第23話

見えないもの


 翌日、朝、光君は迎えに来てくれた。それもすごくふくれっ面で。


「おはよう」と言うと「おはよう。昨日は楽しかった?」とむくれながら言う。


「う…ん」と返事したものの、鞄にキーホルダーをつけたことを後悔した。


「そっか。灯も楽しそうだった」と言って「俺も行きたい。次は俺と動物園行こう」と言ってくれる。


「うん。楽しかったから」と私は何度でも行ってもいいけど、二人の気持ちを考えると複雑だった。


「俺さ…。灯が昨日楽しそうで、本当に嫌だった。ものすごく嫌だった」


 私は頷いて光君を見た。


「今だって、嫌だし、こう…顔とか態度に出てるけど…。あいつ、俺がコトちゃんと出かけて帰ってきた時も、全然、態度変わらなくて…。すごいなって思った」


 朝日の中を歩きながら、私はどうしたらいいのか本当に分からなくなる。


「…だから、コトちゃんにふさわしいのはあいつかなって…思ったりするけど…それも腹立だしい」と光君は言う。


 光君は隠しごとができないみたいに、全部何でも言ってくれる。その素直さは安心になる。


「私は…ずるいけど、二人と仲良くしたくて…。もういっそ、私が男だったら、ずっといい友達でいられるのにって思った」


「え?」と驚いた顔をする。


 むくれた顔も、驚いた顔も全部、恰好良い。


「私なんて…。いいとこ一つもないのに」


「あるよ。全部いい」と真面目な顔で言ってくれるから困る。


「全部って」と思わず呆れた声になってしまった。


 その時、大きなマンションから誰かが怒鳴る声が聞こえて来た。そしてすぐにボロボロの恰好をした女性が逃げるように飛び出してきた。年齢は分からないが、にこにこ笑う少年が側にいた。私は異様な二人を眺めて足が止まると、そのマンションから渡辺さんが出てきた。


「おはよー」と明るい声で話しかけてくる。


「…おはよう。あの…誰か怒ってた?」と私が訊くと、


「あぁ、マンションの管理人さん。いつもあのおばあさんがゴミ漁りにくるんだけど…。片付けないから怒ってて」


「おばあさん?」と私はもう一度目を凝らすと、みすぼらしい恰好のおばあさん一人が破れそうな袋を持って歩いている。


「あれ? 男の子は?」と私は周りを見る。


「…いないよ。いつもおばあさん一人だから」と渡辺さんが言う。


「…男の子、コトちゃん、見えたの?」と光君が聞く。


「え? じゃあ…」


「いや、死んでないと思う」と光君は目を細めて言う。


「何? 事件?」と渡辺さんが聞いてきた。


「え? あ、分かんないけど。なんか男の子がいたような気がして」と私は言った。


 光君には何が見えているんだろう、と私は思ったけれど、あまり話したくないようで、全然違う話を切り出された。そんな話をしていると、あっという間に学校に着いた。



 学校集会で「最近、不審者の目撃情報が増えています。暗くなるのも早くなったので、帰り道はなるべく誰かと帰ってください」と生活指導の先生が言っている。


 私は光君が話したくないことが気になって仕方がなかった。いつもなんでも話してくれるのに、と思いながら、でも聞けなかった。それに初めて見えないものを見たこともちょっとした衝撃だった。


 あの男の子は生きていると言っていたけど、どういうことだろうか、と不思議に思った。そんなことを思っていたからだろうか、私は初めて授業中に居眠りをしてしまった。




 光はあたたかくて、その人の手は温かくて。その人しか見てくれない自分。周りの人に笑いかけても何も反応がなかった。だから世界はその人だけだったのに。ある日、突然、消えた。




