来たる誘い
賢妃が亡くなってしばらく揺れていた後宮は、一先ず穏やかさを取り戻しつつあった。
翠媛への嫌がらせは、表向きは止んだ。
首謀者であった女性が居なくなった為という声があったが、翠媛は違うと思った。
動きが水面下に潜り見えなくなっただけで、悪意はなおも存在している。
そしていつか、隙を見せるのを虎視眈々と伺っている。何時でも翠媛に成り代わろうと機を狙っている。
考えすぎだと思いたいが、ふとした瞬間に肌に突き刺さるような感覚がそうさせてくれない。
焦らすように遠回りに攻めてくるぐらいなら、いっそ剣を持って直接向かってきて欲しいと思う。
分かりやすく物理的な嫌がらせであれば、翠媛は何とでも耐えられるし避けられる。被害を最小限に留めることが可能だ。
淑やかな天女を演じてさえいなければ、正直に言うと嫌がらせとも言えないと思っている。人の目がないところで若干猫を脱いで何とかしている。
たまに劉景がそれを察して何か言いたげではあるが、結局はただ「無理はするな」と告げただけだった。
翠媛にとって武器をとって向かってこられるよりも怖いのは、目に見えざる悪意を巡らされることだ。
それが、周りにまで被害をもたらすこと。更には劉景の心の重荷となってしまうことが、怖くてたまらない。
賢妃の死を契機として、後宮の妃嬪の位はかなりの数が空位となった。
嫌がらせで終わらず、翠媛を排除する為の様々な謀に手を貸していた者達が暴かれ、身一つで追い出されたのだ。
どれ程の位が空いたのかを聞いて、翠媛は言葉ないまま蒼褪めた。
皆が等しく並んでいた状態から抜きんでた者が居た。
後から現れた新参者が、皆が欲しがるものをさらっていった。
それを快く思わない人間がいるのは仕方ないとは思う。
けれど、それほどの数の人間が自分を疎ましく……殺してでも排除したいと思っていたと見せつけられると、さすがの翠媛も目を見張ることしかできなかった。
後宮とはそういう場所なのだと、改めて思い知らされる。
皇帝の寵愛を競う女の園は、少しでも抜きんでれば恨みや妬みを向けられ。少しでも隙を見せれば、たちまち追い落とされ命すら奪われる。
そのような場所で息子の為に耐え続け、戦い続けた母を、劉景はずっと見ていたのだ。
劉景は可能な限り翠媛へ守りを及ぼそうとしてくれていたけれど、やはりそれとて限りはある。
彼は、亡き父が悔いていたように、事あるごとにすまないと翠媛に詫びる。
確かな守りを与えられないことをすまないと口惜しそうに劉景が言う度に、翠媛は黙って首を振る。
故国は小国であり、また遠方であるが故に後ろ盾としては弱い。紹嘉の貴族の娘の方が、血族がより強い後ろ盾となる。権勢としては強いだろう。
恐らく、翠媛にこの国における後ろ盾を与えるだけなら容易いのだろうとは思う。
ただ、その裏には必ず何がしかの思惑がある。皇帝に取り入ろうとする者達の良からぬ意図が働く可能性は高い。
節を曲げてでも翠媛を守る為にそれらを受け入れるべきかと苦悩する劉景に、翠媛は静かに首を左右に振る。
彼がどれだけの苦悩と犠牲の上に平らかな治世を守り続けているのか知っているから、それを自分の為に揺らがせたくない。
『私は貴方が思っているより頑丈なのですから。そんなに心配しなくても大丈夫です!』
殊更に明るく言いながら笑って見せると、劉景は静かに翠媛を抱き締めた。
翠媛は少しだけ目を見張るけれど、いつも拒まない。
始めは胸が騒めいてしかたなかったものが、徐々に、むしろ温もりに心が満たされていくような気がする。
頬を摺り寄せた先に、劉景が生きている証の鼓動を感じると、心が安らぐ。
お互いの抱えた秘密を守る為の、仮初のものだったはずなのに。
それなのに……この場所に居たいと思ってしまう。
お互いに同じことを思っているのが、ふとした仕草に、眼差しに感じられる。
笑みを向けた先に相手の笑顔があって欲しいと。
伸ばした手が触れるこの手を、もう離したくないと……。
翠媛が一見穏やかに見える日々を送っているある日、それはやってきた。
何処か物々しく見える雰囲気をまとった侍女が、主が翠媛を茶の席に招きたいと仰っている、と招待の意向を伝えてきたのだ。
彼女達が自らを
ついにきた、と翠媛は内心息を飲んだ。
何時かは来るとは思っていた。思いの外遅かったとも言えるし、案外早かったとも言えるかもしれない。
他でもない玄央宮の主は、皇帝と並び立つ勢力を誇るという女性――劉景にとっては育ての母にあたる皇太后だ。
皇后と貴妃が不在の今、帝国第一の女性といっても過言ではない人物である。
「他にどなたがいらっしゃるのでしょう……」
「いえ。莉修儀様、お一人だけです」
