不思議な逢瀬

 かつて百花の宮と呼ばれた場所にて皇帝と邂逅して一月ほど経った。

 人の寝静まった刻限になると、翠媛は夜闇の中を奥まった場所にある百花の宮へ向かう。

 喜娘は、翠媛がさも寝床にいるように振舞い。主の不在を悟られないように努めてくれている。

 あの邂逅から数日後、彼の言葉通りに宮を固く閉ざしていた錠前の鍵が複製され、翠媛の元に届けられた。

 翠媛から事情を聞かされた喜娘は、微笑みを浮かべたまま凍り付いていた。

 無論、皇帝が垣間見せた姿について伏せはした。ただ、あの場所に入ることを許されたとだけ伝えた。

 開いた口が塞がらないといった様子ではあったが、流石に長らく翠媛の一番側近くで仕えていた女性である。

 すぐに落ち着きを取り戻し、深くを問わず。翠媛が居室を抜け出しやすいように取り計らってくれるようになった。

 恐らく『誰と』出会ったのか喜娘なら察しただろう。けれど、けしてその名を出さない。

 自身が絶対の信頼を置く侍女の有難みを感じながら、翠媛は人目を忍んで足早に百花の宮へと向かうのだ。

 月光に照らされた人の済まない宮は、どこか寂しく儚げな風情を帯びる中。

 花々が咲き誇る庭に、空気を切り裂く鋭い音が幾重にも響き渡る。

 翠媛は片隅の開けた場所にて、思う存分剣の稽古に打ち込んでいた。

 後宮入りの支度の中にこっそり忍ばせていた愛剣を久方ぶりに振った時は、やはり少しの衰えを感じ焦りもした。

 だが、百花の宮に通う日数が一日、一日と増えていくたびに、元通りの勘を取り戻していくのを感じる。


「見事なものだ」

「兄上たちに教わったことに忠実であるだけです」


 ぴたり、と翠媛が動きを止めると、耳に届いたのは低い声音で呟かれた賛辞だった。

 視線をそちらに向けると、腕を組んで翠媛を観察していた劉景が感心したようにこちらを見ている。

 傍らに控える獣達も、主の言葉に同意するように小さく吼えて見せる。

 翠媛は少しだけ面映ゆくて、やや俯いてしまう。

 称賛の言の葉は素直に嬉しいが、翠媛としてはただ教わったことを忠実にこなしているだけなのだ。 


「そうだろうな。きちんと正しく教えられたのが分かる剣筋だ。だが、それだけではない。お前には、天賦の才があるようだ」

「……ほめ過ぎです」


 更なる称賛に、翠媛は少しだけ頬を染めて身を小さくする。

 剣の腕を褒められるのは確かに嬉しいが、自身も名高き武勇を誇る相手にそうまで言われるのは流石に照れる。

 それが、何の含みも裏もないのだと察すれば、尚のこと。

 剣の腕を磨くのは好きだ。まだ見ぬ武術や武器に出会うのは心が踊る。先だって皇帝に訴えたように、翠媛にとって生き甲斐と言っても過言ではない。

 けれど、それに対して今までこうまで正面から、素直な賛辞を送られたことはなかった。

 だからこそ、どう返して良いかわからない。

 何かが灯るように胸の奥が熱くなるのが、何故かわからない。

 裡なる戸惑いに次なる言葉が続かない翠媛へと、劉景は僅かに目を細めながら続ける。


「お前は、まるで天女が舞うように剣を振うのだな」

「剣を振う天女がおりましょうか」


 劉景の言葉に困った風に笑いながら、翠媛は心の中で少しばかり時を遡り、振り返る。

 言葉にごく自然に言葉が返る、今を不思議とも、温かいとも思いながら。

 最初は、こうではなかった。

 鍵を授かり、この場所を許されたけれど。同じ場所に二人で居ても、言葉を交わすこともなかった。

 お互いに離れた場所で。鍛錬をする存在を、花の手入れをする相手を、視界の端に捉えているだけだった。ただ、同じ場所に存在しているだけだった。

 切っ掛けを作ったのは、翠媛だった。

 ある夜、月光花を丹念に手入れしていた皇帝が手を休めたのを見て、声をかけたのだ。

 手に、手巾に包んだ点心を差し出しながら。


『蓮の実餡の月餅です。私の侍女が、茶の供に出たのを取っておいてくれたようです』


 驚愕で僅かに目を見張りながら、真意を問うように凝視してくる皇帝へとよく見えるように手にした菓子を示しながら。

 翠媛は、首を緩く傾げつつ、更に言葉を続けた。


『身体を動かすとお腹が空くので。陛下も、庭仕事は体力を使うのではありませんか?』


 これは、喜娘が鍛錬の後の栄養補給にと持たせてくれたものだった。

 ありがたく頂こうと思った時に、視界の端に劉景の姿が過ぎった。

 包まれた月餅の数は二つ。この場には、人影が二つ。

 それを意識してしまえば、少しばかり自分だけが甘味を喫するのに気が引けてしまった。

 故に拒否されるのを想定しながらも、真っ向から問いかけてみたのだ。

 皇帝は純粋に驚いているようだった。

 自分に臆することなく話しかけてきた上に、媚びる様子もなく、へりくだる様子もなく。

 更には、飾り気のない仕草で菓子を差し出してきた人間など居なかった、と彼は後に語っていた。

 実を言うと、翠媛は内心では少し緊張していた。

