第4話
オオカミと地蔵
関東大震災の痛手が残る東京で、政治家の失言により金融恐慌が起こりました。まだ潰れていない銀行を「倒産した」と…。慌てた人々は我先へと銀行へ押しかけたのがきっかけでございます。そこから少しずつ日本には暗い影が伸びてきたように思います。ただ私のような庶民は毎日を暮らしていくだけで必死でしたので、慣れない仕事もございましたし、その日、その日を送るだけで精一杯でした。
生徒の相談に乗ながら、こんな時、ハナちゃんだったら、どう答えただろう、と考えたりもしました。私は生徒とそう変わらない年頃なので、生徒の皆さんからは気軽に話しかけられたりしておりました。
「吉水先生はお若いから、生徒からお話を良く聞かれるでしょう?」と私を教えてくださいました田中先生から言われます。
「えぇ。若いだけで、頼りなくて申し訳なく思っておりますけれど」
「いいんですよ。そう言う先生がいるのでは違っていて、…子供たちも気持ちが楽になりますからね。お話を聞いてあげてください」
「そうでしょうか?」
「えぇ。それに…これからは今までとは違った人生になるかもしれませんね」
「違った?」
「今後は…あなたのように、働く女性も増えていくことでしょう。そう思って、教えていかなければなりません」
「はい」
私は希望を胸に抱え、未来の女性たちを育てようと思いました。ハナちゃんが小さな息子を育てているように、私は教え子を育てればいいのだ、と。ただ時代は色鮮やかだった大正時代から本当に少しずつゆっくりとモノクロへと変化しておりました。気がつかない間にですが。
次にハナちゃんとお会いしたのは第二子を授かったというお手紙を頂いてからです。一年以上ぶりにお伺いした大原邸はまた見事なバラが咲いておりました。五月の陽気もポカポカと暖かく、私は手土産に両親が旅行先から買ってきた温泉饅頭を持って行くことにしました。きっと大原邸ではこんなお菓子を食べることも少ないでしょうから、と。
「お久しぶりでございます」と私が玄関で挨拶をすると、ハナちゃんの後ろに隠れていた男の子が顔を覗かせます。
「お久しぶりでございます」とハナちゃんはそう言いながら、一郎様の手を取って、挨拶をさせようとします。
「今日は」と私は腰を屈め、視線を合わせて言います。
「こんにちは」と一郎様は言って、笑ってくれました。
「まぁ、こんなに素敵になりまして」
「本当に旦那様にそっくりでしょう?」とハナちゃんが笑う。
「えぇ。もうすでに可愛らしさの中に整ったお顔立ちで」と言う。
「皆様に愛されて、可愛がっていただいてるのよ。旦那様は少し厳しいですけれど。…自分を見ているようで、厳しくなさるみたい」
「まぁ、こんな小さな子に」と私は言いますが、やはり家長として、長男をしっかり躾けなければ、とお考えなのでしょう。
「さあ、入って。また玄関先で長居をしていたら、怒られてしまうわ」とハナちゃんが部屋へ案内してくれます。
私は二人の後をついて、応接室に参りました。相変わらずのふかふかのソファです。
「ハナちゃん…。これね。両親が温泉に行って、お土産をくれたの。一緒に食べない?」と言って、温泉まんじゅうを渡すと、ハナちゃんの目が光りました。
「まぁ、私、これ…大好きなの。中はこし餡でしょ? ふかふかの柔らかい皮で」
「そうなのよ」と言って、箱を差し出しました。
「一郎さんも頂きましょう」と言って、ハナちゃんは包みを開けました。
温泉まんじゅうは艶やかで、美味しそうです。私たちは女中さんがくる前に一つ食べました。一郎様も美味しそうです。
「美味しい。久しぶりに食べたわ」
「まぁ…。私もですけれど…」と言って、二人で幸せなため息をついた。
「他の方は食べられるかしら?」
「えぇ。きっと召し上がってくださると思うわ。…でも…もう一ついただいても良いかしら?」とハナちゃんが手を出すので、一郎様も同じように手を伸ばします。
「あら。ご飯が食べられなくなりますよ」と言って、ハナちゃんは少し困ったように、お饅頭を箱に戻しました。
一郎様は饅頭をどうにか半分に割って、少し悩んでから大きい方をハナちゃんに差し上げます。なんて可愛らしい思いやりなんでしょう。感激しているとノックされました。また旦那様かしら? と私は思っていると、お姑様でした。
