賢妃の叫び

 叩きつけるような激しい言葉に、翠媛は思わず言葉を失う。

 燃える憎悪の焔はもはや止められず、賢妃の裡から吹き上がり、彼女を焼きながら翠媛へと向けられている。

 今、賢妃は『居たくもない場所』と言った気がする。

 皇帝の寵愛を受ける翠媛を目の仇にして、皇帝の目に留まり、寵姫となることを望んでいたはずの彼女が。

 騒めきに揺れ始める場を意にも介せず。驚きに凍り付く人間達を意にも介せず。

 賢妃は、言葉を失い彼女を見つめる翠媛へ更に言葉を叩きつけた。


「私だって、こんな場所に来たくなどなかった……! 私には……私には想いあった方がいたのに……!」


 安賢妃は箍が外れたように、秘していた己の心の裡を叫び始めた。

 彼女は、本当は後宮入りを望んで等いなかった。彼女には将来を誓った恋人が居たのだという。

 けれど賢妃の家は都でも名だたる名家であり、娘を皇帝に差し出すことで更なる栄達を望む者達によって、二人は引き裂かれた

 逆らえば相手の命はないとまで脅され、賢妃は泣く泣く従うしかなかった。


「全てを諦めさせられて、我慢させられて。ただ、家の栄達の為に皇帝の寵愛を得て、いずれ必ず皇后となれと命じられ送り込まれて」


 一方的に身勝手な願いを背負わされ、押し込まれるように指し出だされた先で皇帝は彼女を拒絶する。

 それでも、彼女は努力し続けた。

 何のための努力なのかも分からくなり続ける中でも、皇帝の寵愛を受けるという彼女にとって唯一残った存在意義の為に。

 しかし、彼女が報われる日はこなかった。


「何もかもを犠牲にしてここにきて、必死に努力しても何も得られなかった! それなのに後からふらっと来た貴方が、あっという間に私が望んでいた何もかもを奪っていく!」


 閉じ込められた籠にしか思えない後宮で、目的を果たすこともできず、願いを抱くことすらできずに、空虚に過ごしていた。

 自分の他にも後宮入りしてきた女性達がいたが、皆も同じ様に願いを果たすことができずに討ち捨てられていた。

 自分だけではない。それだけが哀しい慰めだった。皆も、この閉ざされて凍てついた時の中に、いずれ朽ち果てるのだと。

 それなのに、辺境の異国から来た王女は、容易く変化なき凍り付いた世界を打ち壊した。

 誰もが……賢妃がどれだけ望んでも、何と引き換えても得られなかったものを、容易く手にした。


「貴方さえ来なければ! 貴方がいなければ! 憎いわよ、貴方が! 貴方が死んでしまえば良かったのに……っ!」


 鋼とすら笑われる精神を誇る翠媛ですら顔色を失い、言葉を失う程に激しい憎悪だった。

 翠媛は茫然としたまま。人は、こんな風に……ここまで誰かを憎めるのか、とぼんやり思うしか出来なくなってしまう。

 後宮に閉じ込められた女性の怨念を体現したような、凄惨な感情が翠媛へと向けられている。

 口元を抑えて俯いた淑妃も、僅かに平素より強張ったように見える徳妃も、それぞれに顔色を失い戸惑う妃嬪たちも。

 皆同じように、心の裡に激しい焔を封じて生きているのだろうか。

 自らを焼く尽くす程に激しく、哀しい焔を……。


「口を閉じよ」


 返す言葉を見つけられず、蒼褪めたまま立ち尽くしていた翠媛の耳に。感情を徹底的に押し殺した冷徹な声が聞こえた。

 弾かれたように振り返ると、凍てつくかと思う程冷たい黒の眼差しを賢妃に向ける劉景の姿がある。


「……そなたの言い分は分かった。それだけ言えるのであれば、覚悟もできていよう」


 血が通わないのではと思える冷たい声音で淡々と告げる劉景へ、皆の畏れが満ちた眼差しが集まる。

 場を圧倒するほどの威容を以て一同を睥睨する皇帝。

 だが、翠媛は気付いてしまった。

 劉景が肘かけに置いた手が、色が白くなる程に固く握りしめられていることに。

 凍れる心の『鬼神』を演じながらその言葉を口にする為に、裡の葛藤と戦い、必死で己を叱咤していることに。


「服毒か、絞首か。せめて自らで望む方を選ぶがいい」

「陛下……!」


 ついに告げられた決定的な処断の言葉に、翠媛の口から悲鳴にも似た響きが零れる。

 その場に居た人々の騒めきはなお一層大きくなり、その眼差しは上座にある皇帝と、罪人として地に膝をつかされた賢妃との間を行き来している。

