第5話
あなたのハンカチ
日曜の銀座は賑やかな人通りでございます。洋装の女性もちらほら通り過ぎて行きます。私は久しぶりにこんなところに来ていて、少々浮いていないか、百貨店のガラス戸に映る姿をチェックします。日傘を指して桃色の撫子柄の着物を着ておりますが、少し若作りに見えるでしょうか、と不安になります。
「お待たせしました」と私がガラス戸で姿を写すのに必死になっていると、横から声をかけられました。
お地蔵様のように穏やかに微笑む正様、本日はカンカン帽に白いシャツという爽やかなスタイルです。
「あ。いえ、あの…こんにちは」と私は慌てて頭を下げます。
「では、カフェに行きませんか」
「はい…」と言って、私は大人しくついていくことにしました。
カフェまで歩きながら、ふと今、ここでハンカチを返してもいいのではないだろうか、と思いつきました。
「あの…」
「はい?」
「ハンカチを持って参りました」
「えぇ」と少し真面目な顔でこちらを見ます
それで私は慌てて鞄からハンカチを取り出しました。
「それは…つまり僕とカフェに行きたくないということですか」
初夏の日差しが眩しい、人通りの多い銀座で、二人は立ち止まりました。明るい顔をして通りの人が間を通り過ぎていきます。私は何かを間違えたのだと思います。でも一緒にいるのが嫌だというよりは、カフェで面と向かって男性と一緒に過ごすことが恥ずかしいのですが、何やら誤解を与えたようです。
「あの…私…恥ずかしくて。歩きながら…お話くださいませんか」
「え?」
「私、その…家族以外の男性と二人きりになったことがございませんので」
「カフェが嫌だったのですか? 僕が嫌ではなく」
「カフェが嫌というわけでも…なくて。あの二人きりになると何を話したらいいのか」
「では一緒に歩くのはいいのですか?」
「えぇ。歩くと気が紛れて、少し緊張が収まります」
「分かりました。銀ぶらと行きましょう」
少し穏やかな顔になられたので、私は安堵しました。そしてハンカチを返そうとしましたが、正様が微笑みながら「また後で」と言われたので、鞄にしまいました。そうして、二人で銀ぶらというものをしました。銀座は建物が西洋風なので、御伽の国にきたような気持ちになります。
その間に、いろんな話をしてくださいます。お医者様ですから、辛い話も中にありました。
「もう心臓の音も聞こえない、冷たい体の子供を往診したこともある…。生き返らせることはできないからね。辛かった」
「…そうですね」と私も悲しくなりました。
「こんな話、すみません。いつもは呑気な内科医ですよ」
「ええ。でも…やはり大変なお仕事だと思います」
「女学生も大変でしょう」
「いえ。みなさん、本当に可愛いですし、勉学も熱心ですわ。私も頑張って、その思いをお手伝いさせて頂こうと思っております」
「でも…。あなたは…みなさんと少ししか変わらないのではないですか? 僕が見たら、どっちが先生か分からないかもしれません」
「え? そんな…。あ、今日は少し…若い格好をしているからかもしれません」と桃色の着物を着たことを後悔しました。
桃色の着物は顔を明るく見せてくれ、家族からもよく似合うと言われていたので、着てきたのですが、やはりもう少し大人の格好をするべきだったと反省します。
「とてもお似合いですよ。撫子の柄と…あなたの可愛らしさが出てます」
(あぁ、やはり…正様はプレイボーイでいらっしゃる)と私は思わず正様を見上げました。
相変わらずのお地蔵様のようなお顔ですが、きっと皆さん、油断してこの方に騙されているのかもしれません。
「あの…三条様は…お付き合いされている方はいらっしゃらないのですか?」
「そんな人がいたら、デートは申し込みません」
「デート?」と思わず聞き返してしまいました。
「デートじゃなければ、何なんですか?」
「デート…? どうして私のような? 特別綺麗でもない…本の虫ですけれど…それはご存じないと思いますし」
「…そうですか? 綺麗…ですよ。僕は可愛らしい方だと思いましたけど」
私は少しも納得できなくて、どうしてハナちゃんの旦那様も例にあげて、よく分かりもしないうちに好意を持つのか、と質問してみた。
「清は…一目惚れだと聞きましたよ。偶然、通り過ぎた彼女を見て、大騒ぎしてましたから」
