鬼である理由
人々から忘れられた宮の庭で翠媛と劉景が不思議な時間を持つようになって、また少し時は流れた。
その夜、花の庭に美しい調べが響いていた。
すっかり定位置となってしまった庭を見渡せる場所で、翠媛は劉景の隣に座り穏やかな表情で瞳を閉じて聴き入っている。
劉景の手には二胡がある。流れるように弓が張られた弦の上を滑る度に、妙なる音色が紡がれる。
今日、たまには良いだろうと呟いた劉景は二胡を手にしていた。曰く、母の形見であり、この宮にて収蔵しているものであるという。
暫く弾いていないから腕が鈍っているかもしれないが、との前置きで始まった月下の楽は、とても素晴らしいものだった。
郷愁を誘う美しい曲は、余韻を残して夜空に溶けた。
感嘆の息を零しながら、雰囲気を壊さぬように控えめに。だが、心からの称賛を以て翠媛は拍手した。
瞳を輝かせながら精一杯に手を叩く翠媛を見て、劉景は少し照れたように優しい苦笑いを浮かべる。
「……久方ぶりだったが、それなりに弾けたか」
「それなり、などというものではありません。とても素晴らしい演奏だったと思います」
翠媛もまた楽器を嗜みはするが、遠く及ばないと思う程に。
これで腕が鈍っているというならば、ますます立つ瀬がない。
少しばかり拗ねてしまったのを隠しながら翠媛が告げると、溜息が一つ聞こえる。
「身近に楽器など置いていないからな。ここに来なければ触れられないから、そうそう練習もできない」
どうやら、居室には最低限の調度や道具の他は、武具しか置いていないらしい。
彼の言葉通りのものを想像すると、あまりに殺風景で殺伐とした空間が脳裏に浮かぶ。
いや、仮にも皇帝の居室であるから、設えは相応に豪奢であるだろうが。
だが、どうしても空気すら怜悧である居室に。孤独に佇む彼の姿を想像してしまって、胸が痛んだ。
それを打ち消すように緩く頭を振ると、気を取り直してといった風に翠媛は首を傾げる。
「せっかくこんなに素晴らしい腕前なのに、勿体ない」
「楽を好むのは軟弱だ、ととられかねない」
これだけの腕前を持ち、こんなにも美しい楽を紡げるというのに。それを実際耳に出来るのが、翠媛と獣達。そして小さな生き物達だけというのは素直に勿体ないと思う。
思うところを率直に口にした翠媛の耳に届いたのは、何かに耐えるように心を押し殺した苦い響きの言葉だった。
翠媛は、まただ、と心に呟いた。
この場所で皇帝と語らうようになって、思いの外早く時間は過ぎた気がする。
知ってしまった思わぬ姿こそが、彼の本当の顔だということにも、もう気付いている。
そして、彼が必死にそれを……自分の人となりにつながるものを封じようとしていることにも。
故に、翠媛は劉景を真っ直ぐに見つめると、それを口にした。
「……どうして、そこまでお好きなものを隠そうとなさるのですか?」
劉景の表情が、目に見えて強張った。唇を弾き結び、俯いてしまう。
実は、この問いを口にするのは二度目だった。
あまりに優しく情け深く花々や小動物を慈しみ、嬉しそうに世話をする様子を見て不思議に思ったのだ。
何故、そこまでして隠すのだろうと。何故……そうまでして、この宮の外では、冷徹で無情な人間を『演じる』のだろうと。
彼は、頑なに応えようとしなかった。お前には関係ない、と言わんばかりに顔を背け、それきりだった。
翠媛もその時はそれ以上問いを重ねることはせず、黙したままだったが。
花を育てることも、今宵のように二胡を奏でる事も、亡き母が教えてくれたと彼は教えてくれた。
本当は好んでいるのだというものを、何故そこまでして隠さねばならないのか。
優しく不思議な時間を重ねて、眼差しを自然にかわせるようになった今ならば答えてくれるような気がしたのだ。
暫くの間、劉景は何も言わず、気まずそうな、身の置き場所に困ったような複雑な表情で黙り込んでいた。
だが、逡巡を吐き出すようにひとつ息を零したかと思えば、変わらず真っ直ぐ自分を見つめ続ける翠媛の翠の眼差しを見つめ返した。