「失礼するわね。ハナさん。昨日、お渡しするのを忘れていたのですけれど…清からお手紙が届いてます。あら、美味しそう」と言って、お姑様もお饅頭に気がついたらしいので、ハナちゃんは勧めます。
お姑様は一郎様の隣に座り、お饅頭を一つ摘みます。美味しいと言いながら食べてくださいまして、手土産を用意した者として、何だか安堵しました。
「一郎さんも食べたのね? 美味しかった」とお姑様は優しげに微笑みました。
「本当に旦那様にそっくりで」と私が言うと「そうなのよ。本当にびっくりしたわ。金太郎飴見たいね。だから…何だか昔に戻ったような気がして。不思議と懐かしい気持ちになってるの。おばあちゃまと遊びましょう」と一郎様に話しかけます。
一郎様は少し迷ったようですが、お姑様に手を引かれて、出て行かれました。
「旦那様は今、ロンドンに行かれてて、半年ぐらいは帰ってこれないそうなの…」と少し寂しそうにハナちゃんは言います。
「お手紙、どうぞ遠慮なさらずに読んでください」
「あら、じゃあ…」と言って、ハナちゃんはゆっくりと封を開けました。
ハナちゃんがお手紙を読み出すと、少し頰が赤くなります。私は気がつかないふりをして、紅茶を頂きました。でも何だかここにいてはいけなような気持ちにもなります。お手洗いを借りようかと思っていたら、ハナちゃんが顔をあげて、私に言いました。
「いつも…旦那様は『僕のハナへ』って書き出してくれますの」
「まぁ、素敵なことです」と私はハナちゃんに向き直って言いました。
「…私に…そのような価値はあるのでしょうか」
「えぇ。ありますとも。でなければ一郎様や、お腹の赤ちゃんに失礼ですよ。もう…昔のことですから、自分をお責めにならないでくださいませ」
「…優しくされれば、されるほど…苦しくて」
きっとハナちゃんは旦那様の前では決して見せない姿を私の前でだけ出しているのでしょう。
「…その苦しさは…旦那様への愛ではないでしょうか?」
「え?」と驚いたような顔で私を見ます。
「愛がなければ、きっと苦しさも何もなくケロッとしておりますよ」
申し訳ないと言う思いはきっと旦那様への気づいかいでしょう。それは恋愛のような思慕ではないのかもしれません。それでも深い愛情を私は感じました。
「…そうですか。では、一生、この思いを持っていなければいけませんね」
「えぇ。でも…少しずつ旦那様の愛を受け入れられたらいいんではないですか? いえ、もうきっとそれは…ハナちゃんのことですから受け入れられておりますよね」
「…ユキちゃん。ありがとう。私大切にされて…ありがたくて…苦しくて…」
「えぇ。苦しいでしょうけど…。もうそれも十分なのではないですか?」
「…そうでしょうか?」
「立派にお役に立っておりますし、もう…十分だと。ご自分ではなかなか見切りはつけられないのかもしれませんけれど」
「…えぇ。本当に…そうなんです」
「では…私が…う、うん」と喉の調子を整えます。
「『ハナよ。贖罪は終わった。今後は励めよ』」と声色を変えて言うと、ハナちゃんは驚いたような顔をして、そして笑い出します。
「一体、どなたの真似?」と言って、笑います。
「どなたって…それは…きっと大神様ですわよ」と咄嗟に適当なことを言います。
「オオカミ様?」
「大神様よ?」
何か齟齬があるのかと考えていると、目の前のハナちゃんが手を開いて頭に当てた。
「ウォーン」
「ウォーン?」
「だってほら、オオカミ様って…遠吠えするでしょう?」
「しない…あ、もしかして…ハナちゃん、動物のオオカミと勘違いして?」と私がひとしきり笑い出したので、ハナちゃんはキョトンとした顔で私を見ます。
「オオカミじゃないの?」
「神様。大きな神様よ」と言いますと、ハナちゃんは少し固まってから、そして恥ずかしそうながら笑い出しました。
「やだ。どうして…オオカミなんて…」と言って笑います。
「ふふふ。低い声を出しすぎたかも知れませんけれど」と私もおかしくて、笑いが止まりません。
笑いすぎると涙が止まらなくなりまして、私たち二人は泣きながら笑いました。笑いながらでも泣ける場所があってよかったと思います。ひとしきり笑っていると、ドアがノックされました。
