第25話

雨の出発


 しとしと雨の気配で目が覚める。まだ夜中で私はベッドの中だった。あたたかくて、ふかふかで。でもあの人は公園のコンクリートの遊具の中で眠る。あまり雨がひどいときは濡れているのだろうか、と考えたら眠れなくなった。起き上がって、ベッドから出て、リビングに行く。冷蔵庫に冷やされているお茶でも飲もうかと開けると、ママたちの寝室の戸が開く音がした。


「コトちゃん」


「ママ…。どうしたの?」


「それはママの台詞よ。ふっと目が覚めて、コトちゃんのドアの開く音がしたから」とママは言った。


「私も…偶然起きて…。それで…雨が降ってて。…あの人は遊具で寝てるのかなって思って」


 ママがそっと私を抱きしめた。


「ママ…」


「今日はコトちゃんと一緒に寝ていい?」とママが聞く。


「え?」


「ママも淋しくなっちゃったから、コトちゃんと一緒に寝たいなぁ」と言うから、私は驚いた。


 それでママと一緒に私のベッドに眠ることになったけど、ママの柔らかい匂いが私を落ち着かせた。


「ママ…。私は幸せなんだね」と言うと「ママの方こそ、幸せだね」と言って、抱きしめながら頭を撫でてくれる。


 それが心地良くて、瞼が重くなっていった。


 温かくて心地よくて、私は幸せなんだと思う。少しだけちくりと胸を刺したけれど、そのまま深い眠りについた。


 朝起きたら、ママはもう起きていて、ご飯の準備をしてくれている。あの人の分もとお弁当も用意していた。


 パパも起きて来て、挨拶をした。


「おはよう。コト…昨日はびっくりしたね」と言ってくれた。


「うん。…でも私はすごく幸せなんだって」


「パパが今日、市役所に連れて行ってみるから、安心しておいで」と言うから、私は心の底から安心できた。


 光君が迎えに来てくれて、一緒に学校に向かう。雨のせいで公園の砂はべちょべちょしている。私と光君は何も言わないけれど、遊具の中を覗き込んだ。


「…どこかに行ったのかな?」


 光君は首を横に振って「分からない」と言った。


 でもちょっとどこかに行ってるだけかもしれないし、と私たちはそのまま登校した。中田さんと渡辺さんに昨日の話をする。


「でもね…。そういう人って、結局、そういう生活しかできないのよ」と割とクールなことを中田さんが言う。


「前にテレビで見たけど。生活を整える手助けをしてあげて、就職して生活改善する人は思ったより少なくて…。また元の生活に戻ってしまう人も多いのよ」


「え…」と私は驚いた。


「どうして?」と渡辺さんも聞く。


「…社会復帰って結構、難しいのかもね。でもコトちゃん、そんな怖い目に合ったのに、心配してるの?」と中田さんは訊く。


「うん。本当に最初は怖くて、何が起こったのか分からなかったんだけど、何だかあの時の叫び声が泣いてるような…感じだったから」


 あの人は私に何か伝えたかったのかもしれない。


 誰かに対する怒りなのか、哀しみなのか分からないけれど。


 でも一瞬、居眠りした時に見た、お母さんと一緒に居た時の幸せな気持ちが彼の気持ちだったとしたら、私は胸が苦しくなる。


 きっと彼はお母さんをずっと探してる。


 世界でたった一人、自分を愛してくれる人を。


 でも灯君がもうお母さんは彼のことを分からない、と言っていた。


「分かんないけど…愛されたいって言ってる気がした」と言うと、二人とも何とも言えない顔をした。


「あのおばあさんがその人のお母さんだったの?」と渡辺さんが言う。


「多分。でも認知症じゃないかなって」


「そうだと思う。管理人さんがすごく怒るんだけど、何だか動物みたいにおびえるだけで…。私、最近、なんだかそういうのを見るのも辛くなって」と渡辺さんも言った。


「行政がどうにかしてくれるのかな」と中田さんが言っ

た。


 そうであって欲しいと思ったけれど、私たちは子供過ぎて、何もできなかった。