 はっとして肩が跳ねた。


 慌てて黒板を見ると、授業は進んでいる。一瞬の間、眠って夢まで見ていた。でもどんな夢だったか分からない。何だか光がいっぱいで、幸せだった気分が残っていた。


「川上、次」と言われて、慌てて教科書を捲った。


「…分かりません」


「はぁ? 珍しいな」と先生に言われて、他の人が当てられる。


 他の人が言う答えをノートに書き込んだ。




 お昼休みに中田さんから「コトちゃんどうしたの? ぼんやりして。…もしかしてイケメン二人から言い寄られてたりして」と言われた。


 驚いて、私は口を開けてしまった。


「やだ、まじ?」と渡辺さんも言う。


「そ、そんなわけないじゃん。別に何の取り柄もないのに」と慌てて否定するも遅かったみたいだ。


「わー、それは悩むよねぇ。どっちでもいい」と中田さんはまるで話を聞いてないかのように言う。


「コトちゃん、何の取り柄って…。そんなのみんな持ってないよ」と渡辺さんが言う。


「え? でも」


「取り柄があるから好きってわけじゃないでしょ?」と中田さんも言う。


「逆にさ、なんかの取り柄があるから好きですって言われて、納得するわけ?」と渡辺さんが言う。


 確かにそうだ。目からうろこが落ちた。


「好きって気持ちに理由なんてないんだよ」とまるで経験者のように中田さんが言う。


「そうそう。なんて言うか…フィーリングかな?」と渡辺さんも同じように言う。


 二人が上級者に見えたが、すぐあとで「って聞いた。知らんけど」と笑いながら冗談を言う。おかげで私の気持ちも大分軽くなった。友達っていいな、と思って私も笑う。



 その日、光君が私を待ってる間に先生に捕まって、私は中田さんと渡辺さんと帰ることになった。


「すぐに追いかけるから」と言ってくれていたけれど、私はすっかり楽しい気持ちで手を振った。


 二人と一緒だといつも笑いながら楽しい時間を過ごせるから、帰り道も楽しかった。女の子同士の話はあけすけなことも多いけれど、テンションも上がる。たくさん笑って、みんなと別れた。家の近くの公園まで来た時、向こうから若い男性が向かってくる。でもその男性の姿は浮浪者のように汚れた服と、顔も日焼けなのか汚れなのか真っ黒だった。不意に学校で聞いた「不審者の目撃情報」のことを思い出したが、そう決め込むのは失礼な気がして、そのまま避けずに歩いていると、突然、腕を掴まれた。


 恐怖と混乱で声が出なかった。


 そして相手も何も言わずに私を強く引っ張る。


 本当にわずかな隙だった。公園にはいつも誰かがいる。遊んでいる小学生、椅子に腰かけているお年寄り、犬の散歩をしている人。それなのにその時に限って、一人もいなかった。いつも光君と一緒なのに今日に限って――一人だった。


 ずるずると引きずられていく。私は振りほどけずに、怖くて息が上がった。自分の心臓の音が大きく聞こえる。鞄を落とした。


(後から来た光君が気づいてくれるかもしれない)


 そんなことを考えたりしたけれど、全く逃げられそうにない。小さな公園の植え込みにまで連れて行かれる。


 何をされるのか怖くて体が震えた。


 大きな木が背中に当たる。すると突然手を離し、大声を上げた。私はびっくりして、そのままずるずると背中を木につけて座り込む。私は腰が抜けているけれど、彼はまだ叫び続けている。


 何が起こっているか分からないけれど、胸が苦しくなって、ブラックアウトしそうなときに私の名前を呼ぶ声が聞こえた。




「コトちゃん」と光君に抱きしめられている。


「…あ」


 さっきまでいたはずの男性がいない。そして慌てて来たのか、ママがすごく肩で息をして泣いていた。


「公園に来たら、叫び声が聞こえて、それに…コトちゃんの鞄も落ちてて」と光君が青ざめた顔で私に言う。


 そこから警察が来て、いろいろ話をして帰ることができた。


「もし訴えるのなら、また後日、警察に来てください」と言われた。


 光君とママと一緒に家に帰る。


「何も…なかったの。ただ…突然、叫びだして」と私は説明する。


「でも怖かったでしょ?」とママに言われて頷いた。


「ごめん」と光君が謝る。


「ううん。光君は…」と私は言いながら、私の鞄に気が付いてくれたことに感謝した。


「すぐに分かったよ。象のキーホルダー。灯も一緒のつけてたから」とちょっと膨れた顔で言う。


 でもすぐに無事で良かった、と言ってくれた。


「光君はあの人と会った?」


「うん。俺が走って向かったら、逃げて行ったから…。あの人…朝の少年だよ」と言った。


 朝の少年というのは私が初めて見た見えないものだった。

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