「失礼します」と言って、見たことのない高長身の男性が入ってきました。
「あら?」とハナちゃんが涙を拭きながら立ち上がります。
「お久しぶりでございます。叔母様にお土産を持ってきたのですが、こちらにお客さまがいらっしゃるとのことで、持って行くように言われました」
「あら、ありがとうございます」と言って、ハナちゃんは箱を受け取りました。
「あのこちらは私の友人の吉水ユキさんです。女学校の先生をされていらっしゃるの」と紹介してくださいました。
私も頭を下げました。
「初めまして…。私はこちらのお母様の甥で…
「まぁ、ご丁寧に…。私はハナちゃんと同級生で遊びに来させて頂きました」とご挨拶を受けました。
「えぇ。華やかな明るい声が聞こえておりました」と言われたので、私たちは少し顔を赤くした。
正様はこちらのお姑様に似ていらっしゃるのかやはり涼しげな目をされており、目元だけはハナちゃんの旦那様と同じでいらっしゃいます。
「ではごゆっくり」と言って正様が部屋を出ようとした時、女中さんがこちらにお茶を持って入ってきてくださいました。
どうやら、正様の分のようです。
「こちらで…と、大奥様が」と女中さんが言いまして、ハナちゃんに何か伝えます。
「あ。ちょっとここでお待ちくださいね」と慌てて箱をそのままにして、出ていかれました。
そして女中さんも出て行かれたので、私は初めて、男性と二人っきりになってしまいました。多分、正様も驚かれたことでしょう。何を話していいのやらさっぱり分かりません。
「こちらの…お母様の…ご兄弟様の…? 目が似ておられますね」とどうでもいい事を口にしてしまいます。
「あぁ。そうなんです。この細い目はこちらのお母様と…それから私の父も…。祖母からもそうでして。こちらの従兄弟の清君も同じで…」
「あ、一郎様もですよ」
「そうなんです。全く細い目がこうも面々と続く家系で…」と何だかユーモアたっぷりにおっしゃいます。
「えぇ。でも素敵な目だと思います。知的で」
「そうですか? 私は…何だか冷たい男に思われるかと」
「いえ…。そんな」と言って、思わず顔を見てしまった。
清様は全てが端正であらせられますから、少し冷たい印象を与えられることもあるかもしれませんが、こちらの従兄弟様の正様はなんというか、輪郭が少し丸みがあって、口も少しふくよかですから、なんとも言えない愛嬌もございます。ちょっとお地蔵様と言っては申し訳ありませんが、安心させてくださるようなお顔の持ち主でございます。
「どうですか?」と正様が自分の顔の感想を求めてきます。
「えぇ。あの…お医者様でしたら、とっても安心できるお顔で」
もっと上手く言えたらいいのですけれど、私の口から出たのは本当につまらないことでした。それなのに、正様は喜んでくださいました。
「それが一番嬉しいです。子供なんて、僕の顔を見て泣いてしまうことが多いんですよ」
「まぁ…そんなはず…」ともう少しでお地蔵様…と言いかけたのをすんでのところで飲み込みました。
「僕のあだ名はね…地蔵先生なんです」
あぁ、もうだめです。私は負けて吹き出してしまいました。両手で口を隠したものの、もう我慢ができません。きっとこの方は私の考えてることもわかるくらいの見立てが良くできるお医者様なのでしょう。私はすっかり降参して笑いました。
「申し訳ありません。…ハナちゃんと一緒の時から…笑っておりまして。それで…その…ごめんなさいませ」と言って、私はもう笑いと涙が止まらなくなりました。
「おやおや、それは大変ですね。大丈夫ですか? 息ができなくては大変です」とまた飄々とした調子で言ってくださるので、私はすっかり安心しました。
ポケットからハンカチを差し出してくれますけれど、私は自分のがありますと断りました。
「いえ、また…お返しくだされば」と言って、直接私の涙を拭いてくださるものですから、思わず肩が上がりました。
「あ、そんな。申し訳ないです」と何とか言いましたけれど、優しく涙を拭いてくださいました。
「もし…婚約者がいらっしゃらないのであれば…。またお返しください」と言って、私の涙がついたハンカチをそのままお渡しくださいました。