嫋やかに微笑みながら、翠媛は自然な仕草で首を傾げて問いかけた。
しかし、返ってきた言葉に。翠媛は淑やかな微笑を鉄の自制心で保ちながら、心の中で思わず呻いていた。
他には誰も招かれていないということは。つまり、翠媛と皇太后の、まごう事無き一対一である。
招いた方がどのような思惑でいるのかは今ここでは判断できない。
皇太后は劉景に子を持たせたがっている。それ故に後宮には数多の美女佳人が集められており、翠媛もその一人であるらしい。
劉景は、自分が傀儡としては用を為さないせいだと言っていた。だからこそ、劉景の子を傀儡としたいのだろうと。
そして、皇太后を母の仇と……劉景の実母を害したのは、皇太后であるとも。
翠媛は口元を絹団扇で隠しながら、僅かに考え込む素振りをした。
周囲の侍女達が戸惑ったような、怯えたような様子で翠媛の次なる言動を伺っているのを感じる。
皇帝と皇太后の不仲は周知の事実だ。
その皇帝の『唯一の寵姫』が義母と言える皇太后に対してどのような対応をするのかが気になって仕方ないのだろう。
本来であれば、一妃嬪に皇太后の誘いを『断る』という選択肢は与えられない。
しかしながら、一応『寵姫』である翠媛であれば、言外に皇帝を理由として遠慮することも出来なくはないのだ。
考え込んだままの翠媛を見て、使者たる侍女達が訝しげな表情になる。
「どうなされました? 莉修儀様」
「いえ、失礼いたしました。喜んでお招きにあずかりたいと存じます。皇太后様にどうぞそのようにお伝え下さいませ」
侍女達が、そして喜娘が、驚愕に息を飲んだ気配がする。
団扇を下した翠媛の口元には、朗らかな笑みが浮かんでいた。
今まで様々な問題に直面し。また、晒され続け。翠媛は、色々と心に鬱屈が溜まり続けていた。
正直、委細はどうあれ一方的に耐えてやられっぱなしは性に合わない。
そして、戦う前から逃げ出すのも、同じぐらい性に合わないと思っている。
いかに権勢振るう女傑だとしても、帝国第一の女性であるとしても。対峙する前から尾を巻いて逃げるなど真っ平御免である。
どんな思惑があったとしても、相手が自分に会いたいと言っているなら、それに乗ってやろう。
自分の目で皇太后という人を見極めるいい機会だ。
儚げにも見える微笑みに、侍女達は「恐らく、陛下と皇太后様の間を慮られたのね」と表情を陰らせたが。
喜娘だけは、どこか達観した表情を浮かべていた。
まるで「ああ、うちの姫様は本当に逞しい」とでも言いたげな様子で……。
その日の午後。
天水碧を基調とした襦と丈の長い斉胸裙に、紗絹の披帛。亜麻色の髪は高髷に結って櫛と歩揺を挿して。玉の垂れ飾りの耳環。
普段は嫌がる化粧もしっかり施し、額には花鈿まで。
華やかすぎぬように気を付けながらも、目上の女性に会うのに相応しい、かつ付け入る隙のない装いに身を包み。翠媛は、玄央宮に足を踏み入れた。
妃嬪同士の席でもここまで装束に気を使わない。喜娘には、もっと気合を入れて下さいませ、と言われること暫しであるが。
確かに、唯一寵を与える妃嬪がみすぼらしい恰好をしていては、劉景の権威にも関わるのはわかっている。
皇帝や妃嬪が絹や玉にて身を飾ることは国庫の豊かさをも示す。だから、ある程度は日頃から装いが豪奢である必要はあると思う。
ただ、翠媛はあまりそのような見せつける真似を好まない。劉景も、同じ意見のようだ。
お前は、お前の好む通りにあってくれればいい、と微笑んでくれた時を思い出すと、つい口元に笑みが零れそうになる。
しかし何とか穏やかな表情を維持するに留めて、先導する侍女達に続いた。
やがて、こちらでお待ちください、と通された部屋は、庭に面した日当たりのよい部屋だった。
陽の光を弾いて輝く水面に魚が飛び跳ねたかと思えば、緩やかな波紋が拡がっていくのが見える。
良く手入れされた庭には優しい彩の季節の花々が、翠と美しく調和し咲き誇り。蒼い空のもと一幅の絵画のような光景を描いている。
翠媛は、少しだけ意外に思っていた。
国の母たる女性が住まう宮であるから、当然それに恥じない見事な建物である。
随所に細やかな装飾の施された流麗な調度類がさりげなくそこかしこに配置された気品ある設え。
どこかゆったりとした空気を湛える落ち着いた佇まいは、は訪れた者が寛いで過ごせるようにとの気遣いを感じるが、人を圧する威容はけして感じない。
美しく見事であるが、圧倒的でも華美でもない。権力欲の強い女性の住居、というより、穏やかで大人しい女性の住まい、といった印象を受ける。
あまりそぐあわない気がする。伝え聞いた皇太后という女性の人となりと、この部屋も宮殿も。