 その日は朝にその話をしただけで、後は全然違う話題で盛り上がり、私の憂鬱な気分は長くは続かなかった。



 下校時間になって、待ってくれていた光君と一緒に帰っている時にあの人はもういないと言われた。


「いないって?」


「夜中の内にどこかへ行ったみたいだ」と言う。


「雨の中を?」


「うん。雨に…お母さんと一緒にいた…記憶がそうさせたのか分からないけど」と言った。


 泣きたくなる。


「昨日、夜中に雨降ってて…、私淋しくなって、ママと一緒に寝たの」


 それなのに、あの人は一人でお母さんを探しに行った。


「朝、コトちゃんに言ったら、一日引きずりそうだったから言えなかった」と光君が言う。


 確かにそうだ、と光君を見た。


「今だったら、俺が…一緒だから。慰めることできるし」


 小さな声で言う光君を見て、私は少しだけ気持ちが救われた。


「そっか。ありがとう」


「じゃあ、手を繋いで帰る?」と手を出してくる。


「じゃあの意味が分からないけど、繋ぐ」と言って、私は手を握った。


 温かい手に触れて、慰められた気がした。



 公園に差し掛かったので、まだ水分を含んだ土の上を歩いて、遊具に行く。コンクリートの遊具の穴は空っぽだった。


「…光君。私、何もできなかった。子供だから」


「俺もだよ」


「早く大人になりたい。ちゃんと勉強して…それで何かちゃんと…役に立てる人になりたい」


「うん。俺も…」


「だから、今は恋人のお付き合いとかそういうの…」


「うん。分かってる。でも一緒にいていい?」


 そう言われると、私も弱くて、頷いてしまう。


「一緒に頑張りたいから」と光君は私をまっすぐ見て言った。


「うん。頑張ろう。それと…ありがとう。いつもいつも支えてくれて」


「それは好きでしてることだから」と光君が照れくさそうに笑った。


 夕方の黄色い光が彼を縁取る。私は本当に綺麗だ、と思った。



 家に帰るとママから謝罪されてしまった。


「ごめんね。コトちゃん。ママが遅かったせいで、もういなかったの。でも戻ってきてるかなって何度も公園に見に行ったんだけど…」と泣きそうな顔をして言う。


「…ママ、昨日の夜の間に出ていったんだって。光君がそう言ってた」


「…そうなの」とママは私を抱きしめた。


 あの雨の中、彼はどこに行ったのだろう、と思いながら私はママの匂いに包まれて悲しい気持ちになった。彼がいつかまた幸せを感じる日が来るのだろうか、と思いながら。



 新聞部の中田さんがようやく認められて、記事を掲載してもらえることになった。教師とコーチの不倫問題は駄目だしされていたから、何を書いたのかと聞くと


「不審者情報から見えた無戸籍問題」と言った。


 掲載された記事を読むと、割と切り込んだ内容で、その記事はいろんな先生から褒められていた。


「コトちゃんがさ、哀しんでたからさ…」と中田さんは言う。


「え? もしかして私のために?」


「うーん。まぁ、心動かされて、調べて…。私も興味あったし…。でね…。私にできる方法で何か力にならないかなって思って」と中田さんは言った。


 中田さんは恰好良かった。私みたいにただただ落ち込むだけじゃなくて、現状で何かできないかと考えて行動した。


「すごく尊敬する」と私と渡辺さんは言った。


「まぁ、先輩もようやくまともな記事持ってきたなって、偉そうに」と唇を尖らせて言った。


 文化発表会ではきっと賞を獲れるだろう、と中田さんは得意げに言った。私もそう思う。いろいろ取材して、調べて書いた記事がまた誰かの心を動かすこともあるだろう。


「本当にすごいよ。心から尊敬する」と私は言った。


 照れながら、でも得意げに笑う友達が誇らしかった。私たちはいろんなことを経験して、少しずつ子供から遠ざかる。

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