「え? あの…」
「ご結婚が決まってられたら…そのままお持ちくださって大丈夫ですよ」
私は何を言われているのか、考えようとしてもわからずに「結婚は…未来永劫…決まっておりませんの」と言った。
「それは…結婚しないというおつもりですか? それともただ相手がいらっしゃらないと言うことですか?」
「それは…両方でございます」となぜか正直に話してしまいます。
「両方? もしお相手ができれば…どうですか?」
「…いえ。そんなことはありえませんし。それに…私には…そのつもりがございません」
「結婚しないと? 何か理由が?」
「教え子が私の子供です」
「それだけですか? でしたら…そのハンカチを洗って、私にお返しください」
何をおっしゃっているのか、本当に分からなくて、私は慌てて、今すぐにハンカチを洗わなければいけないのかと思い、そわそわしました。
「来週…。よければ銀座のカフェでも行きませんか? そこでハンカチをお返しくだされば…」と言われて、それがデートの誘いだったのだ、とようやく気がつくという鈍さでございます。
きっと呆れていることでしょう。
「ハンカチを…? カフェでお返ししたらよろしいんでしょうか?」
細い目が柔らかく笑います。
「…そうして下さったら…」
お地蔵様のようなこの方は案外プレイボーイなのかもしれません。今、ハンカチをお返ししたいと思っても、自分の涙で汚れてしまっているものを突き返す訳にも行きません。そう思うと、余程の策士と思えてきます。
「松屋デパートで待ち合わせましょう」
私があれこれ思索している間に、約束が決められました。そして私がなんとも言わない間に、正様は出ていかれました。夢かと思いましたが、頰をつねると痛いし、私の手にはハンカチが残されています。
ぼんやりしていると、ハナちゃんが眠ってしまった一郎様を抱っこして連れてきました。そっとソファに横たわせて、上にブランケットをかけます。
「ごめんなさい。一郎さんが泣いてしまって…」と私に謝ります。
「それは…お母様を…恋し…が。…って、どうしましょう」
私の尋常でない様子にハナちゃんは驚きながらも、話を聞いてくださいます。ハンカチを強く握りしめながら、ハナちゃんに「どうしたらいいのか」とばかり繰り返してしまいます。
「それは…嫌なら行かなければいいのよ。私がハンカチをお返ししておきますから」
「そんな…。ハナちゃんのお母様の甥っ子様なのに…」
「えぇ。気になさらないで。ユキちゃんは結婚も恋愛もしたくないのに、無理することないのよ」
「…そうですわね」と言って、ハンカチを渡そうかと思いました。
でもなぜかお地蔵様のような顔が思い浮かべられます。
「…でも気になるなら一度、お会いしても?」とハナちゃんは私のハンカチを持つ手をそっと手で包んでくれます。
「ねぇ。ハナちゃん。どうして男の方って、よく知りもしないのに、デートに誘ったりするのかしら?」
「…そうねぇ。それはよく分からないわよね。でも私も全く気がつかない間に、縁談を勧められてたから…もしかしたら、家系なのかもしれないわ」
「家系?」
「そう。惚れっぽい家系なのかも」
そう言われれば、納得するしかございません。
「でも私のどこに惹かれる要素が?」とハナちゃんに聞きます。
「それはユキちゃんは可愛らしいもの…」と言ってくれましたが、お友達の言葉とは優しいものです。
ハナちゃんなら尚更優しい声をかけて下さいます。そうしてその日は何とも言えない気持ちでお暇することになりました。
後から聞きましたところ、ハナちゃんのお姑様がどうやら結婚しない甥っ子を心配して、わざわざ呼びつけたようです。そしてなぜかお眼鏡に適った私とお話しするように時間を合わせたとのことです。甥っ子は何も聞かされずに、叔母が所望するお菓子を持って、大原邸にやってきて、私と会ったというらしく…。なぜにそれで私とデートをしようと思うようになったのか…それについてはさっぱり分かりません。やはり…惚れっぽい家系なのかもしれません。
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