母と子

 その日、百花の宮に来るなり、皇帝は翠媛に簡潔に告げた。


「武術大会が開催されることになった」


 その言葉を聞いた瞬間、翠媛は目を見張ったまま動きを止めた。 

 まさか、と呟いた声は、音になっていない。

 唇をわななかせつつ、言葉が出ないといった様子で凝視してくる翠媛へと疑問を含んだ眼差しを向けたまま劉景は続ける。


「無論、俺も観戦する。望むのであれば、侍女に命じて席を用意させるがいい」

「御前試合……! ああ、ありがとうございます!」


 感激のあまり涙しそうになるけれど、必死に堪えながら。翠媛は両手の前で祈るように手を組みながら劉景を見上げた。

 待ちに待った機会がようやくやってきた、と今までの苦節を振り返る。いや、苦節と呼べるほど時間はたっていないが。

 それでも、視線の集中砲火にさらされ続け、耐え忍びながら待ち続けた機会がようやくやってきたのだと思えば喜びが溢れだすのを止められない。

 全身全霊を以て感謝と感激を表す翠媛を見て、劉景は思い切り怪訝そうな表情になる。


「そんなに嬉しいか……?」

「高みを目指す武の達人たちが、己の持つ技量を尽くして戦う至高の場! 武術を修める者として、心躍らぬわけがありません!」


 普通の妃嬪……淑やかに嫋やかに振舞い、皇帝の寵を得ることをこそ至高のことと思う女性達からは、間違っても出てこない発言である。

 心の底から、皇帝への感謝の想いが湧き上がってくる。

 軽やかに披帛を揺らしながら歓喜に小躍りしてしまっている翠媛は、まるで恋に焦がれる乙女のような恍惚とした表情で続ける。


「私にとっては大変なご褒美です! 陛下の御出座がなければ妃嬪は観戦できないのです。御出座ありがとうございます!」

「……こういう礼の言われ方をしたのは初めてだ」


 翠の瞳に星すら宿っているような錯覚を覚える程の勢いで礼を叫ばれ、皇帝は一瞬黙り込んだ後、何ともいえない表情で呟いた。

 皇帝が観戦しないのであれば、それは御前試合ではない。即ち、妃嬪達は観戦の機会にあずかれない。

 彼がいるからこそ、翠媛もまた試合を観戦させて頂けるというのなら。心からの感謝を表すのは当然のことである。

 他の妃嬪達も御前試合の観戦を望むが、彼女達の目的は、あくまで皇帝の目に留まること。試合はついででしかないし、真面目に観るものとてない。

 しかし、翠媛に至っては完全に逆である。試合が目的であり、皇帝はもはやついで。皇帝の臨席がなくても試合を観られるのであれば、皇帝は要らぬとでもいいかねない。

 そう呻くようにぼやいた劉景に、翠媛は思わず視線を知らしてしまう。だって、言わないとは言い切れない自覚がある。


「……よくその性分を今まで隠して『天女』を続けてこられたな」

「猫かぶりは得意です」


 しみじみと言った劉景に、気まずそうに誤魔かし笑いをしながら翠媛は答えた。

 もはや、後宮入りを望まれた瑞の天女が作りものであったことは、今更どう取り繕いようもないほどに露見してしまっている。

 だが、それを言うならばお互い様なのだ。

 この閉ざされた場所で流れる不思議な時間においては、皇帝もまた『鬼神』ではない。

 一人の穏やかな青年であることを隠さないし、己を偽ることもしない。今更だ、と観念した様子である。


「評判を盛りすぎて、陛下を結果として騙すことになってしまったのは申し訳ないと思っておりますが……」

「構わん。俺も人の事は言えた義理ではない。そもそも、瑞の姫を後宮にと望んだのは俺ではない」


 些かはしゃぎすぎたか、と反省しながら。翠媛は、少しばかり身を小さくしながら俯き、劉景を伺う。

 しかし、劉景はゆるゆると首を振ると、大きく嘆息しながら答える。

 返ってきた思わぬ返答に目を瞬いて首を傾げる翠媛を見て、劉景は表情に苦い感情を滲ませる。


「俺に子を持たせることに躍起になっている皇太后の仕業だ。評判の良い姫ならば、今度こそと」


 溜息交じりに彼が説明してくれたことによると。

 皇帝には未だ子がなく、妃嬪を寵愛するどころか後宮に足を向けることすらない。

それを懸念した皇太后は、国内外問わず美女と誉高い女性の噂を聞きつけると後宮入りを求めるらしい。

 今回、庇護と引き換えに翠媛が後宮入りすることになった背景にも、皇太后の意向があったようだ。

 手段を問わずに感じるが、確かに皇太后の考えるところは分かる気がする。

 皇帝が跡継ぎを持たないのであれば、今万が一のことがあれば国が危うくなる。故に一日でも早く子をもうけて欲しいと願うのは、皇統を守ってきた立場からすれば当然だろう。

 だが、翠媛には気になってしかたないことがある。

 先程から、皇太后の名を口にする劉景の声音には隠しきれない負の感情が滲んでいるのを感じるのだ。


「皇太后様は、義理とはいえお母様ですよね? もしかして、その……お仲が良くない、のですか……?」


 聞いてはならないことかもしれない、と思うけれど。何故か皇太后と皇帝との間に何らかの不穏を感じて、それが気になってしかたなくて。翠媛は、勇気を出して問いを口にしてみることにした。