「大騒ぎですか? まぁ、ハナちゃんは本当に溌剌として、可愛らしくて、気持ちのいい方ですから」
「えぇ。いろんな伝手を探って、彼女との縁談に漕ぎ着けたようです」
「そんな風には少しも見えませんけれど…」
「まぁ、格好をつけているんでしょう。三条家の女学校出身の従姉妹に頼って…後輩を探してもらって…名前を知って…って。本当に大騒ぎでしたよ」と言って微笑まれました。
あの旦那様が…と私は心の中で思いながら首を傾げます。間の悪いところはありますが、いつも洗練された動きでいらっしゃいますのに、分からないものです。
「それでよく分かりもしないうちに…という質問ですが…。僕は初めて、もっと知りたいと思ったからです」
「え?」
「初めて、もっと知りたいと思ったから…慌ててハンカチを渡しました」
私は正様を見ました。お地蔵様が真剣な顔でこちらを見ています。
「私は…三条様がプレイボーイだからかと思いました」
「なるほど、それで警戒されたわけですね」
「警戒というか…。…はい。警戒しました」
「素直ですね」
「何だか、嘘は良くない気がしまして」
「どうしてです?」
「それはなんでも正直に話してくださる三条様に私も嘘はつけません」
「それはよかった。思ったように芯のある人ですね」
「私、自分のことはよく分かりません。いろんな本を読むのが好きで、人のことなら…分かりますけれど、自分のこととなると、さっぱりで。でもハナちゃんと話していて、私は教師になろうと、唯一、それだけは自分で納得のいくことでございましたし、努力もしました」
「そうですか」
「はい。ですから…結婚は…私には」
「結構なことだと思います」
「えぇ。この道を生涯かけて頑張っていこうと思っています」と私はなぜか正様に宣言しました。
そうです。生涯かけて、この道を進もうと決めております。でもただの一日くらいはデートしても良いかと、今日のこの日を思い出にしても良いかと思いました。
「そろそろ、休憩したいのですが。もうカフェに入ってもよろしいですか?」と正様に聞かれました。
私のせいでたくさん歩かせてしまったようです。申し訳なく思い、了承しました。それに少し気持ちがほぐれて、お話するのが苦痛ではなくなったのです。自分の気持ちも少しはうまく言えるかもしれません。私たちは流行りのカフェの扉を押しました。
そこには可愛いエプロン姿の女給さんがいて、ガラス窓はステンドグラスでまるで西洋のお城のようです。
「わぁ」と思わず声が上がってしまいました。
「初めてですか」と微笑みながら聞かれました。
「えぇ。中に入ったのは初めてで。こんなに素敵なところなんて…」
女給さんが運ぶものもアイスクリームや、美味しそうな洋食ばかりです。案内されて、二階の席に参りました。半分だけ二階ですからスペースは小さいのですが、それはそれで雰囲気がよくて、まるで西洋のお話に出てくる屋根裏部屋のようです。
「ここでもよろしいですか?」と正様が聞いてきます。
「どこでも…。ここでしたら、下の階も眺められますし、天井が低いのも屋根裏部屋のようで楽しいです」
「あぁ、本当によかった」
「ありがとうございます」と言って、私は周りをキョロキョロ見回します。
絵本で見たような絵画がかけられ、美しいガラスに花が飾られ、テーブルには白いテーブルクロスがかけられ、何もかも海外の本の中で、頭の中で想像した世界にいるのが嬉しくてたまりません。一通り見回して、正様を見ると、メニューを見ていると思っていたら、メニューで顔を隠して笑っていらっしゃいます。
不慣れな私の様子がおかしかったのでしょうか。
「あの…すみません。お恥ずかしい限りで。本でしか…知らないような世界に来たような気がして…」
「いえ。…いや、かなり可愛いと思いまして」
「え?」
「よかったら、何度でもお連れしますよ」
「何度でも…?」
正様はお暇なのでしょうか、と考えて、お医者様がそんなはずありません、と考え直しました。
「お忙しいのに…それは申し訳ありません」
「メニューは決まりましたか?」と言われて、慌ててメニューを眺めます。
「僕はお昼がまだですので、一緒によければどうですか?」
私はなんてことをしたのでしょう。お昼を食べていないのに、随分と歩かせてしまいました。もちろん私も食べておりませんが、胸がいっぱいでお腹が空くという感覚が分からなくなっておりました。それにハンカチを返して、すぐに帰るだろうと思っていたのもあります。
