嫌がらせ

 心を激しく揺さぶる程の衝撃も、時が経てば少しずつ順応していくものである。

 翠媛が劉景と同じ牀で休むようになってから暫し。

 最初こそ心がどこか落ち着かなくてよく眠れなかったものの、次第にぐっすりと眠れるようになった。

 少しずつ、同じ場所に確かに劉景の存在がいること、温もりを感じることに安心するようにすらなっていく。

 寝入っている劉景の顔をこっそり覗き込んだことがある。

玉座にある時のような険しい冷徹さはまったくない。穏やかに安らいだ、無邪気な少年のような寝顔だった。

 それを見て、自分でも形容できない温かな感情が胸に満ちた。

 劉景は、宣言した通りに翠媛に何もしない。だからこそ、翠媛も安心出来ている。

 もし二人の状況を知ったなら、妙齢の男女が同じ床にあるのにそれはどうかと言う者はあるかもしれない。

 けれど、翠媛も劉景も、二人の小さな世界がそのようにあることを、お互い心から大切にしているのを知っている。力を与えてくれることを、知っている……。

 閨以外では、相変わらず翠媛は人々の視線と様々な感情の的だった。

 皇帝が唯一寵愛する妃嬪。辺境の異国から来て日が浅いというのに、誰もが得られなかった皇帝の関心と寵を瞬く間に得た異分子。

 何が理由であるのか。あの美貌か、人となりか。それとも『天女』と称される女には何か不思議の力でもあるのか。

 自らが翠媛にとって代わりたちと思う者達は、皇帝の心を引く為の術を、翠媛を探ることで手に入れようとする。

 さすがに、閉じられていた宮に飛んで跳ねて侵入し、皇帝の素顔を見てしまう。寵愛よりも武芸の稽古を好む、むしろ皇帝の寵愛など知らん顔。

……などといった、自分が彼女達と違う点なら色々あげられるが、当然ながら教えてあげるわけにはいかないし。そもそも、口に出すわけにもいかない。

 監視と言える程に視線を集め続けても。或いは、直接問われたとしても。翠媛は儚げな笑みを浮かべ、首を傾げるだけだ。

 人々に『天女』と呼ばれた姿そのものの、楚々とした佇まいで。

 心が憩う場所が出来たことで、密かに弱りかけていた精神にも力が蘇ってきていた。

 日が経つ内に。同じ牀に感じる存在を温かと感じるようになるうちに、段々翠媛も何時もの調子が戻って来た。

 悪意を遠回しにぶつけられたとしても、或いは直接的にぶつけられたとしても。

 これぐらいで長年作り続けた顔を崩してたまるか、と嫋やかに笑いながら。または慈悲深い許しを与えながら。翠媛は、軽やかに様々な悪意をかわしていった。

 当然ながら、翠媛とて人の子である。謂れの無い悪意を真正面から受け続ければ、怒りが湧き上がるのは自然なこと。

 だが、腹が立つものの、何とか自然にかわすことを覚えた。

 やられっぱなしは性に合わないと思うが、やり返して同じところに落ちたくない。

 翠媛が後宮という場所に心から染まり切ってしまって、変わってしまうこと。

 それは翠媛自身が望んでいないけれど、何よりも劉景が悲しむような気がする。それを思えば、自分を弾き留める大きな力を感じる。

 時々、何故そうまでと思う時もある。

答えはそこにあるような気がする。けれど、手が届きそうで届かないもどかしさと。気が付かないでいたいという気持ちが入り交じる、不思議な状態だった。


 その日も、翠媛より高位の妃嬪との間にささやかな騒動があった。

 翠媛が、高淑妃に招かれて彼女の宮へ赴いている途中のことだった。先行きを急ぐ翠媛の前に、その妃嬪は立ちふさがり絡んできたのだ。

 きっかけは道を譲る、譲らない、の問題だったが、相手方がそれを手始めとして翠媛に言いがかりめいた物言いをしてきた。

 始めこそはよくそこまで次々と悪口、しかも絶妙に遠回しでありいざという場合の逃げ道も用意してある表現が思いつくものだ、と感心するぐらいだった。

 だが、あまりに続きすぎれば飽きてくる。

 さすがにそろそろ止めるべきかと思案していた時、その声は聞こえた。


「もう止めよ」

「と、徳妃様……!」


 淡々とした感情の見えない声がその場に響くと、翠媛も対峙していた妃嬪も思わず目を見張り、次いで声の主を見る。

