滲む不穏
翠媛が玄央宮に招かれてから、また暫く平穏に見える日々は続いた。
あの日以降、皇太后から再びの来訪を求める旨はなかった。
翠媛としては皇太后について気になることがある為、こちらから使いを送るべきかとも思ったが出来なかった。
他ならぬ劉景が苦い顔をするからである。
明確に口に出して止めはしないものの、翠媛が皇太后の話題に触れようとするとはっきりと心中穏やかならぬことが伝わってくる。
触れないでくれ、と言葉に依らず訴える劉景の傷ついた表情を見たくなくて、再びの邂逅はついぞ叶っていない。
劉景は、最近で皇宮の自室に戻ることも殆どなくなり、政務以外の殆どの時間を百花の宮で過ごすようになっていた。
きっと一時の気まぐれと笑っていた人間達も、これはいよいよ本物かと驚愕に囁くようになったらしい。
後宮に妃嬪は数多あるが、実際の処その名が指すのは翠媛一人、とも。
実のところ、皇帝が後宮を訪れても、足を運ぶのは翠媛のもとだけ。他の女性のもとには一度として訪れたことはない。
これでは一夫一妻と呼んでも過言ではないだろう、と皇宮の人々も、後宮の人々も話している、と喜娘から伝え聞いた。
自分に関して人々が話す内容を聞かされて、かなり面映ゆくて仕方ない。
劉景に、たまにはどなたかの元を訪れては、と言ってみたことはあるものの、即座に拒否が返ってきた。
『俺がこうして来たいと思うのは、お前のところだけだ。他などいらない』
はっきりと言い切られて、更に気恥ずかしさに俯くことになってしまった。
劉景が百花の宮を訪れることも、翠媛と共に休むことも。翠媛の為であり、秘密を共に守り続ける為なのに。
これでは、と頬に熱が集うのを感じながら、翠媛は思う。
勘違いしてはいけない、と思う。劉景の言葉を都合の良いように解釈して、勝手に喜んでしまいそうになる自分を必死で戒める。
本当は気付き始めている。
自分の中に芽吹き、育ちゆくものが何であるのか。
けれど、駄目だとも思う。
もし、それが花開いてしまったら。それを伝えてしまったら、翠媛は劉景にとって他の女性と同じ、本当の意味で心を許せないものになってしまうかもしれない。
自分の寵を求めるものと居ては、劉景はけして心安らげない。
翠媛にとっても、本当の自分でいられる居場所を失うことであるし。劉景もまた、気負うことなく本来の姿を見せられる相手がいなくなる。
その可能性に思い至ってしまうからこそ、心に過る想いを閉じ込めている。
失うことを恐れて、踏み出せない。誰よりも近い場所にいるけれど、だからこそ踏みとどまってしまう。
侍女を下がらせて二人きりになると、劉景は『鬼神』の面を外して本来の人に戻る。
翠媛もまた、人々が望む嫋やかな『天女』ではなく、本来の姫ならざる自分に戻れる。
心に近い想いを感じはする。
手を伸ばした先に触れる手があることを。見つめる先に、見つめ返してくれる瞳があることを。お互いに求めているとは思う。
日が経つごとに、時を共に過ごすごとに。言葉にせずとも、互いが相手の存在を傍に求めている。
けれど、それを翠媛も劉景も、言葉にできずにいる……。
黒天鵞絨のような闇が空を覆い、夜更けて。
二人の姿はいつも通りに牀の上にあった。
劉景はこのところ何かとりこむことがあるようで、疲れているように見える。
無意識のうちに溜息をつくことが増えたのも気になる。
「……何か、心配ごとがあるのですか?」
翠媛が翡翠の眼差しを真っ直ぐに向けて問うと、劉景は黒曜石の瞳に僅かに戸惑いを滲ませた。
