第24話
言語を持たない人
家について、一息入れる。ママは泣きながらご飯の用意をしてくれている。でも私は光君が言った、朝の少年がさっきの男性というのが分からなかった。
「光君、あの少年がさっきの人ってどういうこと?」
「今朝見たのは…。あのおばあさんの昔の姿だよ」
「え?」
「おばあさんが若かった頃の姿を見たんだ」と光君が言ってくれる。
「どういうこと?」
「さあ…。一瞬だったから」と言いながら、スマホを見る。
あの人が突然叫び出した理由がさっぱり分からない。私はお手伝いしようとキッチンに向かうとママが涙を拭いているから、私は後ろから抱き着いた。
「ママ。大丈夫」
「良かったー。本当に良かったって…」と言いながら、また泣いていた。
「あのね…ママ。あの人…どうして叫んだのかな」
「え?」と驚いたような顔で私を見た。
「あの人、私を引っ張っていって、それで…叫んだだけなの」
「…コトちゃん」
あの時、パニックになっていたから、私は動けなかった。抵抗もしていなかったから、首絞めようと思ったらできただろうし、何でも出来た…。それなのに突然叫びだした。
「ずっと叫んでたの」
「叫ぶ?」
「そう。なんか…言葉じゃなくて…声で。その時は怖くて動けなかったんだけど…」
ママはじっと私を見た。
「今思うと、私が悪いみたいで…」
「コトちゃん、何かしたの?」
記憶ではあの人を見て、私はちょっと避けようとしたけど、そのまま真っ直ぐ歩いただけだった。
「会った時の話をしっかり聞かせて」とママが言う。
私は何も隠すことなく話をした。最初、不審者情報があると学校で聞いて、少し怖くなったこと。でも何も起こらないと思って、避けずに歩いたことを説明する。急に腕を掴まれて、怖くて誰もいなくて、鞄を落として引きずられたこと。
「…コトちゃんが何かしたわけじゃないのに、いきなり掴まれたの?」
「何もしてなかったつもりだけど…」と私は何度も自分の行いを振り返る。
「その前は? その人に気が付く前は何かしてた?」
「えっと…友達と楽しくおしゃべりして帰ってたから…、多分、にこにこしてたかも」
気持ちもすごく明るかった。
「まだ理由は分からないけど…。コトちゃんが悪いわけじゃなさそうね」とママはため息を吐く。
「そう…なのかな」と私は呟いた。
「コトちゃん、違うよ。後…灯も来るって。聖ちゃん、いい?」と光君が聞く。
「え? もちろんいいわよ。嬉しい」とママは慌ててご飯の準備を再開する。
「違うって?」と私は聞き返したが、光君は「灯…なんで分かるんだよ」と呟いた。
そうこうしているうちにインターフォンが鳴る。灯君が息を切らせてきたようだった。いつも学校で居残って勉強しているのに、今日はそれを放棄してきていると光君が教えてくれた。。
「コトちゃん、大丈夫?」
「うん。あ、開けたから入って」とオートロックを解除する。
まだ話したそうだけど、なるべく家の中で話したい。そしてしばらくすると玄関のチャイムが鳴った。玄関まで出迎えると、灯君に突然抱きしめられた。
「良かった。無事で」
「うん。大丈夫。でもどうして?」
灯君の力が強くて動けない。でも必死に私に大丈夫だと伝えてようとしてくれている。
「突然、見えた。引きずられてるところ」
「え?」
「だから速攻帰ってきた」
灯君の体温がダイレクトに伝わる。
「あ、そう…なんだ」
「お前、いい加減離れろ」と光君の声がする。
不意に腕が解かれた。
「…何も、聞こえない」と灯君が言う。
「…そうなんだよ。何も」と光君も言った。
二人が何を言ってるのか分からないけれど、二人はお互いを見て頷いた。
「今から公園に行こう」と灯君が言う。
「公園?」と私が驚くと、光君はもう靴を履き始めていた。
私もママに言って、慌てて出かける。
「え? ちょっと」とママも玄関まで急いでくる。
「すぐ戻って来る…と思う」と言って、私は表に出た。
二人は先に行ってしまったようで、私は一人で後を追いかける。公園にあの人がいるのだろうか、と思って怖いながらも走った。二人はコンクリートで出来た遊具の側に立ってい、中の空洞を覗き込んでいた。
「光君、灯君」と私は声をかける。
「いたよ」と光君が私に向かって言う。
穴の両端に二人が立って、逃げないようにしていた。私は中を覗き込むと、おびえたように体を丸くしている。
