第3話
大正十五年、昭和元年
赤ちゃんが無事に産まれたとハナちゃんから聞いたのはお雛祭りの前でした。私は無事に春から教員となって母校の教壇に立つことが叶いました。その報告と、お祝いを兼ねて、私は再び大原邸にお邪魔することになりました。
玄関でノックすると、ハナちゃんではなく、旦那様がお出迎えしてくださいました。
「お久しぶり。どうぞ」と長い手足をさっと伸ばして、案内してくださいます。
「お久しぶりでございます。この度はおめでとうございます」と挨拶をしました。
「…あぁ。ありがとう。本当に…出産というものは大変なことで…。僕は何もできずに…」と思い出したのか、少し言葉を切れ切れにおっしゃいます。
「ハナちゃんはご立派でございますね」
「本当によくやってくれました」とおっしゃる口調がとても温かく感じました。
ハナちゃんはリビングに赤ちゃんを抱っこしてソファに座られておりました。小さな赤ちゃんはふくふくとして、眠っております。なので私は小さな声でご挨拶をしました。
「一郎よ」とお名前を教えてくださいます。
どう見てもお父さまそっくりです。ハナちゃんは立ち上がって、小さな籐で出来たベビーベッドに寝かせました。
そして小声で
「おめでとうございます」
「おめでとう。先生になれるのね」と互いに言い合いました。
お互い手を取って小さく喜び合います。
「出産は大変でしたでしょう?」
「もう大変なんてものじゃないわ。私、途中でものすごく眠たくなって…もう寝かせてって思って…そしたら、ほっぺたを叩かれるし…」と言うと、旦那様が慌てたようでした。
「眠たく? 痛くは無いのですか?」
「痛いのよ。でも痛みが引く瞬間に、もう、ふっと意識が」
「え? それは…」と私が言いかけた言葉を旦那様がお言いになされて、顔を青くさせております。
「それで、寝ちゃダメですってバシバシ叩かれるものですから…もう、全部が痛いのです」
「まぁ」と私は気の毒になりました。
旦那様には言わなかったのでしょう。初めて知ったことらしく、旦那様がハナちゃんに駆け寄り、私の目の前で抱きしめられました。
「それは大変、辛かったでしょう」と。
私とハナちゃんの気恥ずかしさと言ったらありません。
「ええ。もう大丈夫ですから…。私、少し大きく話しましただけです」と小さく旦那様を押しました。
女中さんもお茶の用意をしようと入ってきて驚いてます。
「すまない。あまりにも驚いてしまって」とみんなに言って、旦那様はようやく退出されました。
「ユキちゃん、ごめんなさいね」
「いいえ。仲よろしいことは良きことですわ」
私たちはどちらともなく笑いました。女中さんも苦笑いを浮かべながら、紅茶を用意してくださいましたが、ハナちゃんは白湯です。どうやら母乳のために紅茶は飲まないようにされてるらしいです。
「でもね…。本当に大変だったの。旦那様は…あんな風に心配されるから、言えないのですけど」
「ええ。そうでしょうとも」
「それでも軽い方だとおっしゃるのよ。もう私…びっくりしちゃったわ」
「私には…やはり結婚する勇気がでませんの」と言いながら一郎様の寝顔を見ます。
お父様に似て玉のような美しさを持った赤ちゃんで、きっと聡明なお子様になりそうです。
「そうですわよね。分かりますわ。でもこの子に会えたことは神様に感謝してますのよ」
「ハナちゃんのお子さんが女の子でしたら、私の教え子にして欲しかったのですけど、無理ですわね」
「えぇ。女の子が生まれたら、ぜひお願いしますわね。ユキちゃんなら安心です」と春からの新米教師の私にそうおっしゃってくれます。
私たちが話していると、一郎様が泣き出しました。大層元気なお声です。ハナちゃんが慌てて抱き上げました。何という小さなお手てでしょう。私は少し触れてみたい気がしておりましたが、泣き止まないので、ハナちゃんはさっとお乳をお与えになります。私は女同士ですが、白い肌になだらかな丘陵に少しドキッと心臓がしました。
ノックの音がしたかと思うと、また間の悪い旦那様です。
「泣き声が…」と言って、授乳しているハナちゃんと顔が赤くなった私を見て、「失礼」と言って、すぐに出て行かれました。
その様子を見て、ハナちゃんは笑い出します。おおらかなお母さんになられたのようで、私も安心して笑いました。
「お仕事でいつもいらっしゃらないから、泣くと気になさられて…。赤ちゃんは泣くのがお仕事ですのに」
「えぇ。本当」と言いながら、優しい旦那様のことを愛おしく思っている様子が伝わりました。
お乳を一生懸命吸う一郎様は本当に可愛らしく、私はハナちゃんに断ってから、手を少し触らせて頂きました。本当に嘘のような柔らかい手に小さな指、さらに小さな爪がございます。そしてその手で私の指をぎゅっと握られて、思わず「可愛いです」と言ってしまいました。
「一郎はユキちゃんが好きなのかしら?」と言ってハナちゃんは笑います。
「滅相もございません。きっと素敵なお嬢様とご結婚なさいます」と多少気が早いことを言ってしまいました。
思わず口走った言葉を気まずく思ってしいると、とても綺麗な笑顔でハナちゃんは微笑みながら言いました。
「…えぇ。本当に。その日が楽しみです」
それから旦那様を始めとして、代わる代わるいろんな人が一郎様の顔を見にいらしたり、最後はお姑様と旦那様のお姉様が一郎様を預かってくださったので、私はゆっくりとハナちゃんとおしゃべりをすることができました。
「しばらくはお互い忙しいと思いますけれど、またいらしてくださいね」
「えぇ。ぜひ…また一郎様とハナちゃんにお会いしにきますね」と私は約束をして大原邸を後にしました。
私は教師として初めての年を迎え、ハナちゃんはお母様として初めての年、それが大正の終わる年、昭和が始まる年でございました。
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