 そこには、醒めた眼差しで二人を見据える楊徳妃と……少し下がった場所に、安賢妃までいるではないか。

 妃嬪と共に声高に翠媛に食ってかかってきてもおかしくない賢妃は、妙に暗い眼差しでこちらを見たまま沈黙している。

 何か思うところがあるのか、ただ徳妃が言葉を口にしている故に黙っているだけなのか。

 徳妃は、その思うところが全く読めない硬質な表情のまま続けた。


「後宮において確かに階位は定められているが、それ以上に意味を為すものがあることを知っているだろう」


 頂点である皇后を始めとして、確かに後宮において身分は階位という形で明確に定められている。

 だが、後宮はあくまで皇帝の為にある場所である。

 後宮における絶対的な力関係は、即ち皇帝の寵愛があるか否か。

 今までは誰一人としてそれを得られるものがいなかった。だから、階位が厳密に作用していた。

 けれど今は違う。

 誰も得られなかったものを得て、一人抜きんでた者がいる。階位の差などあっけなく覆すほどの絶対的な力を手にした者がそこにいる。

 それを分からないほどお前は愚かか、と、徳妃のいっそ温度を感じない程の冷静な眼差は言葉に依らず告げている。

 自分よりさらに高位の、正一品の妃に。さらに圧倒的な事実を告げられた妃嬪は、言葉に窮して呻いていた。

 そんな妃嬪へ、傍らの侍女達が何かを主に囁く。察するに、引き時だとでも言ったのだろう。

 何やら謝罪なのか捨て台詞なのかわからぬ言葉を誤魔化すように言い捨てたかと思えば、身を翻して慌ただしく去っていく。

 怜悧な眼差しがこちらに向いたのを感じながら、翠媛は徳妃へと俯きながら膝をつこうとする。


「良い。……何れ跪くのは何方になるかわからぬ」

「そのようなことは……」


 しかし、それ徳妃本人が制した。

 やはり感情も、考えも伺えぬ平坦な声音で紡がれたのは多分な意味を含んだ言葉。翠媛は流石に口籠りながらも言葉を返す。

 徳妃が何を思い、どう翠媛の存在を捉えているのかが見えない。

 一人だけ抜きんでた敵と見なしているのか、それとも自分達にも先が見えたと好意的に捉えているのか。

 先程は高位妃嬪に絡まれていたのを助けてくれたようにも見える。

 だが、その影にどんな感情があったのかを、察することすらできない……。


「耐えるのを美徳と思っておられるようだな」


 責めるようにも、戒めるようにも聞こえる言葉に、翠媛は言葉を返せずにいる。

 耐えるのを美徳とはけして思わない。

 しかし、自分の出方を迷っている心は確かに存在する。

 今、翠媛は皇帝たる劉景の唯一の寵姫という立場にある……表向きは。

 実際は寵愛と呼べるものは存在しておらず、二人で抱えた秘密を外から守る為に作り上げた仮初が『皇帝と寵姫』というだけだ。

 当然、皇帝の威光を笠に着るような真似はできないし、するつもりもない。そのような振舞いはしたくない。

 その一方で、あまり自分が耐えることに徹しても、それはそれで劉景の権威に関わるということにも気付いている。

 増長しないというのは確かに褒められるべきであっても、寵姫と呼ばれる者が向けられる無礼や悪意をただ耐え続けるだけでもいけないことに気付いてはいる。

 自分は今どう在ればいいのか、計りかねている心の裡を徳妃に見透かされているような気がして、翠媛の表情が僅かに陰った。

 徳妃も翠媛も口を閉ざし、その場に沈黙が満ちかけた。

 だが。


「さすが、皇帝陛下の御寵愛をほしいままにされる御方は心が広くていらっしゃる」

「安賢妃様……」


 ゆらりと蛇が鎌首を擡げたような感覚を覚えた。

 殊更ゆったりと落ち着いた声音で、いっそ朗らかな笑いさえ混じる言葉を紡いだのは賢妃だった。

 言葉自体は分かりやすい嫌味ではあるものの、翠媛は何かおかしい、と感じた。

 この女性は、後宮入りした直後から翠媛に対して非情に直接的な敵意をぶつけてきた。

 翠媛を異国の蛮人と侮りながら、様々な無理難題をつきつけ、他の妃嬪達を先導しての嫌がらせをしてきた。

 それなのに今は『静か』なのである。

 翠媛が今までを通して知って来た賢妃の気性であれば、もっとわかりやすく。直接、苛烈な態度をとってもおかしくないだろう。

