翠媛の怒り

 その夜、翠媛のもとを訪れた劉景は開口一番にこう告げた。


「この宮の人間を入れ替える。お前の周囲に置く侍女も、俺が直接選ぶ」


 政務で疲れたであろう劉景を労おうとしていた翠媛は、咄嗟に返す言葉が紡げずに目を丸くする。

 今日の夕餉は彼が密かに好んでいるものを用意させた。献立を楽しそうに翠媛が伝えようとした矢先のことだった。

 目を瞬いて言葉を失っている翠媛を見て、劉景は大きく溜息を吐く。


「嫌がらせが頻発しているのに、俺が気づいていないと?」

「まあ、多少は身の回りが騒がしい、とは……」


 騒がしい、どころではないのは翠媛とて気付いているので、今一つ応える声音は弱い。

 一つ嫌がらせが為される度に、少しずつ侍女達の悲鳴が上がることが増え。悲鳴が悲痛なものになりつつあるのは、分かってはいる。

 それはとりもなおさず、徐々に内容が苛烈で、洒落にならないものが増えていることを意味している。

 翠媛も気付いているし、心を痛めているから、それ以上の反論が紡げずにいる。

 自分だけならまだいい。

 被害を受けるのが翠媛「だけ」ならまだ、何とでも許容してやると思う。けれど……。


「あの淑妃も手を焼く状態になっているのだろう」


 その言葉に、翠媛は更に飲み込もうとした何かが喉につっかえたような、複雑な面持ちになってしまう。

 どうやら、劉景は今日翠媛が淑妃に呼ばれたことまで知っているらしい。

 知らせる者があったのかもしれないが。多分、傍らに控える異能の獣達による気がする。

 若干恨めしげに視線を送ると、二頭は目線から逃れるように丸くなって見せた。

 劉景のいう事は確かに正しい。今日呼び出されたのは、翠媛の嫌がらせを抑えられないことへの謝罪の為だったのだ。

 遅れたことを詫びて膝をつく翠媛を慌てて立たせながら、淑妃は哀しげに僅かに目を伏せた。


『ごめんなさいね、莉修儀……』

『いえ。高淑妃様が謝られることでは……』


 呼び出されておいて遅れたのは翠媛である。翠媛が謝罪する必要はあっても、待たされた淑妃が謝罪する必要はないはずだ。

 けれど、淑妃は重ねて詫びると、物憂げな面もちで語り始めた。


『皇后様、貴妃様が不在な今。わたくしがあの方達を諫めなければならないのに……』


 淑妃は、翠媛が何故に呼び出しに遅れたのかに気付いる。

 あの方、とはおそらく賢妃のことだろう。

 彼女は日頃から苛烈になりつつある翠媛への言葉や行動について妃嬪達を窘め、嫌がらせに対しても手を打ってくれていた。

 現在頂点と次ぐ者が不在である後宮において、最高位であるのは淑妃である。

 政の場である外廷に対して、内廷とも言える後宮の規律を守り、平らかであることを維持するために淑妃が常に心を砕いているのは知っていた。

 新しい妃嬪である翠媛に対しても、身の回りの不自由はないか、困っていることはないかと気を配ってくれ。孤立しがちな妃嬪がいると、それとなしにさりげなく気遣いをする。

 淑妃を慕うものも多く、だからこそ後宮において彼女の影響力は大きい。このような女性がいて、劉景はよく後宮に無関心でいられたものだな、と時折思うことがある。

 しかし、最近頓に酷さを増しつつある翠媛に対する悪意には、彼女の力が及ばなくなっているという。

 言い聞かせて一つ静めても、また一つ別のものが起きる。いたちごっこと言える状態なのだ。


『徳妃様も、少し何を思われているところが分からないところがおありで。……なかなか、難しいわ』


 もし徳妃が表だって淑妃に協力し、諫める側に回ってくれたとしたらまた状況も変わってくるかもしれない。

 だが、実際の徳妃はあの通り。心の裡が全く読み取れない女性は、静観を貫いている。

 申し訳なさげに哀しい笑みを浮かべながら呟いた淑妃の呟きが、今でも耳に残っている。

