告発
生憎の空模様を、少し恨めしく見上げていたある日。翠媛は、物々しい雰囲気を纏う年嵩の侍女達に告げられた。一緒にお出で頂きます、と……。
突然来て、こちらの予定を少しも気に掛ける様子もなく。こちらが応じて当然というような、威圧的な様子で。流石の翠媛も内心面白くないものがあったが、それを口にすることはできなかった。
翠媛を呼んでいるのが、他でもない高淑妃であるというのだ。
道理で見覚えがあると思った、と心に呟く。そういえば、淑妃様のところで見た顔だ。
現在後宮に置いて最高位にある女性の意向を無視するわけにはいかない。
支度を急ぎ整えて、侍女達に先導されながら回廊を心持ち足早に進んでいく。
だが、何かがおかしい、とすぐに気付く。
淑妃のもとに向かう翠媛とそれに従う喜娘へと、あちらこちらから数多の眼差しを感じるのだ。
それも、どう見積もっても好意的とは思えないものばかり。嫌悪に嘲り、非難、怒り。ありとあらゆる負の感情と、翠媛を糾弾するような険しいものばかり。
一体自分が何をした、と眉を寄せかけるが何とか耐える。
叶うならば一人ずつ捕まえて問い詰めたい思いに駆られるが、侍女は翠媛の裡には全く気付かず先を進む。
だが、翠媛が抱いた問いはすぐに答えが与えられた。
侍女に導かれた先は高淑妃の宮であり、翠媛は以前茶会で招かれた覚えのある池を望む東屋に通される。
雰囲気は、かつて足を踏み入れた時と明確に違っていた。
その場には、表情を曇らせ蒼い顔をした高淑妃だけではなく、感情が一切見えない様子の楊徳妃。そして徳妃とはうってかわって感情的な、今にも翠媛に掴みかかりそうな程の激情宿した安賢妃の姿もある。
どう考えても楽しく茶会、という様子ではない。三人と、平素から彼女達に付随する妃嬪達が集う場に、翠媛は椅子を勧められることもなく立たされていた。
まるで、罪を裁かれる罪人のような扱いである。
すぐさまこれはどうしたことかと問いたいが、一応淑やかに怯えた様子を見せて相手の出方を伺う。
重々しい空気の中、僅かに逡巡したような様子を見せつつも、高淑妃が物憂げな声音で切り出した。
――翠媛に、不義密通の疑いがかけられている、と。
思わず、儚い『天女』の姿を演じることすら完全に忘れて、素っ頓狂な叫び声を上げかけたが辛うじて耐えた。
目を見開きながら、咄嗟に返す言葉が出てこない。何を言われたのかを、まだ理解しきれていない。
不義密通。
誰が? そう、翠媛が。
一体それはどういうことか。翠媛がいつ、どうやって、誰と。何を言われているのか、さっぱり分からない。
口を僅かに開いたまま絶句している翠媛へと、一つ溜息をついて淑妃は続ける。
「その……。貴方が、誰かと密会をしているという告発があったの……」
「かつて百花の宮と呼ばれた、封鎖された宮の近辺で。心当たりはあるか……?」
躊躇いがちに告げる淑妃に続くように、硬質な響きを帯びる声音で楊徳妃が告げる。
淡々とした様子で、徳妃は翠媛を真っ直ぐ見据えながら首を傾げる。
凡そ感情と読み取れるものが乏しい声から、彼女が何を考えて言葉を口にしているかは分からない。
「貴方が毎夜抜け出して、人目を忍んで今は使われていない宮の方へ向かうのを見たと言う者がいる。そして、それに続くように、長身の何者かの姿を見たとも」
あ、と思わず小さな声をあげかける。
心当たりがあるかと問われれば、無いと言えない事実である。
翠媛が百花の宮に夜ごと通っていたのは事実であり。そして同じく百花の宮に足を運んだ人物が居たのも事実だから。
目を瞬き言葉に窮した一瞬を見逃さなかったものが居た。
怒りに……怒りというよりも憎悪に燃えるような瞳で翠媛を見据える賢妃である。
「心当たりがあるようね……? 相手は誰? 宦官の誰か? それとも外部から殿方を引き入れでもした?」
誰がそんな暇なことをするか、といつもの翠媛であれば心の中であっても言い返していただろう。
馬鹿馬鹿しいと嫋やかに笑って否定するべきだった。けれど、一瞬の油断が思わぬ窮地を招いてしまう。
控えた喜娘が息を飲み、翠媛の様子を気づかわしげに見つめているのを感じる。
思わぬ不意打ちに対する驚きを、つい表情に出してしまったのを迂闊だと悔いても遅い。
翠媛の反応から『何者か』との密会が事実であると確信した賢妃は、激高した様子で眦を吊り上げて叫ぶ。
「皇帝陛下の妃嬪でありながら、後宮内で不義を働くなんて! 何て汚らわしい!」
周囲の人々に、賢妃の怒りが伝播していくように、取り巻く空気が不穏なものを徐々に帯びていく。
汚らわしい。おぞましい。許されない。狡い。
底に隠しきれない嫉妬と共に、悪意は次々に囁きとなり。それは次なる囁きとなって、騒めきとなる。
同じ省みられぬ身であり、皆に耐えているのに。一人耐えることをやめて罪に走った。居並ぶ妃嬪達の眼差しは、言葉に依らずそう告げていた。
翠媛は、唇を噛みしめて咎を責める眼差しを受け止めながら、必死に思えていた。
自分に罪はない。何を恥じるようなこともしていない。不義密通など、全くもって覚えがない。
事実だけいえば、翠媛が男性と会っていた、というのは間違っていない。
しかし、その相手というのは他ならぬ皇帝陛下である。
更に言えば、特に甘い逢瀬をしていたわけではないのだ。どうやったら剣の鍛錬と庭仕事が不義に当たるのか真剣に問いたい。
けれど、それを口にすることはできないのだ。だって、あの宮で何をしていたのかを、明らかにするわけにはいかないのだから。
何故、あの場所にて自分達は顔を合わせることになったのか。あの宮にて、時を共に過ごすようになったのか。
自分も、そして皇帝も。あの場所で見せる姿を、他に知られるわけにはいかない。
さりとて、このまま沈黙を続ければ良くて冷宮送り。悪ければ毒杯を賜る、ということになりかねない。
冷たいものが背を伝う中、翠媛は敵意に満ちた鋭い眼差しの数々に耐えながら、必死に自分を叱咤する。
まず、何か。何か言葉を返さねば。
僅かに顔色を無くしたまま言葉を選び続ける翠媛へと、表情を陰らせた淑妃が震える声で問いかける。
「誰かとお会いしていたのは、本当なの……?」
「それは……」
問いに対しては本当ですと返したい。事実である、そして自分も不義など働いていない。
それを声高に訴えたいけれど、それを出来ない理由がある。
自分が姿を暴かれるだけならば我慢できる。自分が嘲られるだけならば、まだ何とか。
でも……!
