げたのでは?」
「それにしてはお互い全力疾走で…変な気がします」
私は女学生たちが、あれやこれやと意見をするのを聞いておりました。
「先生はどう思われますか?」
「物語は読んだ人だけの解釈がございます。ですが、書き手の思いを読み違えては決していけません」と前置きをした。
「ここでは女の愛情と男の愛情の違いを描いているように思います。女は…ずっと長く思い続けておりましたが、新しい夫のために戸を開けることができません。男は彼女を思って、新しい人と仲良くするように、と言って去っていきます。愛情のすれ違いがここで起きています。女は一度は閉ざしてしまったものの、やはり愛情を捨てきれずに後を追ったのでしょう」
そうでございます。私は身を持って分かりました。
「女を思って、立ち去るという男の愛情が彼女の命を絶ってしまう。女性は愛を捨てきれずに、絶望の果てに亡くなった…というお話ではないでしょうか。昔の物語は現実的な描写ではあり得ないこともございます。源氏物語でも…夕顔はもののけのせいで命を落としております。ただ、愛する人に想いを伝えられない辛さは死に値するほどの絶望だったと考えます。恋とは、人の気持ちとはままならぬものでございます。…よろしいでしょうか」
私がそう言った後、まるでチャイムが待ってくれていたように鳴り響きます
授業が終わったのに、なぜか学生たちは座ったままです。
委員長を見ると、慌てて
「起立」と言いました。
そして礼をして、私は教室を出ようとした時、なぜかため息が聞こえ、女学生の声が聞こえました。
「吉水先生…きっと恋をなさってるのでは?」
「最近、綺麗になってますものね」
生徒の声が聞こえた。恋はもう終わってしまったというのに…と私はため息をつきました。昔から愛情を向けられても素直に受け取れない…不器用な女性がいるのだと。ただ彼女の方は新しい夫がいたという理由がございましたけれど。
私は仕事に邁進し、気がつけば夏休みが始まりました。暑くて、暑くて仕方のない夏です。ハナちゃんから遊びに来ないか、と言われてサイダーを持って訪ねていきました。
「いらっしゃいませ」と少しお腹が大きくなったハナちゃんが微笑みかけます。
私はまた後ろに隠れている一郎様にご挨拶をしました。すぐに出てきてくれて、挨拶をしてくれます。
「サイダーを持って来ましたの」と言って、お渡ししました。
「まぁ、いいわねぇ。少し冷やしてもらいましょうか」と言って、ハナちゃんは喜びます。
サイダーを冷やしてもらうように言ってくると、ハナちゃんは私を応接室に案内すると一郎様と一緒に出ていきました。窓が開け放たれておりましたが、少し暑い日でした。蚊取り線香をすでに焚いていてくれたようです。
「失礼します」とノックと共に正様が入って来られました。
「あ、今日は」
「今、ハナさんとお会いして…。ユキさんが来てると聞いたもので、ご挨拶に来ました」
「お久しぶりです」と私は立ち上がりました。
「今日は叔母さまの健診でして」
「え? どこか具合が悪いのですか?」
「いえ。血圧が少々高いというだけです」
「そうですか…」
少し痩せられたような面立ちでお地蔵様のようなふっくらしていた頬がなくなっております。
「お元気でしたか?」と聞かれて、思わず「三条様は…少し痩せられましたか?」と聞いてしまいました。
「夏は少し痩せるのです。人間の摂理です」と相変わらず穏やかな笑顔でおっしゃいます。
「私は…夏休みに入りましたので、遊びに来ました」
「タイミング良かったです。少々面倒に思っていましたが、叔母さんの健診に来てよかったです」と笑います。
「そんな…」
「…僕はお顔を見れただけでも良かったです」
私はどうしていいのか分からずに…少し微笑もうとしたら、涙が溢れました。正様が慌ててそばに来てくださいました。
「そんなことを言っていただけるような人間ではございませんの…に」とハンカチを渡される前に私は自分のものを取り出して拭きます。
「ユキさん…。僕は…君の人生を思っています。教師を続けたいというあなたの気持ちを…」
