二人の小さな世界

 侍女達が何気ない眼差しの中に好奇を滲ませながら、二人の様子を見つめている中。劉景は、翠媛が予想もしていなかった行動に出たのである。

 何と劉景は、翠媛の肩を抱くと。迷う事なく翠媛の居室へと歩き始めたのだ。

 これには、侍女達も、喜娘も。そして、誰よりも肩を抱かれてつられて歩き始めた翠媛が驚愕して目を見開いてしまう。


「え、え、えええ……?」

「皇帝が妃嬪と共に休むのが、何か不思議か?」

「お、おかしくはないです、けれど……」


 混乱し切って、気の利いた受け答えのできぬまま。翠媛は動揺したまま、劉景と共に部屋へと足を運ぶことになる。

 居室につくと、劉景は当然のように喜娘へ翠媛が夜着になる手伝いをするように命じた。

 一瞬呆気に取られていた喜娘だったが、すぐに何かを察したように頷く。そして、目を瞬きながら言葉を失ったままの翠媛を、手際よく夜着に替えさせる。

 支度が出来たとばかりにうやうやしく押し出された先の寝所にて。牀の上に腰かけて待っていた劉景は、自身も既に寝支度を整えていた。


「あ、あの。これは、どういう」


 心が揺れすぎて『天女』の顔で居続けるにもぼろがでそうになりながら、頬を微かに紅潮させつつ翠媛は必死に劉景に問おうとした。

 しかし、それを制するように劉景が口元に指を当てる。

 本当に一体何が、と困惑する翡翠の眼差しの先で、劉景は何と剣を手にしている。

 ますます以て混乱の際に達しそうだった翠媛の目の前で、見るも止まらぬ早業が繰り出された。

 上がったのは、二つの悲鳴だった。

 一つは翠媛のもの。そして、もう一つは……。

 劉景が、佩いていた剣で掃った緞帳の向こうには、驚愕と恐怖に固まった表情の侍女の姿があった。


「……皇帝の閨に聞き耳を立てる趣味があるのか?」

「い、いえ! 滅相もございません!」


 お酒をお持ちしようかと思って、などと要領を得ない言い訳をしどろもどろになりながら侍女は口にする。

 しかし、劉景が険しい一瞥をくれると、その場に糸が切れたように座り込んで震えるばかりとなってしまった。

 翠媛は何がなんだか、と言った様子で事の成り行きを見守っていたが、劉景は次いで何も無い宙へと鋭く呼びかける。

 声に応じるように滲むようにして姿を現したのは、彼に従う不可思議の黒獣達だった。

 劉景は二頭へ、殊更震える侍女に聞かせるようにはっきりとした声音で命じる。


「閨に近づこうとする者あらば。侍女の喜娘以外は、全て食い殺して構わん」


 それを聞いた翠媛は思わず目を見開き言葉を飲み込み、侍女は声にならない悲鳴をあげて目に見えて震えが大きくなる。

 腰が抜けてしまったらしい侍女は、怒りと呆れを滲ませた様子の喜娘が引きずるようにして連れていき。

 やがて、寝所には翠媛と劉景の二人だけとなった。


「あの……陛下……?」


 恐る恐ると言った風に声をかける翠媛の言葉に、一つ息を吐いて侍女が連れていかれるのを見据えていた劉景が振り返った。

 二人の眼差しが真っ直ぐに交差する。

 戸惑いと不安を宿しながら見つめた先で、劉景は何時も通りの……翠媛と二人、庭に過ごしていた時の温かな笑みを浮かべていた。

 劉景は、牀に腰を下すと無造作に横になる。

 そして、優しい苦笑いを浮かべながら首を傾げて翠媛を見上げた。


「何もしないと約束する。だから、ここで寝かせてくれ」


 他では安眠できない、と呟く劉景の声音に、翠媛は漸く気付いた。 

 ああ、この人は。翠媛が今どのような状況にあるのかとっくに気づいていて、その上で翠媛に気の抜ける場所を作ってくれたのだ。

 後宮に広まりつつある噂であるならば、皇帝の耳にも届いただろう。そして、今の翠媛が置かれた環境を慮った。

 四六時中見張られて、常に『天女』で居続けなければならない状況に。息のつけるところがなくて、疲弊し続けていたことに気付いて。

 せめて、この閨にある時だけでも安らげるようにと人を遠ざけてくれたのだ。

 唇を噛みしめて俯いてしまった翠媛は、胸の裡に熱い何かが生じたのに気付いた。

 内側から溢れだしてきた想いは、目頭を潤ませるけれど。必死に堪えながら言葉を紡げずにいた翠媛は、やがて一つだけ静かに頷いた。

 少しして、翠媛と劉景の姿は並んで横たわり牀の上にあった。

 獣達と喜娘の見張りが功を奏しているらしく、人の気配を周囲に感じることはない。

 ただ、心が安らいでいるかといえば、若干動揺したままだ。