 ただ、実を言うとであるが。皆が言う程に、翠媛は嫌がらせを受けていることに対してはへこんでいない。

 人の目が……『天女』の顔を維持しなくて良いのなら、いくらでも対処のしようのあることばかりだと思っている。

 虫や蛇に驚くほど柔な育ちはしていないし、小さな刃で多少指先が傷ついたからといって悲鳴をあげていては剣術など修められない。

 姿を作らねばならないから、対応が少し面倒くさいというのがある。

 だから、皆の手前気にしている風は装うものの、そこまでしてもらう程ではないと思ってしまっている。

 喜娘にはすっかり見通されていて、そういう問題ではありません、という眼差しをよく向けられているけれど。

 しかし、それを伝えるわけにはいかないし、と思案している翠媛を少しばかり半眼で見つめながら劉景は続ける。


「恐らく、皆が言う程に気にしていないだろうことは知っているし。お前がかなり、いや相当腕が立つのは知っている。先日、実際に刺客を叩きのめしたのも」

「喜娘!」

「……さすがに、皇帝陛下にご報告しないわけにはいきません」


 怒りそうになるのを努めて抑えている口調でつらつらと述べられて、翠媛の肩が思わず跳ねる。

 最後の下りを聞くに至っては、思わず恨みがましい目を向けながら後ろの侍女を振り返ってしまった。

 確かに、先日。庭をそぞろ歩いている時に、侵入者があった。

 殺す気だったのか。それともただ脅しのつもりだったのか。侵入者たちは武器を向けて翠媛に襲い掛かって来た。

 まあ、訓練はされていたけれど今一つの腕だった、と振り返って思う結末とはなった。

 まさか、修儀が直々に叩きのめしたとは口が裂けてもいえず。怯えた様子を取り繕いながら、詳細は濁して事を伏せて捕らえた賊を警備に引き渡して終わった。

 だが、翠媛の侍女として事実を劉景の耳に入れないわけにはいかない喜娘は、偽ることなく全てを劉景に報告したらしい。

 責めたいけれど、あちらのいう方が正論であり、翠媛は思わず小さく唸る。


「だからといって。仕えてくれている者達を皆、入れ替えるなど……」

「少しでも確かで、信頼のおける人間を置きたい。そこは譲れない、諦めろ」


 宣言するように言われた言葉に、翠媛は思わず言葉に詰まって俯いてしまう。

 翠媛は妃嬪であり劉景は皇帝である。皇帝にそう言われては、逆らうことなどできない。

 しかし、翠媛が言葉に困ったのは命令だから、ではない。

 それよりも何よりも、諦めろと告げる劉景の表情があまりに哀しそうで。どこか泣き出しそうにすら見えて、翠媛は反論の言葉を完全に失ってしまう。

 翠媛を見て暫し黙していた劉景は、やがて静かに口を開く。


「俺は、今の俺に出来る限りのことをしたい。何も出来なかった後悔を繰り返したくない」


 心の奥底から救いあげ紡ぎ出されたような言葉に、翠媛は思わず目を見張る。

 ああ、そうだ。たしか、劉景の実母も相当な嫌がらせを受けていて、命に関わるようなものとて多々あったという。

 けれど、彼はまだ小さな少年であって。母を守りたいと思っても何も出来ずに口惜しかったと語っていた。

 翠媛もまた表向きの立ち位置とはいえ、かつての劉景の母と同じ立場にいる。そして、同じ様に悪意を向けられ、脅かされている。

 寵姫であるということは。皇帝の寵愛を受けるということは、そういうことなのだ……。

 秘密の共有という不思議な理由から始まった関係であっても、いつか終わる仮初のものだとしても。

 それでも彼は、出来る限りを以て母を守ろうとした父と同じ様に翠媛を守ろうとしてくれている。

 真っ直ぐに向けられる劉景の心に触れてしまえば。それ以上を拒むことなど、翠媛には出来なかった……。


 やがて、百花の宮に仕える人間は大規模に一新される。

 全ての人間……下働きに至るまで劉景が対峙し、来歴と人となりを確かめた上で配置を決定したのだ。

