皇太后

 厳かに告げられた言葉に、一瞬にして翠媛の意識が今この場に戻って来る。

 慌てて居住まいを正すと、部屋に足を踏み入れた人物へ向かって膝をつき、礼を取る。

 侍女達を従えながら翠媛達の前に姿を現した女性こそ、他でもないこの玄央宮の主であるそう皇太后だった。

 黒を基調とした金糸の刺繍が美しい衣装に身を包み、羽衣を思わせる妙なる色合いの披帛を揺らし。

 結い上げた艶やかな黒髪には花を模した櫛や簪を挿して、同じ意匠の耳飾りが涼やかな音を立てる。

 切れ長な瞳が叡智を感じさせるこの女性こそ劉景の養母であり、現在は帝国第一の女性の地位にある方なのだ。

 恐らくは翠媛の母と同年代であるだろう。だが、劉景のような青年の母とは思えぬ程若々しい、そして美しい女性だった。


「楽になさい。今日は公のものではなく、私的な場です。かしこまる必要はありません」


 落ち着いた優しい声音で何度か重ねて促され、漸く翠媛は立ち上がり。手で誘われるままに椅子に腰を下した。

 やがて茶と菓子が運ばれてきて、ゆったりとした仕草で皇太后は翠媛にそれらを勧める。

 皇太后の顔には穏やかな笑みがあり、声音もまた穏やかだ。

 話題も、まず翠媛が打ち解けられるように当たり障りのないものである。

 威圧的な様子も挑発的な言動も、全く見られない。確かに、これは嫁と姑の私的な茶飲み話の場、といった表現が一番正しい。

 翠媛は、淑やかに微笑みながら礼を述べはしたものの、内心戸惑っていた。

 正直に言うと、どのように遇されるだろうか、とかなり身構えてやってきたのだが。今ここにあるのは、拍子抜けするほどに和やかな空間である。

 楚々とした仕草で微笑み、相槌を打ちながら。皇太后の心の裡が全く読めずに、翠媛は気を抜けば首を傾げてしまいそうだった。

 温かな部屋で会話は弾み、緩やかに時が流れていた。

 翠媛はふと、皇太后が自分をじっと見つめていることに気付く。

 どうしたのだろう、と思わず目を瞬いて見つめ返したなら、皇太后は翠媛へと微笑んで見せた。


「あなたが、陛下を本当に想ってくれているのがわかるから。陛下がようやくお側に近づけたのが、そなたのような女性で安堵したのです」


 言われて、思わず翠媛は赤面してしまう。だが、すぐに心の中に問いが生じた。

 確かに、皇太后は翠媛が劉景に対して真摯に向き合っていることを心から安堵しているように見える。

 だが、安堵したという言葉に反して、皇太后の表情は哀しげである。喜びは確かにそこにあるが、それ以上に複雑な感情を感じる。

 陛下、と劉景の事を口にする時に、声音に苦い寂しさが滲むことに翠媛は気付いた。

 咄嗟に浮かんでしまった戸惑いは隠しきれず、それに気付いた皇太后は一つ息を吐きながら目を伏せる。


「わたくしが政に介入しようとするのを陛下は快く思っていないから。もしかしたら、今日そなたは来てくれないかと思っていました」


 確かに、その可能性はあった。

 翠媛は自分の目で皇太后という人を確かめたいと思ったからこそ、招待を受けることにした。

 だが、皇帝は皇太后を快く思っていない。皇帝の不興を買いたくないと思う妃嬪であれば、それを匂わせ適当な口実にて断ることもあっただろう。

 皇太后もその可能性は考慮していたようだ。

 予想に反して翠媛が玄央宮を訪れたことを、素直に喜んでくれているらしい。

 自らが政治に介入しようとしていることも、皇帝と不仲であることも、皇太后は隠すことなく口にした。

 そこには裏を感じない。だからこそ、翠媛の内なる戸惑いと疑問は増すばかり。


「皇太后様は、何故に」


 政治に関わるのを望まれるのか、と続けようとした。

 権力を握ることを望んでいるようにも見えない。専横の行いを望んでいるようにも思えない。

 それなのに、と思ったけれど。問いの続きを紡ぎきることはできなかった。

 見つめる先で、皇太后があまりに哀しげな苦笑いを浮かべていたからだ。


「……本来であれば、地位も権力も。重荷にしかならぬ子でしたから」


 俯きながら呟かれた言葉に、翠媛は目を見張る。

 そう、本当の劉景は温和な青年だ。作り上げた仮面への畏怖に傷つく、誰よりも繊細な青年なのだ。

 地位も権力も望んでいない、むしろそれが心に重く感じる優しい人なのだ……。

 皇太后は、遠い過去に思いを馳せるよう目を細めている。懐かしみ、戻らぬ時間を慈しむように。

 もしかして、と翠媛は浮かんだ可能性を裡に呟いた。

 この女性は……劉景の『本当の顔』を知っているのではないか。彼が本当は、鬼ではなく誰よりも人なのだと。

 長じて冷酷と称されるようになる前の、優しい皇子のままなのだと。

 しかし、ゆるやかに頭を左右にふりながら、表情を陰らせた皇太后は続ける。