玄央宮の主である、宋皇太后。
先の皇帝の皇后であり、劉景の養母である女性。
幾度か死産と流産を繰り返し自身は子に恵まれなかったが、母を亡くした劉景を手元に引き取り我が子として養育した。
劉景が即位してからも何かと政治に介入しようとしていて、畏怖を以て劉景に阻まれ。二人の対立とも言える構図が、朝廷の勢力分断の原因となっている。
皇帝に跡継ぎがないことを憂いて、宦官に命じて各地から美女を後宮入りさせている。
皇太后は跡継ぎとなり得る唯一の男児を奪い、皇太子の母としての立場を確固たるものとする為に劉景の母を殺したという。
けれど、それは本当なのだろうかと思う時がある。
勿論、劉景の言葉を疑うことはしたくない。彼とて、そう確信するに足るものを持っているからこそ育ての母を倦厭するのだ。
ただ、翠媛は皇太后という女性を知らない。
どのような人となりなのか、何を思っているのか。今に至るまで顔を合わせたこともなければ、言葉を交わしたこともない。
皇太后を判断する為の材料は、劉景の言葉と、伝え聞く侍女達の噂話だけだ。
先帝の寵愛を得られなかった口惜しさの為に、愛の代わりに権力を求めたと聞く。
元々愛情などなく権力欲の強い女性であり、帝国第一の女性として君臨する為だけに皇后となられたとも。
しかし、それらは全て人の言葉だ。翠媛が目で見て、耳で聞いて、心で感じて判断したものではない。
そして、この宮の在り方から受ける印象と、そこから描きだされる人物像は。伝えきいた伝聞とは随分違うものである。
心に生じた僅かな戸惑いを表情に滲ませないように留意しつつ視線を動かした翠媛は、ふと動きを止めた。
庭園の一角に見覚えのある花を見出したからだ。この場所にあるとは思いもよらなかった、意外な花が。
風にそよぐ儚いまでに繊細な白い花弁。陽の光を受けて眩しいまでに輝いているけれど、月光の元で見るのが一番美しいあの花は……。
「あれは、月光花……?」
「お判りになりますか? ああ、そういえば瑞のお花でしたね」
窓枠に手をかけ僅かに乗り出すように身を傾けて見つめた先、そこにあったのは間違いなく故国の花である月光花だった。
異国においては根付かせることも咲かせることも難しいはずの花が見られるのは、皇帝が手ずから世話をする百花の宮の庭園だけだと思っていた。
それなのに、何故この場所に……皇太后の住まいの庭に咲いているのか。
誰が世話をして、あの繊細な幻とも言われる花を咲かせているのだろうか。
目を瞬く翠媛に、老齢の侍女が微笑んで見せる。
「あれは、皇太后様が何よりも大切にしておられる花です。自分の宝だと仰って、あの一角には他の誰も触れることが許されていません」
「皇太后様が……?」
あやうく、驚きに小さな叫びを上げてしまいそうになった。
自ら花の世話をするなど考えられない尊い身分の女性が、他の誰にも触れることを許さない程大切に、手ずから月光花を慈しんでいる。
俄かに信じがたい思いで、問うように揺れる眼差しを向ける翠媛へと、侍女は大きく頷いた。
「ええ、皇太后様が御自らお世話されていらっしゃいます」
確かな声音で重ねて言われれば、疑いの言葉など口には出来ない。
このような場所で出会うとは思わなかった祖国の花に視線は釘付けになったまま、やや戸惑いがちに翠媛は口を開く。
「皇太后様は、どうやってあの花を手に入れられたのでしょうか……」
百花の宮にある月光花は、劉景の母が祖国から持ち出した苗を根付かせ増やしたもの。
劉景の母が心を込めて慈しみ、それを引き継いだ優しい劉景が更に丁寧に慈しんだからこそ、あの庭で幻の花は咲き誇っている。
実のところ、美しさに目を付けて国外に月光花を持ちだそうとする者は多いが、成功した話は殆ど聞かない。
それだけ扱いが難しく、繊細な花なのだ。
翠媛が翠の眼差しで見つめる先に咲く花は、どこから齎されたものなのだろう……。
「かつて、唯一人。友と思う方から頂いたと仰っておられました」
記憶を手繰るように少し考え込んだ後、侍女は微笑みながら告げる。
翠媛は思わず口元に手をやりながら、不思議な胸騒ぎを覚えていた。
劉景と母が暮らした百花の宮の庭園に咲くのは月光花。そして、皇太后が宝とまで思うのも月光花。
共にこの国にあるのも珍しく、咲かせ続けることも難しい花が、違う場所で同じ様に美しく咲いている。
二つの花の奇妙な符号に、翠媛は思わず首を傾げていた。
もう少しで何かの考えに辿り着きそうで辿り着けないもどかしさに、翠媛が俯きかけたその時だった。
「皇太后様がお出でです」
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