 問われた瞬間、劉景は意表を突かれたという風に目を見開いて。次いで、深い溜息を零しながら、皮肉の形に口元を歪めた。


「母親の仇と仲良く出来る程、俺も器用ではないからな」

「え……?」


 あまりに苦々しい複雑な感情が綯交な言葉に、今度は翠媛が目を見張る番だった。

 どういうことかと続けて口にしたいけれど、呆然と目を瞬いたまま。問いは翠媛の裡で空回りし、出口を失っている。


 劉景は、一つ大きく息を吐くと語り始めた。

 子に恵まれなかった皇太后は、実母を亡くしたばかりであった先帝唯一の男児である劉景を養子とした。

 そこまでなら、特に不審なところはない。皇后が、母を失うなどして不安定な立ち位置となった側室の子を手元にて養育することは侭あることだ。

 だが、劉景が立太子を控えたある日のこと。

劉景に、彼の実母の死にまつわる疑惑について知らせるものがあったのだ。あれはあまりに不自然な状況であったのだと。

 確かに、元々彼の母の死はあまりに突然すぎた。

 母は、死の前日まで元気に庭の手入れをしていたのに、翌日倒れた。そして、学問の師の元から慌てて戻った劉景は、二度と瞳を開かぬ母と対面したのである。

 何があったのかと彼も疑問を抱いてはいたが、聞かされたのはそれに関する彼が知らなかった事実だった。

 母の死を看取ったのは、何故か偶然その場に居合わせた皇太后であったという。

 それまで特に接点らしい接点はなかったはずなのに、何故に皇太后は母の元を訪れていたのか。

 皇太后には子がなく、母には劉景がいた。このままでは、正妻の地位すら奪われるのではないかと危機感を抱かれたのではるまいか、とその者は言っていた。

 だからこそ、唯一の男子である劉景を奪う為に、皇太后は母を――。

 母を看取ったのは貴方かと問いかけた時。触れられたくないことに触れられたというように、皇太后は顔を逸らした。

 そして、それは事実であるとだけ答えた。

 その横顔に隠せない罪の意識を感じ取った時、彼は何があったかを悟ってしまった……。


「即位してからは、何かと政治に介入してこようとしたが拒んだ。すると、今度は後宮に次々と女を送り込んでくるようになった」


 介入を拒もうとする様子に手を焼いたらしい皇太后は、早々に子をもうけるようにと自分の息のかかった女を次々と後宮に入れてくる。

 傀儡とならないとわかっても、今は劉景を廃するわけにはいかない。彼に今何かあれば、皇統は絶えてしまうか、遠い者に移ってしまう。

 だが、彼が跡継ぎをもうければ子に帝位を継がせることができる。孫の後見をするとしてその子を傀儡にすることを狙っているのだろう、と劉景は言う。

 翠媛は、ますます何かかける言葉が見つからなくなっていく。

 育ての母と言える相手との間にある確執を、何でもないことのように語る劉景が痛々しいと思ってしまう。

 言葉の端々に、傷ついた心が滲んでいる気がしてしまうのだ。


「親子といえど義理。為さぬ仲とは、そういうものだろう。俺は特に気にしていない」


 一際大きな嘆息と共に紡がれた言葉を区切りに、二人の間には沈黙が横たわる。

 風が庭を吹き行く中、二人はそれぞれに口を閉ざしたまま。

 黒き獣達が様子を伺うように見上げてきているのを感じながら、やがて翠媛は静かに口を開いた。


「私とお母様は、血が繋がっていないのです」


 隣で驚きに言葉を失った気配を感じる。

 翠媛は一度目を伏せると、ぽつり、ぽつりと語り始めた。

 翠媛は、瑞の王妃である母にとって血のつながった子ではない。

 実の母は父と旅先で出会い恋に落ちた。だが翠媛を身籠った後、王に迷惑をかけることを恐れて姿を消したのだという。

 翠媛の存在が公になったのは、実母が亡くなった後だった。二人を探していた父の部下達が、実母に託されたという幼子の翠媛を連れて城へと帰参したらしい。

 翠媛は瑞王の王女として迎えられ、そのまま王妃の元で育てられることとなった。

 あまりに幼すぎて記憶らしい記憶はないので、全ては伝え聞いた話であるが。


「産んでくれた母のことも、本当の母だと思っています。育ててくれたお母様のことも、そう思っています」


 実の母がなければ、この世界に生まれることはなく。育ての母がなければ、無事に育つこともできなかった。

 だから、翠媛にとって母と思う存在は確かに二人いるのだ。


「お母様の愛情を疑ったことはありません。私にはお母様が二人居る、それでいいと思うのです」


 突然現れた夫と他の女性との間に生まれた子供に、きっと葛藤もあっただろう。

 それでも育ての母は、実子である我が子達と同様に愛して育ててくれた。

 翠媛は、一度として母の愛情を疑ったことは一度もない。そして、母を愛している。

 この話をすることになるとは思わなかったが、特段隠そうとも思っていない。調べようとすればわかる話だ。

 多分、劉景と皇太后の間にある事情と、自分達親子との事情は違うものだし、ある感情も違うものだと思う。

 けれど、何故か思ってしまったのだ。劉景は皇太后を母と思う事に、何らかの負い目のようなものを感じている気がすると。

 ほんの僅かな間。錯覚とも思う刹那のことではあったけれども。


「そうか……」


 長い、長い沈黙の後。劉景は、ただそれだけを口にした。

 先程見えた苦笑は、垣間見た横顔から消えていた。

 穏やかで、どこか不思議な微笑みが、彼の口元には浮かんでいる。

きっと彼は気付いていないだろうと思う。でも、今はそれでいいのだと翠媛は思う。

 二人は風にゆれる花を見つめながら、どちらも口を開くことはなく。確かに互いの存在を隣に感じながら、静かに緩やかな時間に揺蕩っていた……。

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