「俺は、人であってはならない。……『鬼神』でなければならず、冷酷非情な鬼は花を愛することも、小動物を愛でることも。楽を奏することも、必要ない」
劉景が言葉を紡ぐ度に、胸に棘がささったような痛みを感じる気がした。
彼が自分で自分を否定し押しつぶし、消し去ろうとしている気がして。心が痛くて辛い。
得られなかった答えを返してくれるほどに心を許してくれたことが嬉しい分だけ、劉景が本当の自分を殺そうとしているのが哀しい。
気が付いた時には、なぜ、と呟いていた。
何故、貴方は鬼であろうとするのか。何故、人であってはいけないのか。
続きを紡ぎたいのに、言葉は音とならない。それが、もどかしくて苦しい。
翠媛の横顔を少しの間無言で見つめていた劉景は、やがて、再び口を開いた。
「……亡き父と母への誓い故だ」
彼の父である先代の皇帝は、まず文句のつけようのない名君であったという。
規律を以て、不正を許さず。身分問わず優れた人材を登用して、国内を確りと治めた。
国外とは出来る限り友和を保ちながらも、向かい来る脅威には毅然と立ち向かった。
そして、異国から紹嘉に辿り着き後宮へ入ったとある妃嬪――劉景の母を寵愛していた。
「母は、父の寵愛以外によすがとなるものがない不安定な立場で、それでも必死に俺を育ててくれた。そして、父は母に確かな守りを与えられないことを不甲斐ないと自らを責めていたが、叶う限り俺達と共に過ごしてくれた……」
元より異国の出であり、頼れる血縁も後見もない状態での後宮入りだった。
頼れるものは皇帝の寵愛だけ。
父は出来る限りに心を配って母の周囲の守りを固めたものの、それにも出来ることには限りがあった。
暴君の名を頂く覚悟があれば、母を守り切ることは叶っただろう。だが、そうするには父はあまりにも皇帝でありすぎた、と劉景は寂しげな声音で語る。
一度暴君と呼ばれたものの治世に平穏は有り得ない、と己を律してしまう自分に対して悔しげであった父帝に、母は微笑みながら静かに寄り添った。
「母はかなりの嫌がらせを受けていた。確固たる後ろ盾がないまま皇帝の寵愛だけが頼りで。ましてや唯一の男子の母とあっては」
もし劉景が皇子ではなく、公主として生まれていれば。もしくは、皇后を始めとした他の高位の妃たちに男子が生まれていれば。
そうだったなら、彼の母は多少目障りとはいえ、そこまで悪意の矛先を向けられることはなかっただろう。
だが、先帝にはそもそも子供に恵まれず、生まれた子は何故か皆女児で。それも夭折続き。無事に生まれて育ったのは、劉景唯一人だった。
残酷な事実は、数多の悪意を孕んで劉景の母に向かう向かい風となる。
「母が他の妃嬪達を呪詛していると噂するものもあった。我が子を皇太子にしたいが為に、他に男子が生まれないように、と。幸いにして父が取り合わなかったが、母が孤立する原因にはなっていた」
「……酷い」
努めて冷静にあろうとする低い声音が、却って彼が押し殺そうとする水底に滾る怒りを感じさせる。
気が付いた時には、翠媛は我知らずのうちに呟いていた。
後宮とはそういう場所だと分かっていた。けれど、実際に陰惨な悪意を向けられた女性の話を聞いてしまえば、それ以上の言葉が出てこない。
劉景の母は、優しい人だったという。そして、優しい人だったのだと、この宮の花々が伝えてくれる。
そのような人が、他者に不幸を望むはずがない。
細やかな愛情を受けなければ続いていけない儚い花が……月の光を受けて輝く月光花が、吹き抜けた風に花弁を揺らすのが遠目に見える。
唇を噛みしめて俯いてしまった翠媛の隣で、劉景は静かに語り続けていた。
「それでも、二人は俺を信じてくれていた。いつか、必ずこの国を守る者となると。そして、将来を託してくれた」
劉景の母は、けして栄達を望んでいなかった。けれども、皇帝の唯一の男児である以上、いずれ息子が皇太子となり、皇帝となる未来は動かせない。
早くに無くなった母も。愛する者を失くした哀しみに耐え皇帝であり続けた父も。
