第17話

あるべきじゃないもの


 朝、光君と一緒に登校すると、渡辺さんが向こうから走ってきた。


「昨日、お父さん…」と息を切らせながら話してくる。


「おはよう。昨日、お父さんに会ったよ」と私が言うと「うん…」と言って、息を整える。


 すると横にいた光君が「え?」と言いながら、何度も目を擦っていた。


「お父さんが…ソーマがいるって…」と息切れしながら言う。


「いるよ。って…」と光君が渡辺さんの右側に目を凝らす。


「え? もしかして…光君、見えるの?」と私が訊くと「動物限定? すごい尻尾振ってる」と言った。


 渡辺さんが口を開けて、何か言おうとしたけれど、言葉が出ないようだった。


「…あ、え?」


「あの…すぐ横にいて。楽しそうにしてるんだけど?」


「あ、でも」と言って渡辺さんがふと何もいないはずの空間を見る。


「…学校、行ってみたかったって。いつも…行けないから」と光君が言う。


「足、あったかい。…あの子、いつも私が出ると…ついて行こうとしてて」と渡辺さんは涙を浮かべた。


「今日だけならいいんじゃね?」と光君は言う。


 良いも悪いも私たちには見えない。


「…あ、そうかな。じゃあ…学校行こうか」と渡辺さんは言う。


 そして道すがら、お父さんが実は毎晩、散歩していたことを渡辺さんは知らなかったと言う。昨日、帰ってきて、そんな話を聞いたと。だからお父さんも同じくらい悲しかったのに、ひどいことを言ったと話した。


「…大人になればなるほど、素直になるのは難しいのかも」と私は言う。


「そうかも。でも今日はソーマがいるなら、私もちゃんと真面目に過ごさなきゃ」と笑った。


 そんなわけで、私たちは見えないけれどゴールデンレトリバーのソーマと登校した。


 


 退屈な授業だけれど、少しそわそわしてしまう。私は見えないからソーマがどうしてるのか分からない。ソーマのせいか分からないけれど、その日、三時間目が始まる時に、白い野良犬が教室に入ってきた。大きな野良犬で、でも吠えることもなく入って来て、教室の隅に座って眠ってしまった。


 誰もがどうしたらいいのか分からなくて、でも追い出すこともせずに、授業開始のチャイムが鳴った。社会の先生が入って来て、授業がスタートした。


 私たちは誰も何も言わなかった。十分過ぎた頃に、先生が教室の隅にいる白い野良犬に気が付いて、大声を上げる。


「わー、犬が」と言うから、そこで初めてみんなで笑った。


 先生は本当に驚いたみたいで、その声で犬が目を覚ます。先生は何とか追い出して、そしてどこまで追い出したのかしばらく帰ってこなかった。私たちはおかしくて笑ってしまう。


 先生が戻ってきて最初に


「犬が怖かったわけじゃない。あるべきものじゃないものがあったから怖かったんだ」と難しいことを言った。


(あるべきものじゃないもの…)と私は思う。


 私は幽霊が見えないから、分からないけれど、灯君にはきっといろんなあるべきものじゃないものが見えるんだろうな、と思った。


「わー、まだいる」と先生が渡辺さんの方を見て言う。


 そして追い出そうと近づいて「あれ? 見間違いか? ゴールデンレトリバーが見えたのに?」と言うと、クラスのみんなは笑っていたけれど、私は渡辺さんの方を思い切り振り返った。渡辺さんは泣きそうな顔で笑った。