「あの子は、けしてわたくしを許さないでしょう。それも、仕方のないことです……」


 翠媛は、内なる困惑を表に出さないように必死だった。

 反目しあっていると聞いた。

 政治に介入しようとする皇太后と、それを『鬼神』の仮面を被りながら拒む劉景。

 概ね皇帝を畏れながら支持するものばかりだが、皇太后の影響力もまた油断ならないものであると聞いた。

 だからこそ、翠媛は皇太后に対して野心的な女傑といった心象を抱いていた。

 けれど、どうだろう。

 こうして対峙した皇太后から野心めいたものは感じない。ただの一人の女性であり……子を心配する、一人の母だ。

 皇太后は劉景を奪う為に、劉景の実母を害したと言われている。

 許さないだろう、という言葉の理由はそれ故なのだろうか。

 己の地位を固める為に他の人を害してまで、子を奪うような女性には見えない。

 それとも、何か思い余ってしまう何かがあったということなのか。

 真相は分からず、問うのが憚られる。

 分かるのは、劉景が己を母の仇と嫌悪していることを皇太后が知っていること。知っていて、甘んじて受け入れていること。

 そして、彼女が劉景を心から案じているということ……。

 裡に様々な思いと考えが渦巻き鬩ぎ合い、言葉を紡げずにいる翠媛へと、皇太后は場の空気を変えようという風に微笑んで見せる。


「よくよく陛下にお仕えして、わたくしにいつか孫の顔を見せて下さいね。今、陛下に誰よりも近しいのは、そなただけなのですから」


 自分と劉景の関係にまつわる本当のところを思えば、どうにも微妙な表情になりかけてしまうけれど。

 傍に居たいと思う心は真実であり。そして、近しい場所にて彼を支えたいという心があるのも真実だ。自分の中に確かに感じつつある、確かな心だ。

 だから翠媛は、努めて明るく朗らかに微笑みながら。少しの恥じらいと共に淑やかに頷きを返した。

 その後は、先程のような当たり障りのない話題での和やかな空気が戻ってきて。笑みの絶えない時間が静かに流れていった。

 やがて、玄央宮を辞す時間となり。翠媛は来た時に案内してくれた侍女の先行きで元来た道を進む。

 どうやら老齢の侍女は、劉景が皇太子となる前から……彼がこの玄央宮にて皇太后の元で親子として暮らしていた頃から仕えているらしい。

 侍女は悲しみに満ちた溜息をつきながら、皇太后が去って行った宮の奥へと視線を向けて呟く。こうではなかったのだ、と……。

 どういう事か、と翠媛が問う眼差しを向けた先で、侍女は目に涙を滲ませていた。


「陛下が立太子される前までは……とても仲の良い親子でいらしたのです……」


 彼女の話によれば、母を亡くした劉景を手元に引き取った皇太后は、劉景を実の子のように育てたという。

 劉景もまた、徐々に皇太后に心を許し、次に笑顔を見せるようになり。

 心から慈しみ、心から慕い。二人は、傍目に見ても血が繋がってないとは信じがたい、仲の良い親子であったという――立太子の前までは。

 ああ、と翠媛は心に呟いた。

 立太子の際に、劉景は『真実』を知らされた。実母の死にまつわる出来事を。

 そして養母たる皇太后に問いを投げかけ、その態度から『真実』が確かであると確信を得てしまった。

 為さぬ仲と言われる間柄ではあったけれど、真実通い合う心があったから。

 心から皇太后を慕っていたからこそ、劉景は尚の事知ってしまったことに傷ついたのかもしれない。

 憎むことでしか心を保てないほどに、傷ついてしまったのかもしれない……。


 玄央宮を出た翠媛は、何も言わぬままあの庭があるだろう方角を見つめる。

 あの女性は、今日もまた白い花の世話をするのかもしれない。

 真実慈しむ心がなければ育てられないはずの幻の花を、息子がしているのと同じように優しく。

 心の中に、帰らぬ過去を懐かしむ哀しみを抱きながら……。

 翠媛が皇太后の招待を受けた、という話は既に後宮中に出回っていた。

 騒めきある種の騒ぎとなっている状態である。当然、劉景の耳に入らないわけがない。

 何もなかったか。何かされなかったか、と顔を蒼くして劉景に問われ、翠媛は彼を落ち着けようと試みながら思う。

 あの方は、本心から劉景のことを案じていたような気がした。

 少なくとも、己が権勢を誇りたいからと、人に無理を強いたり、あまつさえ害したりなどされるだろうか。

 そう見せているだけかもしれない。うまく乗せられているだけなのかもしれない。

 でも、翠媛の心の中から言葉に出来ない問いは消えない。答えが出ない。

 だってあの方は、月光花を育てることができるのだから、という呟きは。音にならず、溶けて消えた――。



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