劉景を揺るぎなく愛し、信じてくれていた。彼が、いつかこの国を支え、守るに足る者となることを。
「だから俺は、父と母に誓った。強き皇帝であると」
父が亡くなり、長じた劉景は皇帝として即位した。
その際に彼は父母の墓前に誓ったという。けして揺るがず、平らかに国を守れる者であると……。
「俺には、お前が思っている以上に敵が多い。相手が同じ人間であるならば、隙に付け入ろうとする者達は、悲しいことに可能性をあげれば両手の指では足りん」
瑞は辺境故に、外敵に脅かされるまで不穏とは無縁だった。故に、大国の支配者である彼の置かれている立場を理解しきれているかと言われれば自信がない。
強国の頂点たる地位に恩恵を求めて群がる者達は山といるという。
それらを自由にさせていては、国が平らかではありえない。国は揺れ、乱れて。いずれは沈むこととて有り得る。
付け入る隙を与えてはならない。守るものである為には、付け入られる隙のある人間であってはならない。
だから、彼は人ではなく、恐れの対象となった。
人らしさを封じ、優しさを封じて。冷酷にして非情な、心無き鬼となることを自らに課した。強きもの、守るものである為に、自らに人であることを禁じた……。
「俺が人であると知れれば、勇んで動き出す者達は数多いる。政治に介入しようとしているのは皇太后だけではない。皇族に、高官たち。国の外にだって敵はある。」
国が平らかであるのは、彼の存在が大きいことを翠媛も知っている。彼が『鬼神』と畏怖されているからこそ、国内の敵も、国外の敵も迂闊に手が出せずにいると。
彼が畏怖すべき相手ではないと知れれば、己が権勢を振おうと狙い始める者達が数多ある。それらの介入を防ぐためには、自身を畏怖の対象にするしかないと皇帝はいう。
だからこそ、人間らしさにつながるものを……彼が持つ優しさを、温かさを全て覆い隠して封じているのだと。
全ては、人ではなく鬼である為に。
全ては誓いを守り、国を守る為に――。
「叶うならば、戦の庭ではなく花の庭に居たい。剣よりも、花や小動物に触れていたい。だが、それでは何も守れない。……誓いを果たせない」
翠媛は胸の奥からこみ上げてくるものが溢れだしそうになるのを、必死で抑えていた。
けれどそれももう限界で。歯を食いしばって耐えているけれど、目頭が熱くて仕方ない。
だって、この人はとても優しいのに。
あれ程に繊細な微笑を浮かべながら花に触れるのに。小さな生き物を慈しむのに。あんなに優しい音色を紡ぐことができるのに。
それらは、彼にとって許されないもの。彼にとって、本当の姿は『禁じなければならない』ものでしかないのだと、この人は言うのだ。
横顔に微かな痛みを滲ませながらも、それに気づかぬようにしながら。
「……俺は『鬼神』だ。この国を揺るぎなく守ることができるなら、それで構わない」
劉景は、今一度己の覚悟を確かめるように。自分に言い聞かせるように、厳かなまでの声音で告げた。
そして、僅かな沈黙の後に、翠媛に問いかける。
「何故、泣いている」
「かなしいからです」
劉景が語るのを静かに聞いていた翠媛の翡翠の瞳からは、何時しか透明な雫が溢れ、零れていた。
唇を噛みしめて俯いていた翠媛の白い頬を、一つ、また一つを涙が伝い、座した翠媛の襦裙に落ちて深い色の染みとなる。
「貴方が、泣かないからです」
「そうか……」
それ以上は言えなかった。
誰よりも優しいであろうこの人が。守る為に冷徹な鬼であることを自らに課している人が、鬼と畏怖されることに本当は深く傷ついているのが分かってしまったから。
強い決意に対して、かける言葉がないことが。自ら傷つき続ける彼に対して何もできないことが、哀しいから。彼が泣けないことが、かなしいから……。
翠媛は、ただ静かに涙を零していた。
そんな翠媛を、劉景はただ静かに見守っていた……。
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