 その日は、そんなふわふわした時間で過ごして、放課後になった。


「…ソーマ、連れて帰るよ」と渡辺さんが言う。


「あの子、どうなったのかな?」と中田さんが心配する。


「用務員さんに預けたって言ってるけど…保健所とかに行く…のかな?」と私も不安になった。


「…ねぇ? これってソーマが連れてきたのかも」と渡辺さんが言った。


「え?」と中田さんが聞き返したものの、私たちは用務員室に向かっていた。


 一階の階段横に小さな用務員室がある。私たちはドアをノックして用務員さんに声をかけた。年配の男の人が出てきた。


「どうしたの?」


「あの。白い犬はどうなりましたか?」


「あぁ、あの犬、警察に渡そうかと話してて」と言って、部屋の中を指さすと、何もしらないのかのんびりと床に寝そべっていた。


「あの、あの、私、お母さんに聞いてみます。もし飼えるのなら、連れて帰っていいですか?」と渡辺さんは訊いた。


「いいけど…。今日中に迎えに来れる?」


「今すぐ帰って、それで…すぐ戻ってきます。もしだめでもちゃんと戻ってきます」と渡辺さんはクラスと名前を言う。


「まぁ、じゃあ、少し待つからね」と言ってくれたので、私たちは慌てて、校門に出た。


「コトちゃんは光君と待ち合わせしなきゃ、でしょ?」と渡辺さんは言って、中田さんもコトの顛末を知りたいと付き合うらしく、二人で走って帰って行った。


 私も気になったけど、光君の教室まで戻ると、ちょうど終わったところだった。


「あ、コトちゃん。帰ろう」と笑顔を見せてくれた。


 私は今日あったことを話すと、光君は微笑みながら「良かった」と言った。


「犬の霊だけ見えるの?」と私が訊くと


「なんでだろう? 見えたんだよね? しかもはっきりと。後、頭の中に気持ちも入ってきたし」と光君が言う。


「今は見えない?」


「見えない」と言う。


「見えた方がいい?」


「うーん。どっちも嫌かな。見えたっていいことなんて何もないし。でも…最近、灯に頼ることが多いから、それなら見えた方がいいかなって」と頬を膨らませる。


「そっかぁ。社会の先生はあるべきじゃないものがあると怖いって言ってた」


「なんだそれ?」と笑う。


 廊下を通って、私は窓から運動部が活動しているのを眺めた。


「光君は部活しないの?」


「あー、だってしたら一緒に帰れないから」


「え? そうなの? 気にせずクラブ入ったら良かったのに」


「俺はコトちゃんと帰りたいの。コトちゃんが家庭科部に入るなら、俺も入る」と言うから思わず吹き出してしまった。


「私は…」


 本当は光君が入った部活のマネージャーになりたかったけど、入学早々、浮いてしまったから、そんなことはできなくて帰宅部に所属しているだけだった。


 そんなことを言えなくて、私は少し困った顔で


「まだ決められてなくて…きっとこのままかな」と言った。


「いいじゃん、一緒に帰ろう」


 そう言ってくれる優しさが嬉しくなる。こうして時間を重ねて、私は光君のことが理解できて、好きになって、友達から恋人になるんだろうな、と思った。


「あ、ママが家でご飯食べるって聞いてほしいって。お好み焼きするんだって。灯君も呼んでって言ってたけど」


「えー。いいの?」


「うん。いいよ。ママも嬉しそうだし」


「聖ちゃん…。賑やかなのが好きなの?」


「うーん。そうなのかな? よく分かんないけど、楽しいから来てって」


 私たちは並んで同じ家に向かう。


 誰ももう気にしなくなっていた。あの四月は一体、なんだったんだろう、と思い返すこともあるけれど、私は過去だと割り切って深く考えなかった。


 