そうです。あなたのその気持ちが…と、私は心の中で呟きます。
「大変ありがたいことです。…私は三条様のお力になれずにいるのに」
「でしたら…。一緒にミルクホールに行きませんか?」
思いがけない提案に私は顔を上げます。
「こんな誘いをするのに…結婚を申し込まないと本当は失礼なのだと思うのですが…。ただ…私は一緒に時間を過ごしたいのです」
「私も…お話したいと思っておりました」
そして私も自分では思いもかけない返事をしておりました。あの伊勢物語の授業のせいでしょうか。
「本当ですか」と嬉しそうに微笑まれる正様の顔を見て、私も明るい気持ちになります。
そしてすぐに約束の日時を取り決めると、部屋を出て行かれました。私はなぜか疲れを感じてソファに座り込みます。しばらくするとハナちゃんがカルピスを持って、戻ってきました。ハナちゃんは私がソファに座り込んでいるのを見て、驚きました。
「三条様と何かございました?」
「えぇ…」と私が譫言のように返事をすると、ハナちゃんが謝りました。
私が今日来るということをお姑様に伝えたところ、正様に健診に来なさいと呼びつけたようです。策士はハナちゃんのお姑様のようです。
「三条様…いい人だと思うけれど」とハナちゃんから何があったのか聞いてはいけないようなそんな気持ちでヤキモキしているのが伝わります。
「ハナちゃん…。私…初めて恋を」
そう言うと、驚いて、目を大きくして私を見ました。
「そのお相手は…三条様で間違いないの?」
「えぇ。でも…私、どうしたらいいのか分からなくて」
「こんなこと…ユキちゃんに言ってもいいのか分からないけれど…。三条様ね。ユキちゃんとデートした後からものすごく元気を無くされて…それでご飯も食べれなくなってしまったって。私も驚いてお会いした時に、聞いたの。そしたら『医者が治せない病気です』っていうからさらに驚いて…。そしたらお姑様が言うにはあれは『恋煩い』ですって」
「恋煩い?」
「だから…今日、またお呼びになって。私、ユキちゃんの気持ちも確認せずに…」
「ハナちゃん。私、初めて知ったわ。こんなに…辛いことだとは。恋って私…もっと幸せなものだと思ってたのに…」
私はハナちゃんに相談しました。ハナちゃんは恋も経験したし、結婚も経験しております。
「隣の芝生は蒼く見えるって本当なの。だから私はユキちゃんの自立した女性の姿に憧れるわ。私は幸せなことに婚家で大切にしていただいているけれど…時折、息苦しさも感じるもの。だから結婚をしなさいも、やめなさいも言えないの…。どちらの道を選んでも大変だと思うし、幸せもあると思うから。でも好きな気持ちを抑えなくても…いいえ。抑えられないでしょう?」と私の顔を覗き込みます。
「えぇ。私、本当に驚いてるのですけど…。恋をして自分が自分でないような気持ちです。結局、デートのお誘いを受けてしまって。どうしても…断ることができなくて」と喋っていたら手が震えます。
ハナちゃんはその手を上から包んでくださいました。
「悪いことじゃないのよ。そんなこと、少しも」
本当に混乱しました。私は自分の道を逸れるのか、そのまま行くのか。
「きっと、どちらを選んでも、ユキちゃんは幸せになれるわ。今、気持ちが動く方へ行くしかないの…」とハナちゃんはかつての自分がそうだったのを思い出すように私に話しかけて下さいます。
「気持ちが…」
「そう。…それでも上手くいかないこともあるのだから」と少し悲しそうにおっしゃって「私はユキちゃんを応援するから…。どんな結論になろうとも…。だから今は自分の気持ちを大切にして」と包んだ手に力を込めてくださいました。
ハナちゃんは自分がお辛い経験をしたと思いますが、だからこそ…といった気持ちで私を応援してくださいました。ただ私は自分の気持ちを決めかねたまま正様にお会いしていいのか、としばらく悩みました。
でも会いたいという気持ちに従ってみることにしました。そうです。ハナちゃんが言うように、それでも上手くいかないことだってあるのですから。
そして私は正様とミルクホールに出かけました。