 実際、今もなお翠媛の周囲で嫌がらせは続いている。

 翠媛が道行きを急いでいた理由が、道を塞がれたり、汚されたり。淑妃の元へ向かう道を悉く通れぬようにされ、回り道をせざるを得なかったからだ。

 宮から出ようとする道に虫がばらまかれ、汚物が撒かれる。それぐらいならまだ可愛い部類に入る。

 時として、翠媛の牀に動物の亡骸が放りこまれていたこともある。

 日々届く、後宮を辞して出家せよという差出人不明の怪文書にはご丁寧に小さな刃が添えられている。

 その他、その他。良くもそれだけ人を害する手段が思い浮かぶ、といっそ感心したく成程様々な方法を以て続く嫌がらせに、翠媛の周囲は徐々にきな臭くなりつつある。

 今日の淑妃からの呼び出しの理由も、恐らくはその辺りだろう。

 ばらばらに思えるが、悪意の行動にはどこか系統だったものを感じる。嫌がらせの指揮をとっているのは、多分賢妃で間違いない。

 だが、翠媛に対峙する彼女の様子は、いっそ不気味なほど静かだった。

 悪意など露しらず、といった朗らかで淑やかで、静かな微笑み。

 それ故に、怖い。水底に恐ろしいものが潜む沼のような、底知れぬ恐ろしさがある。

 内心で息を飲み出方を伺う翠媛へと優艶な眼差しを向けながら、口元に皮肉を刻みながら賢妃は首を緩く傾ける。


「皇帝陛下は自らに逆らう者はけしてお許しにならないのに。そう、先日も一人、不正を働いた者を処断なされたとか。その監督を出来なかった上役のものも、縁者も、同様に」


 それを聞いて、翠媛の表情が僅かに厳しくなる。

 先日、百花の宮へ現れた劉景が、ひどく気落ちしていることに気付いた。

 表向きは目に見えて分かるような変化はない。だが、翠媛は分かってしまったのだ。劉景が傷つく何かがあったのだと。

 二人になった後に問いかけると、最初こそ少し躊躇っていたが教えてくれた。

 兵部において不透明な資金の流れと情報の漏洩があり、確かめさせたところ郎中が密かに賄賂と引き換えに情報を売り不正な蓄財をしていた。

 当然ながら当人は命を以て贖うこととなったが、下の者を正しく管理できなかったとして謀に全く関与の無かった上役である尚書と侍郎の任を解き、それぞれに重い罰を与えた。

 不正を行ったものと関わりあるものは、多かれ少なかれそれぞれに連座する形となったという。

 当人だけならまだしも、何も知らなかったものすらいるのに、と囁くものも少ない中。劉景は顔色一つ動かさず、淡々と命を告げ続けた。

 心の中で詫び続けながら。囁かれる言葉に、繊細な心が傷つくのに耐えながら……。

 鬼神である為にまた傷つき続けていた劉景の横顔を思い出して唇を噛みしめていた翠媛は、それでも黙したままを貫いた。

 やがて何も言い返さぬ翠媛に、焦れたような怒りを瞳に過ぎらせた賢妃が更に何かを続けようとした時、制するように徳妃の手が静かに動いた。

 それは絶対の制止だった。

 一瞬行き場を無くした感情に呻くような表情になった賢妃だったが、次の瞬間には翠媛から視線を外す。


「波風を立てぬよう振舞いたいというのは結構だが。自分が今如何なる立場にあるのかは正しく知るべきでは」


 楊徳妃は翠媛へそう告げると、何事かを賢妃に小さくなげかける。

 そのまま徳妃は翠媛の横を通り過ぎ、振り返ることなく先へと歩んでいく。

 賢妃は一度だけ翠媛へ底知れぬ暗い眼差しを向けた後、無言のまま徳妃の後ろに続いて、二人の姿は消えていった。


「翠媛様……」

「……行きましょう。これ以上、淑妃様をお待たせできないわ」


 傍らに控えていた喜娘が何か言いたげな様子を見せていたが、翠媛は僅かに苦い笑みを浮かべて首を緩く振る。

 形容できない何かが翠媛へと向けられている。喉元に剣を突きつけられ続けているような、背筋に冷たいものが伝う感覚。

 沈黙した賢妃の瞳の奥に潜んでいた暗いものが、その象徴であるような気がして。

 翠媛は喜娘以外の侍女に気づかれぬように小さく、息を吐いて。そして、何事もなかったかのように足早に歩みを進めた。


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