 灯君も来て、お好み焼きをみんなで作る。パパは仕事で遅くなると言っていたので、何だか平和な空気だった。テーブルの上にはホットプレートが出されていた。


「十子さん達の分も作るから持って帰って」とママは張り切っている。


 キャベツの千切りは私と光君と灯君と三人でしたから早かった。私は灯君にも今日の出来事を話しした。


「野良犬はやっぱりソーマが連れてきたのかな?」と私は聞いてみる。


「どうだろうね。でも野良猫同士でも餌場の共有をしてるみたいだし、あるかもね」と灯君が言う。


「灯君は野良猫の会話も分かるの?」


「まぁ、聞こうと思えば…」


「へえ。どんな話してるの?」


「餌の話が主だけど…、割と住んでる人のことを把握してたりするよ。そこのおばあさん亡くなったとか、奥さんが変わったとか」


「奥さん変わった?」


「髪型が変わっただけなのか、人が変わったのか分からないけどね」と灯君は言う。


「あー、そう言えば、野良猫っていろんなこと知ってた」と光君も言う。


 灯君はじっと光君を見た。


「なんだよ?」


「元に戻ったんじゃない?」と灯君が言う。


「元に?」


「見えるようになったってこと」


「犬は見えたけど」


 光君は目を逸らす。


「灯君は…見えるの辛い?」と私は聞いてみると、不思議そうな顔をした。


「生まれた時から見えるから…鳥見えるのと同じで、辛いとか、そういうのはないよ」と言う。


「でもいろんな人の話を聞くのって…」


「それはね。少し…」と言って、軽く俯く。


 やっぱり大変なこともあるんだ、と私は思って大きなお好み焼きを灯君に渡そうとすると「コトちゃん、演技だから。それ、そいつの演技だから」と光君が言う。


「え?」


「ばれたかー」と笑いながら、それでも大きいお好み焼きを自分の方に引き寄せた。


「あー」と光君が言うから「二枚目作ったらいいよ?」と私はまたボウルにキャベツを入れる。


「そうよ、たくさん食べて」とママも嬉しそうだった。


 お好み焼きをたくさん食べた二人は少し床に転がっていた。


「美味しすぎて、動けない」と光君も灯君も同じようにゴロゴロする。


「イケメン双子がゴロゴロしてるのって、すごい破壊力ね。ずっとゴロゴロしてなさい」とママが言う。


「アイスあるけど、食べられる?」と私が訊くと、二人とも首を横に振った。


「もうお風呂とか入っちゃう?」とママは嬉しそうに言う。


「聖ちゃんの家、居心地よすぎる」と言って、灯君は起きた。


「うん。そろそろ片付けして帰る」と光君も言う。


「あらら」とママは淋しそうに呟いた。


「予習復習もしないと…だからね」と灯君は言う。


「勉強、大変?」


「そうでもないよ」と灯君は言って、お皿を片付けてくれた。


 そして私たちはいつもの様に家まで散歩がてら送って行く。


「…見える」と光君が呟いた。


 私には誰も見えないけど、電柱のところを眺めながら「なんでおっさんって電柱の横にいるんだろ」と呟いた。


 でもそれだけで今日は何事もなく無事に終わった。ちょうど仕事帰りの十子さんと鉢合った。


「あー、いつも本当にすみません」と言うからママが「いつもでも本当にいいんです。なんなら、うちから通っても」と言うので、十子さんを慌てさせた。


「お好み焼き、たくさん作ったので、食べてください」とママは渡す。


「私たちの分まで」


「いいんです。すごく楽しくて…。二人には感謝です。また来てくださいね。ってか、明日も来てね」とママは言う。


「…じゃあ、日曜日は家に来てください」と十子さんが言うとママは「それはいいです。日曜日は、まったりしたいんです」と謎の発言をする。


「あ、日曜日はコトちゃんと出かけていい?」と光君がママに訊く。


「え? じゃあ、晩御飯は一緒に…」とママが言いかけたら


「うちで」と十子さんがすかさず言う。


 そんなわけで、日曜日の夜は光君たちのお家にお邪魔することになった。


 私は帰り道、ママにどうしてそんなに人を呼ぶのが好きなのか聞いてみた。


「それはね。いつまでもこの時間が続かないの分かるから。コトちゃんはいつかお嫁に行くし、お嫁に行かなくても、高校生、大学生になったら、もう一緒にご飯を食べる機会なんてないの知ってるの。だから…出来る限り一緒にいたくて」


「ママ? 私たち、家族だから…」


「家族だからずっと一緒にいたいけど」と私の頭をぽんぽんと叩きながら「あぁ。想像しただけでも涙が出てくる」と言った。


 ママと言いながら、私はそっと腕に触れる。


「コトちゃん。ありがとうね。ママって言ってくれて」


「…ううん。こちらこそ…ありがとう。こんなに優しくしてくれて」


 そんなことを言い合っているとパパから連絡が来て、帰る途中だから、車で家まで送ると言ってくれる。すごく近所なのに、と言って、二人で笑った。せっかくなので、車を待って、三人で帰る。


「パパ…日曜日、光君の家に行くね」と言うと、すごく不機嫌な声で「ふん」と言った。


 それを聞いて、ママはにこにこ笑っている。その時、急にパパがブレーキを踏んだ。


「大丈夫?」と私はママにもパパにも聞いた。


「大丈夫」とママは手をついてお腹を守っている。


「どうしたの?」


「何か飛び出してきたような…」とパパが車を降りた。


 私も確認したけれど、何も見えない。


「…気のせい?」と私が訊くと「いや、確かに…」とパパは言って、念のため車の下までスマホで照らしながら確認した。


「何が見えたの?」


「黒い…人影」とパパは歯切れ悪く言う。


 とりあえず、生きてる人間じゃなさそうで、私たちはそのまま車を発進させた。そう言えば…光君がおじさんを見た電柱が横にあった…と私は思ったけれど、何も言わないままにした。

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