翠媛がいよいよ言葉に窮しているのを見て、負の感情を帯びた周囲のざわめきは既にどよめきの域に達し。
賢妃は激しい眼差しのまま勝ち誇ったように笑い、徳妃は露程も表情を動かさず。淑妃は蒼褪めて、まさか、と呻くように呟いた。
翠媛にとって味方と言えるのは、この場においては喜娘だけ。彼女とて、侍女という立場ではそう強く翠媛を庇えない。
自分が咎めを受けてでも声をあげようとする喜娘を、翠媛は視線で厳しく制した。
裁きの場に、悪意はもう止めようがないほど渦巻きいている。
それらが翠媛へ向けて激しく吹き上がろうとした瞬間、慌てた様子の侍女が駆け込んできて、倒れ込むように淑妃の前に跪いた。
「こ、皇帝陛下のおなりです……!」
「何ですって……!?」
咳込みながら告げる侍女を驚愕に目を瞬く淑妃。まさか、と告げられたことを信じられない様子である。
賢妃は思わずといった風に立ち上がり、流石の徳妃も目をかすかに見張る。
にわかに先程とは違う種の緊迫した雰囲気となった場にて、皆の眼差しがある方角へ釘付けになった。
唇を弾き結んだまま、翠媛もそちらへと翡翠色の瞳を向ける。
従者たちを引き連れて、その人物は重い靴音を響かせて、確かな足取りでその場へと歩んでくる。
この国において唯一人に許された装束を纏い。言葉を奪う程に他を圧倒する空気を纏い。
畏怖を呼び起こす厳かな佇まいの美丈夫――皇帝・辿 劉景は、静まり返った裁きの場に、泰然と姿を現した。
「陛下……。足をお運び頂けるとは……」
「……随分と騒がしいことだ」
慌てて跪き礼を取る淑妃に、次いでその場にいる妃嬪達を一瞥すると。劉景は険しい声音で、鋭く告げた。
少し緊張した面もちで見つめた先で、皆に倣って跪いた翠媛の翠と劉景の黒の眼差しが静かに交錯する。
そして、翠媛は僅かに目を見張る。
皆の目には、皇帝が何時もと変わらない威容を持った佇まいに見えるだろう。
翠媛の目にも概ねそう見える。だが、少しだけ……注意しなければ気が付かないであろう僅かなものであるが、焦燥がある。
こちらを見る漆黒の眼差しの中に、微かにではあるがこちらを気遣う心が見え隠れしている。
接するようになってから暫したち、皇帝の人となりを多少とはいえ知ることになったからこそ気付いたことであると思う。
皇帝は、恐らくこの糾弾の場について聞いて急ぎ駆け付けた。けれど、それはけして自分の秘密が明るみに出るのを恐れてではない。
彼は翠媛を心配して来てくれたのだ、という不思議な確信がある。
皇帝の手が傍らの獣の片方の頭にあるのを見て、翠媛は察した。
あの獣は如何なる場所へも跳び、駆ける。そして皇帝の耳となり目となる、という。
恐らく翠媛が糾弾されているのを察した黒獣が、主たる劉景にすぐに伝えたのだろう。
そして、それを聞いた劉景は……。
裡から湧き上がる様々な感情が綯交ぜになり、気を抜けば表情に感情が溢れだしそうになってしまう。
必死に堪えながら皆と同じ様に礼を取り続けながら、唇を噛みしめる翠媛。
皆が震えあがり沈黙する中。恐る恐ると言った風ではあったが、淑妃が意を決して場の説明をするために口を開いた。
「莉修儀が、何者かと百花の宮にて密会していたという疑いがあり。その詮議を」
「必要ない」
高淑妃が震えかけた声音で必死に抑えながら紡ぐ説明を、劉景は短く制した。
震える妃嬪達も、意図がわからないといった様子で皇帝の次なる言葉を待つ。
ともすれば不躾に凝視してしまいそうになるのを堪えながら、翠媛は揺れる眼差しを皇帝に向ける。
自制心が間に合わず、え? と咄嗟に小さく声をあげてしまった淑妃を他所に、平伏する者達を睥睨しながら、彼は厳かに告げる。
「莉修儀が会っていた相手は、私だ」
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