二人は、帳に覆われた牀という小さな世界において、向き合っている。
以前は背を向けあっていたものが、いつの間にか自然に顔を合わせながら話し、そのまま眠るようになっていた。
無防備なまでに寛いだ様子の劉景が見られるのが嬉しくて。温もりや吐息を感じられることで、彼が確かに生きてそこに居てくれているのが嬉しくて。
男性と一つの床にあることの気恥ずかしさより、温かな感情が勝る。
劉景は少しの間視線を彷徨わせ思案していたが、やがて一つ息を吐いて口を開いた。
「……皇太后が、おかしな動きをしている」
「え……?」
思いがけず皇太后の名が劉景の口から出たことに、翠媛は思わず目を瞬く。
避けがちにしていた話題であったから驚いたものの、すぐに表情は陰る。
劉景の声には、どうお世辞に見積もっても好意的にとれる響きはないし、言葉の内容もけして明るいものではない。
おかしな動きとは一体、と問いを込めて見つめていると、劉景は溜息交じりに続ける。
「傍系の皇族に、
劉景の話によると、鄒王という男性は、先々代……つまり劉景の祖父の弟に連なる血筋であるという。
皇后腹ではない為に皇太子とはならなかったが、れっきとした皇帝の血筋ということだ。
趣味人として知られてはいるが、実際の処なかなかに食えないところも持ち合わせているのだとか。
その男性に皇太后が接触している。
ただ『連絡を取り合っている』だけなら、挨拶程度であったり、時節の挨拶であったりの可能性もある。
だが、そのような平穏なものであるならば、劉景がこうして苦い表情になることはあるまい。
皇太后の思惑が読めずに、浮かぶ疑念は明確な形にならない。
何を思って、あの方はそのような行動に出ているのか……。
翠媛の問いに答えを開こうというように、劉景は更なる事実を告げる。
「そして、その鄒王は最近しきりにきな臭い動きをしている」
武芸を好むから、ととってつけたような理由をつけて、私兵となり得る者達を王府に集めている。
頻繁に皇宮に現れては、高位の官吏の元を訪れて何やら話し込んでいる。それも、劉景に対して懐疑的なものたちを選んで。
更には、我が物顔で皇宮を歩いているのを見かけた者も多いとか。まるで……自らが皇位に就きでもしたように。
如何に皇宮の事情にそこまで詳しいわけではない翠媛にも、皇太后と鄒王の接触がどういう意味を持つのかが見えてきた。
まさか、と思いながら、翠媛は震えかける声を必死で抑えながら問う。
「皇太后様は、その方を皇帝の座につけようと……?」
「鬼よりはまし、と思ったのかもしれんな」
翠媛の疑問を肯定するように、劉景は大仰に肩を竦める。
皇太后は政治に介入することを望むが『鬼神』たる劉景は畏怖を以てそれを阻み続けてきた。
新たな傀儡を求め彼が子を持つことを期待していても、どの妃嬪もそれは叶っていない。
だから、正しい皇族の血を引く人間に白羽の矢を立て、擁立しようとしている。
鄒王という人物に関しては、事が為ったわけではないのに振舞いが短慮であるし。皇位を狙っているというのであれば、もう少し水面下で動けないのか、と思いもする。
分かりやすすぎて完全に皇帝に筒抜けではないか、と若干呆れたのを隠しながら、翠媛は先日の皇太后の姿を思い出す。
野心家の女傑といった風評とは裏腹な、穏やかで物静かな女性。
早く孫の顔を見せてくれ、と微笑んだ様子はとても優しかった。
あれは、早く傀儡をおくれという意味だった? 皇太后は本気で彼を廃して、違う人間を皇帝の座に据えようとしている?