 あれ程後宮に無関心だった皇帝が、側室一人の周囲の人間を自ら選び、守りを固めたことに皇宮の人間は驚愕した。

 どうやら、御寵愛はかなり深いようだ、と皆は囁き。これならば、お世継ぎもいずれ期待できるのでは、と噂しあった。

 劉景は、修儀の傍には信にたる人間を置きたいだけだ、とだけ答えているという。

 ただ「宮に侵入した刺客達を撃退してのける程、腕の立つ護衛まで雇われた」と話を振られた時に、内心で盛大に溜息を吐きながら鉄面皮を貫いたらしい。

 翠媛を取り巻く環境も大きな変化を見せた。

 まず、要らないと拒否し続けていた毒見がつけられた。

 警備の為の物々しい兵士が宮の周囲に姿を見せるようになった。

 侍女達はかつて劉景の母に仕えていた者達を呼び寄せたらしく、少し侍女達の平均年齢が上がった。喜娘と上手くやれているようで、これは良かったように思う。

 劉景の厳しい試問を潜り抜けてきた者達は、成程有能であり、信頼にたるであろう者達ばかりだった。

 以前のように物陰から探るような眼差しを感じることも減り、何か小さくとも有事の際には実に手際よく対応する。

 最初こそ戸惑い気味だった翠媛も、幾分心を安らかに過ごせることが増えていく気がしていた。

 だが、向けられる悪意がおさまったわけではなく、嫌がらせが止んだわけではない。

 巧妙に水面下に潜り機を伺って翠媛を害そうとする者達は、むしろより悪質な手段をとるようになっていく。

 子どもの意地悪かと思う幼稚なものから、洒落にならない……事によっては命に関わるようなものへと。

 庭に強い毒を持つ蛇が投げ込まれ大騒ぎとなった日の夕刻。

 さすがの翠媛も淑やかな佇まいを作ることすらおざなりなまま、渋い表情を浮かべて唇を引き結んでいた。

 喜娘が気遣うように自分を見ているのに気付いて、翠媛は大きく嘆息する。


「怒っておられますね」

「……さすがに、そろそろ表に出てしまいそう」


 苦笑しつつ緩く首を傾げて言う喜娘へと、努めて冷静であろうと心がけながら翠媛は低く呟く。

 確かに、言われた通り。翠媛は今、怒りを覚えている。

 だが多分、喜娘が想像しているものとは、少し理由が違う気がする。


「私が被害にあっているだけならいいのよ。何とでも我慢できるし、何とでもするし。問題は他の人間が害を受けたら、よ。」


 良くありません、という喜娘の呟きを聞こえないふりをしながら、翠媛は続ける。


「それに、この宮には劉……いえ、皇帝陛下がいることもある。陛下が害を受ける可能性だってあるということだってあるのに」


 蛇は故国でもよく見かけたから、特に恐ろしくない。毒さえなければ普通につかんで外に出して終わり。

 けれど、使われたのは人を死に至らしめるほどの毒をもった種類の蛇。しかも、それを庭に投げ込まれたのが腹立たしい。

 侵入者が庭に足を踏み入れた時も、同じ怒りを覚えた。

 花が咲き誇る庭は、劉景の大切な場所だ。彼にとって心の支えであり癒しである場所を汚されたのは許せない。

 それに、毒がなかったからまだいいが、万が一毒があったら。そして、投げ込まれたのが、劉景が庭にいる時だったら。

 もし、他の人間が噛まれてしまったら。

 喜娘が噛まれてしまったら。

 劉景が噛まれてしまったら……。

 想像するだけで寒いものが背筋に走ると同時に、腹の奥底から滾るような怒りが湧き上がってくる。

 自分を狙うだけなら好きなだけ向かってくればいい。でも、彼に害を及ぼすことだけは許さない。

 それだけは、絶対に止めて欲しい。悲痛なまでに、翠媛は願っていた。

 だが、それから数日後。翠媛が恐れていた事態は、起きてしまったのである……。

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