 賢妃は目に見えて顔色を失ったものの、それ以上は何も口に出来ない様子だ。

 ざわつく場にて勇気を振り絞るように声をあげたのは、それまで俯いていた淑妃だった。


「陛下。せめて、賢妃様のお命だけは……」

「結果として皇帝陛下を害した以上、それは難しいことかと」


 震えながらも賢妃の助命を嘆願する淑妃だったが、それに続いたのは徳妃の冷静すぎる言葉だった。

 非難するように淑妃は徳妃を見るけれど、淑妃も告げられた言葉のほうが正しいのは分かっている様子である。

 淑妃が沈黙し、裁きの場には再びざわめきだけが満ちかけた。

 だが、その時。その場の誰も予想していなかった人物が更なる嘆願を口にしたのである。


「陛下、お願いいたします。私からも、どうか賢妃様の命をお助け頂けますように……」

「修儀……」


 劉景の前に跪き、翠媛もまた賢妃の助命を願う。

 僅かな戸惑いの言葉と同時に、人々の驚きを込めた眼差しが背に突き刺さるのを感じる。

 日々脅かされ続けた被害者である他ならぬ本人が、加害者たる人間を庇ったのだから、皆の驚愕も已む無しである。

 彼女に同情した、というのは無いとは言わない。

 怒りはある、今までに思うところがなかったわけではない。だが、彼女の苦悶をしってしまったからこそ、ただ彼女の死を願えない。

 勿論、それだけではない。

説明できないが。翠媛は賢妃の言動に何かひっかかる……違和感のようなものを覚えている。それを明らかにしないうちは、賢妃の命を奪っても終わりとならない気がするのだ。

 そして何よりも。賢妃を殺すことが、劉景をどれほど傷つけるか分かるから。

 叶うならば、その選択だけはしてほしくない。罰を与えないということが避けられないとしても、せめて命を奪うことだけはさせたくないと思う。

 それが更なる憎悪を自分に集め、偽善者を謗られることになったとしても。

 翠媛は真っ直ぐに劉景を見つめ、劉景もまた複雑な面持ちで翠媛を見据える。

 言葉のないまま翠と黒の眼差しが真っ向から交錯して、ざわめきを背に二人が向かい合うこと暫し。

 やがて、大きな嘆息と共に劉景は再び口を開き、重々しく宣言した。


「賢妃の処遇については更に審議し、追って沙汰を下す。今はひとたび、冷宮に」


 皇帝の言葉に、水を打ったように場は静まり返り、人々は凍り付く。

 だが、近侍が何事か命じると、賢妃の左右に控えていた兵士たちは彼女を立ち上がらせ連れて行こうとする。

 賢妃が裁きの場を去り、座から立ち上がった皇帝は居並ぶ者達に背を向けて歩き出す。

 震えているように見える背を静かに見送りながら、翠媛は複雑な心を抑えながら一つ大きく息を吐いた。

 僅かな安堵と共に、先程目があった去り際の賢妃の様子を思い出す。

 翠媛は、去り行く賢妃と視線が合った。

 非難があると思った。同情は要らぬと、更なる憎しみがあるのではないかと思っていた。

 確かに、そこにあるのは先程までと同じく激しい焔ではあったが。同時に、傷ついた少女のようにも見える、戸惑いにも似た不思議な感情が滲んでいた。

 ただの気のせいかもしれないけれど、翠媛はそう感じたのだ。

 ひどく身体が重くて、沁み込むように徐々に疲労を感じ始める。

 疲れた、と思う。

 自分も、劉景も。きっと居並ぶ人々も皆それぞれに。心が揺れに揺れて、ざわめき。落ち着かないのだと思う。

 今、翠媛の願いは一つだった。

 叶うならば、ただ静かに眠りたい。劉景と共に。背にお互いの存在を感じながら、いつものように、二人で眠りたい。

 心がひどく寒いように思えて、震えそうで。温もりを感じて安心したい。

 劉景は、その夜も百花の宮にて夜を過ごした。

 でも、劉景も翠媛も、どちらも何も言わぬままだった。

 黙したまま、ただ寄り添うようにして共に在った。

 向けた眼差しの先に、お互いの瞳がある。今はそれだけでいいとばかりに、見つめ合って過ごした。


 ――冷宮にて賢妃が自害した、という報せが齎されたのは、騒ぎに後宮が揺れた翌日の宵のことだった……。


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