違う、と心の中に弾けるようにして浮かんだ。
理由は説明できないし、根拠はない。本人の口から直接聞いたわけでもない。
けれども、皇太后の真意はそこにはないという不思議な確信がある。
その鄒王という傍系の男性と皇太后が何かしらの意図を以て接触しているのは、揺らがぬ事実なのだろうと思う。
ただ、その裏にある感情は、劉景が想像しているものとは違うような気がしてならない。
楽天的に過ぎるかもしれないし、上辺に誤魔化されているだけなのかもしれない。
ただ、心に過ぎるのは、皇太后が宝と思い慈しみ育てる花が風に揺れる姿。この百花の宮の庭にも咲く、愛情失くして咲かせられない幻の花。
光を受けて輝いていた花弁が大切な何かを伝えているような気がする……。
「翠媛?」
「え……。あ、申し訳ありません。少し考え込んでしまって……」
ついつい物思いに耽ってしまっていたようで、気が付いた時には劉景が訝しげな様子でこちらを覗き込んでいた。
彼の端整な顔が間近にあって一瞬肩が跳ねたが、すぐに我に返って話の最中に気もそぞろだったことを詫びる。
翠媛の様子を見て、話した内容が懸念となったと判断したらしい劉景は苦笑いを浮かべた。
「まあ、本気でこちらに牙を剥くと言うなら、相応の対処をするまでだ。……誰であろうとな」
自らに歯向かう者であれば、相手が誰であろうと容赦はしない。
逆らう者に一切の容赦をしないと、冷徹な表情を浮かべて劉景は目を細めた。
人が見れば、やはり恐ろしい『鬼神』であると震えただろう表情を見て、翠媛は違うことを感じた。
誰であろうと、と呟いた時に微かに声が揺れたことに気づいていた。
皇帝への叛意を明らかにしてしまえば、それが例え皇帝の母たる皇太后であろうと処断を逃れられない。
場合によっては、劉景は自らの手で皇太后を。
翠媛は、顔を歪めて思わず唇を噛みしめる。あまりに哀しい、あっては欲しくない未来が脳裏を過ぎってしまったから。
ふと、手に温かな感触を覚えた。
驚いて見て見ると、劉景が翠媛の手を握っている。
目があうと握る手に少し力をこめて。安心させようというように僅かに笑って見せながら、劉景は話題を変えた。
「後宮で花見の宴があったな」
「はい。淑妃様と徳妃様が中心となっての催しだそうです。位を頂いている妃嬪達が招かれています」
後宮のほぼ中心にある御苑は今、花の盛りである。
妍を競って様々な色や形の花々が咲き誇り、足を運ぶ者達の目を楽しませ。ひと時、夢の世界に足を踏み入れたような心地にしてくれる。
この時期、後宮では花見の宴が催されるのだという。
四夫人が主催となり、妃嬪達を招く。実に華やかで楽しい催しであり、妃嬪達にとっても宮女達にとっても毎年の楽しみであるらしい。
「陛下にもお出ましを願えないか、と淑妃様は仰っておられましたが……」
「宴など、勝手にやれ」
絢爛たる花園に後宮の名花達が集う宴であるから。毎年、主催する妃たちは皇帝にもお出ましを願ってきたらしい。
しかし、皇帝からの応えは毎度そっけないもので。振舞い酒が側近によって手配されるだけだったという。
「皇太后も招かれているだろう。尚更、俺が行く理由がない」
後宮に興味がないだけではなく、恐らく皇太后も招待されているからだろう、と人々は声を潜めながら噂している。
理由はともかくとして、皇帝が花見の宴に出席したことは一度もない。
淑妃が肩を落とすのを想像し顔を曇らせた翠媛を見つめていた劉景は、一つ息を吐いた。
「お前が出席するのであれば、出席しよう。ただし、お前は俺の隣に座れ。それが条件だ」
出された条件に、思わず翠媛の顔が凍り付く。
実は、翠媛は宴には出席するけれど、適当な頃合いを見計らって退出しようとしていた。宴仕様の装束と化粧をいち早く解きたかったからである。
だが、皇帝の隣にあるならば、それは出来ない。少なくとも、劉景が退出するまで先に宴を抜けることなど出来はしない。
更に言えば、確実に後宮中の視線を集めることになる。間違いなく、宴の間の注目が集中され続けること不可避。
それに、また特別扱いということで、さすがの御寵愛だのと噂話と陰口は翠媛一色になるだろう。
淑妃様達を差し置くような真似も心苦しい。だが。
「もとより気の進まない席だ。……ささやかな望みを叶えたいと思ってはいけないか」
ふい、と顔を背けながら劉景は呟く
それが、まるで照れているようにも見えて。拗ねた少年のようにも見えて。
翠媛は思わず目を瞬いて、劉景の横顔を見つめてしまう。
隣に翠媛を置きたいと……存在を感じていたいと思っていると、劉景は言ってくれているのだと知ったなら。
嬉しいと思ってしまった翠媛に、拒む言葉など紡げるはずがないのである。
皇帝が宴に出席する意向を伝えたところ、後宮中は大騒ぎとなった。
どのように願ったとしても。どれほどの趣向を凝らしたとしても、一度として色よい返事を返さなかった皇帝が諾と伝えてきたのである。
淑妃たちも目を丸くしていたが、すぐに皇帝の席を設える準備を始めたとか。
条件が、翠媛の席を皇帝の席の隣に用意することだと聞いて、更にどよめきが走る。
やはり、あの異国の姫は特別なのだ。何かが違うのだ、と女達が顔を寄せ合って囁き交わす中。
――後宮が大きく揺れる宴の日は、ついにやってきたのである。
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