花見の宴
うららかに晴れた青い空が美しい、とある日。後宮の御苑にて、花見の宴が開かれた。
主催となったのは高淑妃と楊賢妃。招かれたのは後宮の妃嬪達と、皇太后。そして皇帝だった。
毎年恒例のこの宴に皇帝が姿を見せたのは初めてのことであり、集う人々は好奇心や驚愕に加えて、畏怖など。それぞれの思惑の籠った、様々な視線を皇帝へ向けた。
多くの人々は次いで、その隣にある莉修儀を見る。
こちらには嫉妬や羨望の色が濃く滲むものが多い。翠媛としては、時折肌に突き刺さるような感覚を覚えること多々である。
しかし、それは仕方ないと心の中だけで大きく溜息を吐いて。顔には微笑を絶やさぬまま皇帝の横に設えられた席に腰を下ろしている。
上座ではあるが、皇帝とはなるべく互いに視界に入らぬよう配慮された場所には皇太后の席が設けられている。
皇帝の席から見えないということは、隣の翠媛からも皇太后の様子は見えない。
だから、今あの女性がどのような表情でいるのかは分からない。
けれど、何故か寂しげな表情をしているような気がする。
やや離れた場所には、四夫人の席がある。しかし、そこにある人影は二つだけ。
貴妃は元々不在であり、一人は先日世を去った。今残っているのは、高淑妃と楊賢妃の二人だけ。
少し前までは、あのお二人に賢妃様も並んでいたのだ、と思った瞬間。脳裏にあの日の賢妃の叫び声が蘇る。
『貴方さえ来なければ! 貴方がいなければ! 憎いわよ、貴方が! 貴方が死んでしまえば良かったのに……っ!』
血の涙を流しているのではと錯覚させる程の凄絶な眼差しを向けながら、翠媛へと憎悪を叩きつけた安賢妃。
彼女の言葉は、皇帝の訪れの無い後宮の女達の胸の奥底に潜む心である気がする。
元より後宮での栄達を諦め、寵愛など望まず来た自分とは違う女性達。
それぞれに、賢妃のように背負うものも、心に抱えるものもあっただろうに。それが報われることはない。
寵は後宮において栄華を叶える力であり、全てを左右する決定的なものである。
思わぬ経緯であっても、真実それとはいえなくても。手にしてしまった以上、伴う怨嗟を受けるのは逃れられない。
そして、もう逃げようとは思わない。
仮初であっても、真実であっても。劉景の隣にあることができるならば、向かい来るもの全てを受け止めてみせる。どのような追い風であっても、立ち向かって見せる。
最初は、自分でいられる場所を守りたいだけだった。
でも、今は違う。守りたいものは、劉景が人に戻れる場所。
自分がその場所となり得るならば、この先も怯むことなく向けられる悪意を耐えられる気がする。この人と、共に居られるなら……。
思索に耽りかけていた翠媛は、ふと沸き起こった楽しげな歓声に引き戻された。
庭のあちこちから、小さな幾つもの影が踊りでるように飛び出してきたのだ。
見ていた妃嬪達が次々に嬉しそうな声をあげる。
「まあ、何て可愛らしい」
淑妃の合図にて放たれ、その場に和やかな空気を齎したのは子犬や猫、兎といった小さな生き物たちだった。
皆揃って花見に相応しい花の飾りをつけて、円らな瞳ではしゃいで駆け回り、妃嬪達に無邪気に甘えて見せている。
後宮に入れるにあたり、全て性別は雌で揃えているらしい。実に洒落がきいていると思った。
妃嬪や宮女達は顔に素直な喜びや驚きを浮かべながら、転がって見せたり、すり寄って見せたりする小動物を構っている。
しかし、何故か子犬や子猫、子兎たちは、何故かしきりと無表情な皇帝の方へ行きたがるのだ。
慌てた宮女や宦官たちがそれを抱えて止めていたが、皆の視線の先で皇帝は不機嫌にも思える険しい表情で唇を引き結んでいる。
機嫌を損ねてしまわれたか、と蒼褪める人々の中、翠媛だけは違っていた。
ああ、小さきものたちには分かるのだ。彼が小さな動物を愛して已まないということが。
翠媛は察していた。劉景は不機嫌なのではない、むしろその逆だ。恐らく内心では心は踊っているだろう。
競うように美しく咲く花々に、無邪気に戯れる小さな生き物たち。これでもかという程に、劉景の好むものばかり。
しかしながら、ここは大勢の人々の目の前である。
人の目のある所では、威厳にて他を圧する冷徹な『鬼神』であることを自分に課す劉景は、無論のこと小さな生き物を慈しむことができない。
和やかで愛らしいものに満ちた宴の場は、思う存分愛でたい衝動と戦い続ける、ある意味彼にとっては拷問のような空間となってしまった。
この状況での我慢はさぞ辛いだろう、と翠媛は密かに同情していた。
動き回る動物たちに向ける眼差しは険しく見える。だが、それは内なる苦悩の表れだ。
本当は心ゆくまで腕に抱いて愛でたいのだろうな、と思う。
傍らに控える黒獣達も、まざって戯れたいのを必死に我慢しているようだ。
動物たちを見て緩みそうになる表情を必死で耐えているのが、隣にいるからこそよく分かる。
忍耐を自分に強いている状態が、尚の事皆にとっては不興を買ってしまったのか、と映っているらしい。
つくづくこの主従は不憫だな、と思いながらも、翠媛は努めて淑やかに微笑んで小首を傾げて見せた。
「陛下。わたくし、宮であのような動物を飼ってみたいのですが」
「……許す。好きにせよ」
熱心に頼んでいる様子を見せながら言う翠媛へと、劉景は一つ息を吐きながらぶっきらぼうな答えを短く返す。
人々がざわめいた中、声の端に喜びが滲んだのに気付いたのは多分翠媛だけだ。
あの陛下が妃嬪のおねだりを聞いた、と驚いている人々は想像もしないだろう。
その皇帝が、心の中で密かに快哉を叫んで喜んでいるなどとは。間違いない、口元が間近で見なければ分からない程に微かな笑みを作っている。
優しい苦笑を噛み殺しながら、翠媛が淑妃様にあの動物たちの中から性質が良さそうな子を選んで譲ってもらおうと、傍らの喜娘へそれを伝えようとした瞬間。
翠媛の耳に届いたのは、喜びに満ちた歓声ではなく――恐怖と驚愕に満ちた悲鳴だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます