寵愛の重さ

 裁きから二日たって、皇宮に激震が走った。

 賢妃が事切れているのを見つけたのは、見張りとして付けられていた者達だった。

 傍には茶の椀が転がっており、大半は零れていたが、椀の中に残っていた僅かな茶から毒が検出されたという。

 莉修儀を狙って毒を仕込んだ鳥を贈り、結果として皇帝を害することとなった咎への罰の審議がなされているさなかのことである。

 死を免れないことを悟り、自ら先んじたのか。生き永らえたとしても未来がないことを悲観したのか。

 それとも、仇ともいえる修儀の命乞いにて命を繋ぐことを矜持が許さなかったのか。

 答えを持つ者が既に命を終えてしまった以上、全ては推測でしかないのだ。

 賢妃が自害したという知らせは、当然翠媛の元にも齎された。

 聞いた瞬間、翠媛は愕然として我知らずのうちに「うそ」と呟いてしまっていた。

 確かに安賢妃という人は、とても誇り高い女性だった。彼女であれば、自らの終わりは自分で決めると思い至っても不思議はない。

 だが、何故か妙な違和感があるような気がしてならない。

 去り際の彼女と目があった時、彼女が見せた戸惑いにも似た表情。

あの顔を思い出す度に、賢妃がこんなにすぐに……詮議の結果を知ろうともせず、自らの命を絶つだろうかと思ってしまうのだ。

 処遇の決定を受け入れることを拒むように、世を去ってしまうだろうかと……。

 それに、と翠媛は裡に呟いた。

 賢妃が自害の為に選んだのが毒茶、というのが何故か気になった。

 それまでの侍女とは引き離されて冷宮に送られたはずの賢妃は、どうやって毒を手にしたのか。

 侍女達が見張りの目を何とかすり抜け、主の矜持を守るために差し入れたのだろうか。

 それに、あの方はお酒もたしなまれたのを知っている。それも、実はかなりの愛好家であるとは伝え聞いた話だ。

 その方が、人生の終焉を飾るものとして、毒を仕込むのを酒ではなく茶にした……。

 特に気にするほどの深い意味はないかもしれないが、妙に心が騒めいて仕方ない。

 終わったのだと裡に蟠る考えを打ち払おうとするけれど、打ち消しても、打ち消しても懸念が払えない。

 賢妃は毒にて自決した。誰がどう見てもそれ以外の事実はないというのに、どうして。

 懊悩する翠媛を更に驚愕させたのは、賢妃の死後、間を置く事なく発せられた皇帝の命だった。

 賢妃の家族は彼女の咎を受けて死刑に処され、連なる一族は皆揃って資産を全て没収され都を追われ。屋敷は全て取り壊し、瓦礫とするよう命じたという。

 また、賢妃に与して翠媛への嫌がらせに加担した妃嬪達は、全員例外なく後宮で得たものを全て取り上げられ、身一つで後宮を追いだされるらしい。

 皆が呆然としている中、劉景は顔色一つ変えることなく厳しい命令を次々に下していく。

 仮にも自分の妃の一人が自害したというのに、何と非情なことだと人々は声を潜めて囁き交わしていると聞いた。

 その夜、何時ものように百花の宮を訪れた劉景に翠媛は事の次第を問いかけた。

 賢妃の死と、彼女に関わる者達へ彼が下した処遇が本当であるかと。

 何とか何時も通りの表情で、と心掛けるものの成果は芳しくない。ついつい、顔が強張ってしまいそうになる。

 裁きの衝撃が冷めやらぬうちに起きてしまった、賢妃の死にあまりに動揺していて。何故か、心に靄のようなものが消えなくて。

 そして、劉景がどれだけ傷ついているのか、顔を見るのが辛くて……。

 劉景は、二人きりとなっても皇帝の顔を崩さなかった。

 かつて初めて玉座の間にて対面した時のような研ぎ澄まされた刃物のような怜悧な表情で、人々が『鬼神』と恐れる姿そのものの佇まい。

 人の目がなくなれば見せてくれる、本当の……優しい繊細な素顔を覗かせることもなく淡々と告げた。


「賢妃は罪を認め自害した。それならば、連なる者達が連座するのは当然のことだ」


 あまりに躊躇なく冷静な声音で告げられた言葉に、一瞬翠媛は絶句してしまう。

 ここは、翠媛が育った長閑な瑞ではない。紹嘉という大帝国である。

 大きな国をまとめるには、厳しく律していく必要があるだろう。

 だが、人々が恐れ慄く程に厳しい処断を、劉景は下し続けているという。

 そのことに対して生じ続ける胸の痛みを押し隠しながら、翠媛は内なる疑問を口にした。


「賢妃様は、本当に自害だったのでしょうか……」

「冷宮の賢妃のもとには、賢妃付きの侍女が訪れただけだ。他に来訪者はなかった」


見張りによると、冷宮にて賢妃は沈黙したまま、ただ俯いて過ごしていたらしい。

 そこに、彼女の侍女が見張りに何がしかの手段を用いて密かに訪れた。

 寒さを凌ぐ掛け物の他に、心の慰めにと僅かな菓子と共に茶を差し入れたのだという。

 侍女が去った後、ただならぬ気配に気付いた見張りが様子を確かめると、彼女は血を吐いてそのまま亡くなっていた……。


「差し入れにきた侍女は」

「……部屋で血を吐いて死んでいるのが見つかった」


 戸惑い気味に恐る恐る問いかけた翠媛は、顔色を変えて息を飲んだ。

 何故毒茶は賢妃のもとに運ばれたのかを知る者もまた、もうこの世に居ない。

 主に毒を運んだ罪悪感に耐えきれなかったのか。忠義故に主の後追いをしたのか、もう分からないけれども。更に一人、騒ぎにまつわる死が増えたことに変わりはない。

 返す言葉を見つけられずに懊悩し、青白い顔で劉景を見つめる翠媛は気付いてしまった。

 淡々と事実を知らせる横顔は硬質ではあるけれど、恐らく数多の人間がそこに見るものと、翠媛が見るものとは違う。

 気力を振り絞り平然と見せているけれど、劉景の顔色はけして良いとは言えない。恐らくは、完全に復調する前に行動したことが未だ響いている。

 しかし、それだけではない。

 毒を受けて倒れた時の打撃だけではないものが、彼に重くのしかかり、蝕んでいる。

 劉景は、毒を手配した者、贈り物の出処を誤魔化すのに協力した者。まだ処断しきれていない関係者がいる為、明日は早いと変わらぬ声音で告げるが。

 それを聞いた瞬間、翠媛は弾かれたように叫んでいた。


「これ以上は止めて下さい!」


 悲痛な表情で必死に訴える翠媛を見て、劉景が一瞬呆気にとられたように目を見張る。

 その瞬間何時もの彼が……自らの行いに傷ついている優しい青年の姿が垣間見えて、翠媛は胸の奥から何かがこみ上げてくるのを感じる。

 抑えようとしても、止められない。かなしくて、くるしくて、目の端が熱い。


「賢妃様が亡くなって、貴方は傷ついているのに! それなのに、更に自分を傷つけるのは……!」


 淡々とした声音で紡がれる言葉の端々が、本当に微かに揺れていたことに気づいていた。

 賢妃の死に、彼は傷ついている。関わる人々を処断していることに、罪の意識を感じて傷ついている。それなのに、更に自らを追い詰めるように、尚も傷つこうとしている。

 劉景が安賢妃という人に対して、個人的にどう思っているのかは確かめたことがない。

 けれど、彼はかつて語っていたのだ。後宮にいる妃嬪達について。


『哀れだと思う。申し訳ないとも』


 本来の己を少しでも垣間見せるわけにはいかない為、誰も傍に置けない。近づかせるわけにはいかない。

 それに、皇太后の思惑にのることも出来ない。だからこそ、後宮の妃嬪達を省みることは出来なかった。

 花の盛りを、閉じ込められたまま虚しく過ごさせることを申し訳なく思いながらも、突き放し続けるしか出来なかった。


『俺に嫁いでこなければ、違う形で幸せになれただろうに……』


 あの夜の苦い劉景の呟きが蘇る。同時に、裁きの場での賢妃が叫んだ言葉も。

 想い合う恋人がいたのに引き離され、家の栄達の為に後宮に入れられた安賢妃。

 皇帝の寵愛を得て皇后になることだけを己に残された意義と思いながら、叶えられずに煩悶しながら自らを焼き尽くしてしまった女性。

 彼女も、後宮に入れられなければ。もしかしたら今も生きていたかもしれない。 幸せに微笑むことが出来ていたかもしれない。

 けれどそれは、劉景の所為ばかりではない。彼だけが責任を感じ、罪の意識を抱くことではない。

 誰が悪かったのか、何が悪かったのか。様々な事実と感情が綯交ぜとなって、正しいことも分からない。

 でも、劉景が傷ついているのが哀しくて。これ以上傷つこうとしていることが苦しくて。

 気が付いた時には翠媛のもどかしさは透明な雫となって、瞳から一つ、また一つと零れ落ちていた。

 溢れだしてしまえばもう止まらない。泣いていいのは自分ではないと思うのに、涙が頬を伝うのを止められない。

 声を殺して涙する翠媛を、劉景は暫しの間黙したまま見つめていた。

 だが、不意に空気が動いた気配を感じて、翠媛が顔を上げようとした次の瞬間。翠媛の視界は大きく変わっていた。

 見えるのは、劉景の袍に刺繍された皇帝の証たる龍の文様ばかり。感じるのは、彼が纏う微かな香の匂いだけ。

 何が起きたのかすぐには分からず呆然と目を見張っていた翠媛は、呼吸を一つ二つしてから漸く気付いた――自分が、劉景に抱き締められているということに。

 胸の鼓動が途端に早くなる。

 自分が今、劉景の腕の中にいると認識してしまえば心は揺れるけれど。

 でも、けして嫌ではないのだ。むしろ、彼の鼓動を感じると、劉景が確かにそこに居てくれるのだと思えて、胸に熱いものが満ちていく気がする。


「悪かった……」

「え……?」


 劉景の口から零れた謝罪の言葉に、思わず戸惑った声をあげてしまう。

 何を彼が謝ることがあるのかと思う翠媛の耳に、劉景の悔いと自責に満ちた苦い声音が触れる。


「俺が翠媛を、良くも悪くも注目を集める立ち位置に置いてしまったせいで。お前は、こんなに傷ついて……」


 翠媛は目を見張り、緩やかに顔を上げる。

 彼の気配と温もりを感じながら上げた視線の先で、翠媛は自分を見つめる劉景を見た。

 そこには、寄る辺を失うことを恐れる、傷ついた少年のような表情がある。

 自分が傷ついているというのに、それでも尚翠媛のことを案じてくれている、哀しい程に不器用な優しさがある。


「傷ついているのは、私では無くて。私よりも、貴方が」

「けれど、お前が傷つく方が辛い」


 ゆるゆると首を左右に振り伝えようとする翠媛を抱く腕に更に力を込めながら、劉景は苦しげに瞳を伏せた。


「お前が害されると思ったら、自分でも戸惑う程に辛い。お前が、泣いているのを見るほうが、辛い……」


 自らの心の裡に戸惑っているような様子で。自らの裡に在るものを探るように、緩やかに彼の口からは言葉が零れていく。

 言葉が紡がれていく度、翠媛の心は戸惑いに揺れた。

 自らが傷つくよりも、相手が傷つく方が辛いと思う心。

 相手が辛そうにしているほうが、泣いているのを見るほうが苦しいと思う心。

 それが何故であるのか、戸惑い揺れる心……。

 何か言葉を返したいと思うけれど、一つとして言葉は紡がれてくれない。

 何か彼に伝えたいことがあるというのに、心の裡はあまりに様々な想いが渦巻いていて、確かな形となってくれない。

 けれど、ただ一つだけ今できることは。そう思った翠媛は、両の腕をそっと劉景の背に回した。

 一人で苦しんで欲しくないと思うこと。その顔に、哀しみではなく喜びを見ていたいと思うこと。傷つき心の中で涙を流し続ける彼を抱き締めたいと思うこと。

 それらの答えが、裡に育ちいくある想いなのだということがわかった気がする。

 仮初であっても、皇帝の寵姫となることが、どういうことであるのか。本当の意味でそれを理解した気がする。

 後宮において寵愛を受ける者……彼の近くに居られる者であるのは、恐ろしいことであり、今回のような哀しみや苦しみを、重さに耐え続けることなのだと思う。

 でも、と翠媛は心に呟いた。

 でも、この人の為なら。

 劉景の為なら、その役割も重みも受け入れられる。追い風にも重みにも耐えていきたい、と思い始めている自分に。

 翠媛は、少しずつ気づき始めていた――。

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