 それを表に出さないように精一杯の気力を奮っていた翠媛を、暫く無言で見据えていた劉景だったが。


『……今更、警戒は無意味だな』


 大仰に肩を竦めると、翠媛の手にある月餅を手に取り、息を吐いた。

 これだけ相手に知られてはならないものをお互い知られている状態で、謀も何も無い。

 翠媛に毒殺の意図などないと察したのか、劉景は特に躊躇いなく菓子を口に運ぶ。

 菓子を口にした直後、ほんの一瞬だけ彼の表情が和らいだのを、翠媛は見逃さなかった。

 成程、甘い物は嫌いではないのだな、と気付くと少しだけ楽しくなる。

 嬉しそうに微笑みながら、自身も手にした菓子を口に運ぶ。

 皇帝も、妃嬪も、気づいていた。このある種の閉じた世界ともいえる場所にて、外での姿を作ることは無意味であるのだと。


 それが、甘やかさも何もないけれど。不思議な逢瀬とも言える時間の始まりだった。

 日が重なるごとに、二人は自然に言葉を交わすようになっていた。

 ほんのささやかなやり取りですれ違うこともあった。

 それが次には、明日は何時ごろここに、と問いかけ、確かめるようになった。

 翠媛が持参した菓子を差し出すと、最初こそ都度僅かな驚きを滲ませていたが。

 次第に、口元に僅かな笑みを浮かべながら。礼を口にしつつ受け取るようになっていた。

 同じ場所に在りながらも、言葉を交わすことさえなかった二人は。何時しか、会話の際、一番美しく眺められる場所に隣り合って腰を下ろすようになっていた。

 今日もまた、二人は隣り合って座りながら、喜娘が持たせてくれた菓子を食していた。

 卵と牛の乳、砂糖などを使って作った餡を、さくさくとした生地に入れた蛋撻だんたは、翠媛の好物だった。

 それを二人と二頭は、穏やかな空気の中で食している。

 そう、二頭「も」である。

 少し前に、この子達にもあげてよいか、と黒い獣達を示して問いかけたことがある。

 その主からは、構わないが……というやや呆然とした呟きのような答えと共に、困惑した問いが返ってきた。


『……恐ろしくはないのか? 異能の獣が』

『この子達が噂の通りに獰猛であるというなら。こんなにも、穏やかで理知的な瞳はしていないと思います』


 はっきりと言い切る翠媛に対して、一瞬言葉に困った様子だった劉景は、左右の獣達に菓子を許す。

 言葉を待っていた、といった様子だった二頭の獣は、まるで子犬のように喜んで菓子を食べると、翠媛に礼だとばかりに身を摺り寄せてくる。

 それがあまりに可愛らしくて、翠媛はそっと二頭を撫でた。

 纏う炎のような靄の熱さは感じない。恐ろしいとも思わない。ただ、素晴らしく滑らかで艶やかな手触りの毛並みだと思った。

 獣達が翠媛に心を許したのを察したのか、徐々に彼女が居る時には影を潜めていた小動物達も姿を見せるようになる。

 気が付けば、月の光のもとの夜の庭は少しずつ賑やかと言えるようになっていた。

 あれだけ翠媛を追いかけ回していた数多の眼差しも日を追うごとに減っていた。

 故に、翠媛は少し睡眠時間が削れて昼日中に眠たそうにしていても、少しずつ気にする者も居なくなっている。

 だが、唯一人の存在。万乗の尊きである皇帝はそうではあるまい、と思う。

 劉景もまた、眠る時間を削っていた。夜に臥所を抜け出してここに通っているらしい。

 時間が許せば日のある時間に訪れることも叶うが、大抵の場合は理由を近侍に説明することも厭わしい。

 睨めつめながら眠りに入るからと人払いを命じて、その足で百花の宮へ来るのだという。

 ただの妃嬪の一人である翠媛と違い、皇帝である劉景が抜け出してよく露見しないものだと目を丸くしていると。


『……鬼神の怒りを買う危険を冒してまで、我が目で確かめようとする者などいない』


 二つ名も時として役に立つ、そう独白めいた呟きを口にする劉景の横顔は皮肉の形に口元は笑っていたが、どこか寂しげに見えた。

 翠媛は、彼に何か言葉をかけたいと思うのに、何も言えないことが口惜しいと思う。

 違うのにと言いたいけれど、それを言える程に距離が近づいた訳ではないことを知っている。

 けれど、この不思議な場所で。夜空のもと、同じ場所で暫しの時を過ごすようになってから、分かったことがある。

 彼は鬼ではなく、確かに人であるのだということ。

 辺境の瑞まで畏怖を持って囁かれる程の二つ名と威容。冷徹に翠媛を拒絶した皇帝の顔。

 彼は凍てつく氷を思わせる冷たい顔で人を拒み、寄せ付けぬまま。

一方で、春の日差しを思わせる表情で。その手で繊細に花を育て、小さき者達を慈しむ。

 翠媛の差し出した菓子を、迷うことも疑うこともなく受け取りながら、柔らかな表情で言葉を返してくれる。

 会話を重ねながらさりげなく翠媛を気遣ってくれる、優しく繊細なまでの青年。

 これこそが、本当の辿 劉景という人なのだと、翠媛は少しずつ気づき始めていた。

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