「では…一緒に。あの…何がよろしいのか分からないので、同じものを注文していただけますか?」
「そうですか。それでは美味しいものを選ばせてください」
そんな風に何もかも優しくしていただいて、楽しい話をしてくださったり、私の本の話も聞いてくださったりと楽しい時間を過ごさせて頂きました。
「それでは…」と言って、私は鞄からハンカチを取り出します。
今日はなんて素敵な一日だったのでしょう。一生の思い出になりました。そう心の中で思いながら、正様にハンカチを差し出しました。そしてそれを受け取ってくださいまして、今日はお開きかと思いました。すると、スルスルと長い腕が伸びて、そのハンカチで私の口をそっと拭ったのです。
「あぁ…」と私は喉の奥で小さな音を出しました。
「いや、気になさらずに…。これは自分で持って帰るから」
何という策士でしょう。本当に油断をしておりました。ですが…、私と二回目のデートをそこまでしてお望みだという気持ちが不思議で仕方ありません。
「あの」と私は勢い込んで正様に言ってしまいました。
自分でもびっくりです。ずっとハナちゃんの金魚のフンだった私が、先生になったのも驚きですが、今、こうして男性に勢いよく言葉を投げかけてしまいました。それなのに、正様はゆっくりと微笑まれて「なんでしょう」とおっしゃいます。
「ハンカチ、あの」と言葉が続きません。
思わず握ってしまった拳が小さく震えます。
「いいえ。お気持ちは十分分かりました。ご結婚なさる気も、もう僕に会う気もないようですし…。このハンカチは今日の思い出に持って帰ります」
私はどうしていいのか分からなくなりました。まるで私が正様を振ってしまったようになっております。
(振って…しまった?)
そもそも私はこの方が好きなのか、よく分かりません。それは分かりませんが、傷つけたいとも思っておりません。
「あの…。私…。三条様を悲しい思いにさせたでしょうか?」
「まぁ、少しは…そうですね。いや、かなり」
せっかく楽しい時間を過ごしたというのに、胸が苦しくなります。
「でも分かりますよ。あなたの志も、気持ちも。ですから、あなたが決めた道を歩いて行かれるのが一番だと思います」
「…ありがとうございます。三条様はとても尊敬できる方ですから…」と私はなぜか言葉を無くしました。
「そう言っていただけただけでも、よかったです」
きっとこんなに素敵な方はもっとふさわしい方がいらっしゃると思います。それなのに、そういうことを言えずに俯いてしまいました。
「ユキさん…」
名前を呼ばれて、心臓が跳ね上がります。
「何かお困りのことがあれば、いつでも連絡してください」
「え?」
「お力になれることも嬉しいことです」
本当に素敵な方だと思います。やはり私には勿体無い、その一言に尽きました。私は…教員として生きていこうと思っております。私は鞄から自分のハンカチを取り出しました。まだ使っていないものです。昨日から匂い袋を上に置いていたので、ほんのり香りがします。それを正様に渡しました。
「ハンカチを交換してくださいませ。…今日は私にとっても素敵な…夢のような一日でした。正様にお会いできて…、私も精進しようと思いました。どうかその記念にそちらのハンカチと」
「いいのですか?」
「えぇ。私も…頂きますので」
そうして、私は正様のハンカチを頂き、自分のハンカチを渡してお別れしました。駅まで送ってくださって、明るく手を振りました。お地蔵様のような優しい人で、素敵な方でした。彼にふさわしい自分でなかったことが、残念に思います。それでも明日は生徒に会うのですから、きちっと予習をして授業を行わなくてはいけません。電車に乗るとなぜか涙がこぼれ落ちました。私はハンカチを取り出しましたが、正様のハンカチでした。なおさら、涙が溢れてきます。汚すわけにはいかないと手の甲で涙を押さえました。
恋というもは自覚なしに始まるのだということを私は初めて知りました。
そして終わるのも自覚なしだと…流石の鈍い自分を少し滑稽に思いました。
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