私は牛乳たっぷり入ったコーヒーにお砂糖を入れて飲みます。正様はそれにウィスキーが入ったものを召し上がっておられました。私は最近読んだ本の話をしたり、正様は最近、往診しているお家が飼っている犬の話を教えてくださいます。その家は主人が聴診器を当てれるのを庭から覗いている大型犬で、それを見ていたせいか、いつも玄関先で自分からお腹を見せるそうなのです。お腹を一撫で、二撫でして「異常なし」と言ってあげるのだそうです。
「まぁ、人間だけでなく、ワンちゃんもわかるのですか?」と驚きますと、「それは専門外ですが、機嫌が良さそうくらいは分かります」と冗談を言ってくださいました。
「犬の機嫌は分かりますが…人の…特に女性の機嫌は難しいです」
「そうでしょうか? 私の機嫌も難しいでしょうか?」
「ユキさんの機嫌ですか?」
「はい」
「…それは…難しいですね。女性は笑ったかと思えば、涙を流したり…到底、男には分からないものです」
「そうですか。私は男の人の方が分かりません」と言って、コーヒーを口にしました。
「僕の機嫌は簡単ですよ。ユキさんといられて、有頂天ですから」
お酒が入っているせいでしょうか。とても浮かれた様子です。
「私…」と言いかけた時、正様がこちらと見ているのに気がつきました。
視線がどうにも居た堪れなくなり、思わず俯きます。
「もしユキさんの気が変わって、誰かと結婚したいと思う日が来たら、教えてください。一番に名乗り出ますから」
そんなことを言われて、嬉しくない女性がどこにいるのでしょう。
「分かりました。結婚するなら…三条様と決めておきます」
「本当ですか?」
「…えぇ。でもまだ…」
「分かっています。それでも嬉しいです」
私はまだ何も決めれていないのに、と思いながらも、嬉しそうな正様を見るのは幸せなことでした。
その日、夕暮れの柳の木の下で正様にキスをされました。その時、思い出したのは女学生の頃に結婚相手とキスをしたという友人の話です。あれから…三年。少し大人になったようで、あの時の分からなかった気持ちが理解できたようです。
唇が離れて、私は正様を思わず見つめてしまいました。
「…好きです」
そう言われて、抱きしめられて、腕の中で少し早いような正様の心音を聴きました。安心するような心持ちでしばらくその音に耳を傾けてしまいます。日が沈んで、すっかり暗くなりました。早く帰らなければ…と思いながらも、この暗さの中に溶けてしまえたらいいのに、と思い、またそう思った自分に驚きました。
人の足音がして、ようやく腕が解かれました。
それから私は慌てて歩き出しました。正様が追いかけるような感じで歩いてきます。バス通りまで黙って歩きます。
「…怒ってますか?」と遠慮がちに聞かれました。
「いいえ」と怒ったような声が出ました。
「…本当に?」
本当ですと言いたかったのですが、涙が溢れてしまいました。それは混乱から来た涙なのですが、正様はとても慌てられたようです。
「大丈夫です」と言って、急いで涙を拭きました。
「またお会いできますか?」と正様が遠慮がちに聞きます。
私は少し考えました。
「えぇ。でも…ひと月後にしてくださいませ」と言った。
それまでに自分の気持ちをどうにかしておかなければ、いけないと思ったからです。
「ひと月後…。分かりました。今日と同じ時間、場所で」と言って、ひと月後の日曜日の約束を決めて、別れました。
ハナちゃんに急ぎ、手紙を書こうと思いましたが、何を書いていいのか分かりません。自分がどうしたいのか、それすらも不明瞭です。好きな人と一緒にいることと、やりがいのある仕事を続けることとで…反してしまうのです。
結局、夏の終わりに作ったレモネードの話を書いて、手紙を出しました。レモンと…はちみつは高かったので、氷砂糖で作ったのです。話を聞いてほしくて、それを良ければお裾分けする、と書いて。作ったその日に気が早いですが手紙を出しました。ハナちゃんが返事をくれる頃にはうまい具合に浸かっているといい、と思いながら。
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