第20話

宵の明星


 中田さんの話によると、あんなに大騒動してまで付き合った二人は今や喧嘩が絶えないらしい。そんなことまで知っているなんて、本当に驚きだけれど、私は不思議で仕方なかった。


「だって…職まで失ってるのに…」と私が言うと、中田さんは笑って


「現実になると違うのよ」と大人のような口ぶりで言った。


 そうなんだろうか、と私は首を傾けた。うちのママとパパは仲が良いからよく分からない。それに私はコーチと同じ名前というだけでいじめられたのに、何だか報われない。せっかくなら幸せになって欲しい。


「生まれてくる赤ちゃんが不憫だね」と渡辺さんが言う。


「確かに」と中田さんも言った。


 人を好きになるということが未だに私はぼんやりしている。中田さんも渡辺さんも好きだし、光君も灯君も好きだ。


 でもたった一人の人を決めて、好きになるというのが分からない。



 体育祭の準備で毎日遅くなる。放課後に残って、私はクラスの旗を作ったりしていた。


「コトちゃん、俺、今日先に帰る」と光君が言う。


「あ、うん。分かった」


「でも、また迎えにくるから」


「え? どうして?」


「だって危ないし…。自転車もコトちゃんのところに置いてるから」と光君が言う。


「あ、そっか。ママも御飯準備してるから、一緒に帰ろう」


 そう言うと、周りの人たちがこっちを見て、にやにや笑っている。光君は旗を描く係じゃないらしく、早く帰れるらしい。それで一度家に帰って、着替えて、終わる頃に迎えに来てくれると言った。


「ラブラブだねぇ」と中田さんに言われた。


「…うーん。現実になったら変わるのかな?」と聞くと、中田さんは「中崎君はないでしょ?」と言った。


「私、まだ恋愛って分かんなくて」と言うと「あんなに男前に言い寄られたら、バグったりするのかな」と渡辺さんがため息を吐いた。


「バグってるのかな…。小学校から一緒だし…」


 必死でクラスの絵柄を筆で縁取っていく。モティーフはデフォルメされた担任の全身像イラストだ。渡辺さんの図案が採用されたから、私も中田さんも手伝っている。絵具で塗りながら、誰が走るのが早いとかそんな話で盛り上がった。


 帰宅を促す放送がかかったので、道具を片付ける。


「もうすっかり暗くなるのが早くなったね」と渡辺さんが言った。


「うん。これから寒くなるね」と私が言うと「秋って少し寂しい」と中田さんがおセンチな気分だと言った。


 私はみんなと一緒にいるのが楽しいし、クラブ活動をしていない私にとっては放課後に残るのは楽しい体験だったけど、それもあと半年でクラス替えかと思うと淋しくなる。教室の鍵を返しに行って、私たちは並んで廊下を歩いた。


「ねぇ…水泳部、どうなってるのかな」と中田さんが思い出したように言った。


「クラブ対抗リレーに出るでしょ?」と渡辺さんが言う。


「…佐々木コーチは元気かな」と私もふと気にかかった。


「ちょっと顔出してみよっか」と中田さんが言うから、少しだけ寄り道をすることにした。


 二人に先に行ってもらって、私は校門にいるであろう光君に声を掛けようと、急いで校門に向かった。


 校門に人影が見えたから私は走って向かう。光君と灯君もいた。


「あ、灯君…今日は早いね」と私は驚いて言うと「テスト期間中だから早くて。一緒に来た」と言う。


「あのね、ちょっと水泳部を見に行こうかなって」と私が言うと、二人も一緒に行ってくれた。


 私が水泳部に二人と行くと、中田さんたちが光君たちを見て、固まっていた。


「イケメンが…増殖してる」と渡辺さんが言う。


 光君が灯君を双子だと紹介している。佐々木コーチが着替えて出てきてくれた。


「あなたたち…」と言うので、みんなで挨拶をした。


 佐々木コーチは水泳部で頑張ってるという話をしてくれた。私は高坂さんのことが気になって、男子更衣室を見に行きたいと言ってみる。


「…そうね。もうみんな帰ったから…」と言いながら、佐々木コーチは一緒に行ってくれた。


 男子更衣室の鍵をまわす瞬間、少し髪の毛を整えていたことが印象的だった。


 暗くて湿っぽくて私には空っぽの部屋にしか見えない。光君と灯君には見えるのだろうか、と思って横を向いた時、


「随分、状態よくなってますよ」と灯君が言う。


「うん。これなら大丈夫」と光君も言った。


「高坂さん?」と二人に佐々木コーチが聞く。


 光君は更衣室で後輩である生徒たちが生き生きしだしているのを見て、喜んでいるという。


「ありがとうって…」と佐々木コーチに向かって光君が伝えた。


 佐々木コーチは何も言えずに何度も頷くだけだった。涙が光って落ちていく。


「一つだけ…やり残したことがあるって」と灯君が言うから、佐々木コーチは少しはっとした顔をする。


 みんなで校門を出た時、そこに川上コーチがいた。


「美子…やり直そう。メッセージ読んでくれた?」


 私たちもいると言うのに全然視界に入っていないようだった。


 川上コーチがにじりよるから、佐々木コーチが後退りする。


「赤ちゃんだって、いるのに」と言いながら、ゆっくりと距離を取ろうとするが、お構いなしに近づいてくる。


「堕ろさせたよ。あいつに子育てなんて無理だ。ヒステリーだし。なんなら、産んでもらって、二人で育ててもいいな」と訳の分からないことを言う。


 光君と灯君が佐々木コーチの前に出る。その瞬間、カラスの鳴き声がしたかと思うと、川上コーチの頭を狙った。驚くべきは川上コーチがカツラだったということだ。カラスはそれを咥えて、飛び去った。あまりのことに全員が呆然とする。


 何か声を発したような気がしたけれど、川上コーチは踵を返して、走って逃げた。


「あ…はは…は」と乾いた笑いをしたのは佐々木コーチだった。


「もう来ないと思いますよ」と灯君が言った。


「高坂さん…役目を終えたみたいだから。…行くって」と光君が言う。


 佐々木コーチは少し淋しそうな顔をした。双子は何か見えているのか、目を大きく開けた。私には何も見えない。ただ柔らかい風が吹き抜けていった。


「ありがと…」と佐々木コーチは誰に言うでもなく呟く。


 私は少し暮れかけている空を眺める。宵の金星だろうか。明るく光っている星を見つけた。

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