「…あの」と声をかけて、私を見ると、それまでと違ってものすごく睨みつけて、また叫び始めた。
「おい」と光君が穴に体を突っ込んで手を出そうとした。
「光。やめろ」と灯君が言う。
光君の手を見て、また体を縮込めて丸めた。
「…この人は日本語が喋れない」
「え?」と思わず光君は体を引いた。
「外国の人?」と私が訊くと、灯君は首を傾げた。
「外国か…分からないけど、そもそも何語も喋れない」
私と光君は意味が分からないという感じで灯君を見た。
「伝わってくるのは哀しみと怒りと…淋しさ」と灯君が言った。
灯君が見えたことを話してくれる。
生まれた時に見えた赤い空が印象的だった。
母親は知的に問題があり、定住場所を持たない人だった。でもそれなりに愛情をもらっている気持ちで、うきうきしていた。風は心地よくて、つないだ手は温かかったから。寒い夜はくっついて寝ると温かくて安心できた。
幼い頃はそうして一緒に生活していたが、話しかけられもせず、ただご飯を食べ、どこかで寝る暮らしをしていた。ある日、目が覚めたら母親がいなかった。そこからずっと母親を探している間に、いろいろひどい目に合ったらしい。男性が怖くて、女性は母親に対しての気持ちがあるのか、恨みのような怒りの気持ちがある。
「でもいろんな気持ちを言語化できないんだよ」
「え…」と私は驚いて灯君を見た。
「戸籍のない…人間だから。当然、学校にも一度も行ってない」
だから彼は叫んだのだ、と私は分かった。
何かを伝えたくて、でも伝えられなくて…叫ぶことしかできなかった。
「お母さんに会わせてあげたら…喜ぶ?」と私は光君に訊いた。
光君は俯く。
「あの人はもう過去も未来も分からないと思うよ。認知症になってるんじゃないかな」と言った。
「え…。そんな」
灯君は冷静に警察を呼んだ。
「…呼んだところで…どうしようもないけど」とスマホをポケットに入れる。
「どうしようもない?」と聞き返した。
「コトちゃんや他の人が怖い思いをしないように通報はしたけど…。でも、捕まえることはできないし…。こういう生活を生まれてきたときからしていた人が…社会に復帰できるのは難しいんじゃないかな」と灯君が言う。
「…そんな」
すぐに警察が自転車で来てくれた。私は今日の夕方あったことを話したが、警察が来た事で、余計におびえてしまい、小さく丸まって動かなくなってしまった。私は処罰して欲しいと思ってはいないし、でもどうにかできないのか、と警察に言ったものの、福祉の世話になるしかない、ということだった。そうこうしているうちにママが心配で公園まで様子を見に来てくれた。
ママに事情を話すととりあえず、おにぎり持ってくるとまた急いで戻っていく。
「聖ちゃんは相変わらず優しいなぁ」と光君が言う。
「コトちゃんが怖い思いをした相手なのに」と灯君もため息を吐いた。
しばらくするとママは使い捨て容器におにぎりと冷凍食品のおかずとペットボトルのお茶を持って来てくれた。
「ご飯、食べて」と声をかけるものの、警戒したような顔をする。
「明日、一緒に市役所行こうね。今日はここで寝るのがいいんでしょ?」とママはお構いなしに話しかける。
「だから、ここで待ってて。明日の十時に迎えにくるからね。もちろんご飯も持ってくるから」
「ママ?」
「パパに連絡したら、一緒に行って行政の福祉にお世話になれるように手配しようって」とママはにっこり笑った。
「だからあなたちもご飯食べに戻ってきて」と私たちに言ってくれる。
警察の人にも挨拶をして私たちはマンションに戻った。
「さぁ、たくさん作ったから食べてね」とママは嬉しそうに笑いかける。
今日は八宝菜に豚の角煮だった。
「ママ…ありがとう」と私が言うと「え? 嬉しい」と言ってくれた。
私にはこんなに素敵なママがいるのに、とあの人のことを思うと胸が痛くなった。双子は気にしないようにしているのか、すごい勢いでご飯を食べ始めた。そのおかげで、私も慌てて食べることに集中できた。
二人で帰るから、見送らなくていい、と玄関先で別れる。
「灯君、わざわざ来てくれてありがとう」と言うと光君が頬を膨らませた。
「あ、光君はいつもありがとう」
「明日も迎えに来るから」と言ってくれる。
後ろ姿を眺めながら、急に淋しくなる。月がうっすら朧気で明日は雨なのかな、と思った。
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