 だって、殿方と同じ場所で。更に言えば同じ牀に横になっているなど初めてなのだから。

 背を向けあっているけれど今までにない程近い場所に、無防備なまでの劉景の気配を感じる。

 胸の鼓動がいつもより早い。この状態で眠れるだろうか、と心配になる程だ。

 翠媛が密かに深呼吸続け、何とか自分を落ち着けようとしていると。不意に劉景が紡いだ言葉が耳に触れる。


「……ただ天女であることを強いられ続け、辛かっただろう」


 その声は微かに苦さを帯びており、罪の意識に自分を責める響きがあった。

 劉景は罪悪感を覚えている。

 行きがかりとはいえ、翠媛に寵愛を与えているのを装ったことで、翠媛が今の立ち位置に立たされてしまったことに。

 誰かを迂闊に信じることもできず、本来の自分であることもできず。ただ、他者への姿を作り続けなければならない状態。

 それは、彼にとって何よりも覚えのある状況であるから。尚の事、翠媛をそうしてしまったことが辛いのだと思う。

 翠媛は少しだけ黙して心の裡を探るように思案していたが。


「悪意だけなら、まだ良かったかもしれません」


 翠媛を瑞の天女と呼ぶ者達には、悪意を以てそう呼ぶ者達もいた。

 噂など当てにならない。真実は違うだろうと暴きたい者達。嫉妬と羨望から、崇拝の対象が地に堕ちることを願う者達。

 向けられたのが悪意であったなら、翠媛は毅然と立ち向かうだけ。けして負けないと自分を叱咤して立つことができる。

 けれど。


「純粋に好意的に『天女』に憧れてくれる眼差しのほうが、辛いと思う時があります」


 敵意ではなく純粋な憧れを向けてくる者達も多くいる。

 翠媛を理想の女性と崇めるように見つめ、願いを投影するように見つめてくる者達も、けして少なくない。

 一人歩きする程に作られた評判について苦々しく思うけれど、それが皆の自分に望んでいる姿であるなら。


「皆の望む姿が、本当の私なら良かったのに」


 皆が翠媛に望む姿が『天女』であるなら、本当の自分とその姿との乖離が悲しい。

 今こうしてある自分は、誰も望んでいないのかもしれない。

 だからこそ作る必要があるし、隠す必要がある。

 それならいっそ、その通りにあることが出来ていればよかったのに、と思う。

 そんな事を考えながら、瞳を伏せた翠媛だったが。


「俺は、そうは思わない」


 寂しげな囁きのような翠媛の言葉に対して劉景が返したのは、確かな声音の明確な否定の意思だった。

 思わず弾かれたように半身を起こして、劉景の方を振り返る。

 もしかしたら、翠媛は寄る辺の無い子供のような顔をしていたかもしれない。自分が、どんな顔をしていたのか、もう分からない。

 けれど、翠媛へと言葉を重ねる劉景の顔には、包み込むような優しい慈しみがあった。


「お前はそのままの方がいい。天女より人間である方がよほど好ましい」


 今まで言われたことのない言葉だった。

 嘆かれたことはある。どうしてこうなった、と顔を覆われたこともある。

 愛されていたのは間違いないけれど、だからこそ期待通りではないことが哀しく思っていた。

 本当の自分が皆の望む姿ではないことが、皆を大切に想うからこそ辛いと思う心を、必死に気付かぬ振りをしていた。

 でも、この男性は。偽ることも作ることもない、本当の翠媛をこそ良いと言ってくれる。


「陛下……」

「劉景でいい。……二人でいる時には、敬称はいらない。敬語もいい」


 翠媛の無意識のうちの呟きを聞いた劉景は、少し悪戯に笑うと問うように首を傾げた。

 ここには、二人しかいない。二人だけの、閉じた小さな世界である。

 偽りも、外の世界での姿もいらない。本来のお互いがあればいい。

 劉景はそう告げると、眠るか、と告げて翠媛に背を向ける。

 同じ様に静かに彼に背を向けて横たわりながら、翠媛は必死に自分を落ち着けようとしていた。

 様々な感情が綯交ぜになって、自分が自分ではないような心持ちすらする。

 背中に感じる温かな気配が、とてもしあわせに感じることを。自分でも不思議に思うけれど、嫌ではなかった。

 もう、男性と同じ牀にあることへの動揺もなかった。

 偽らない本当の自分を肯定されたことが嬉しくて、笑顔を見せてくれるのが嬉しくて。

 けれど、こんな風に笑ってくれるなら。

 翠媛は、この人の前では。この人の前でだけは、偽ることなく本当の自分で居たいと思ってしまった……。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る