対価たる願い

 翠媛は、皇帝を見つめたまま思わずきょとんとしてしまう。

 この場所を与えられていたのは、側室のお一人であると聞いた。

 確か、この皇帝陛下は先の皇帝の皇后陛下の……今は皇太后と呼ばれる方の御子であったとも聞いている。

 翠媛の表情に浮かんだ疑問を読み取った劉景が、苦い表情を浮かべながら口を開く。


「……母が亡くなった後、皇太后の養子となった」


 成程、と心に呟く翠媛。

 この男性に関する噂は辺境の瑞まで届いていたが、その詳しい来歴までは知らなかった。

 頷く翠媛をしばし無言で見つめていたが、やがて観念したように肩を竦めた後、劉景は語り始めた。

 見られてはならないものを見られた、という諦念故か。それとも、この日常とは切り離された場所故か。


「俺の母は、元は父の側室の一人だった。確かな後見がなかった為に位は高くなかったが、父の目に留まり。そして、俺を産んだ」


 彼の母は、異国の人間であるらしい。

 流れるようにして辿り着いたこの国で後宮にあがることになり、妃嬪の一人になった。

 後ろ盾のない側室というのは立場が脆い。彼女は多くを望まず、穏やかに生きることを願っていたらしい。

 けれど、運命というのは悪戯なもので、母は先帝の目に留まる。

 宮を一つ誂えて与えられる程の寵愛を受け、彼女は先帝唯一の男児となる劉景を産んだ。

 彼の母は、庭の花々の手入れをすることを下々のすることと笑われようと、自らの手で大切に世話をして慈しんでいた。

 その愛情に応えるように四季折々にふれて様々な花が絶えることなく咲き乱れ。この宮は『百花の宮』とも呼ばれていたという。

 花が咲く庭で、彼は母と共に父を出迎えていた。


「覚えている限りでは、父と母は仲睦まじかった。だが……」


 そこで、劉景の声に翳りが生じる。

 美しい百花の宮にて、彼の父と母は確かに愛を育み。劉景は、そんな父母を見て育った。

 父に慈しまれ、母に愛され、幸せであったのだろう。声に滲む戻らぬ過去を想う心に、それが感じられた。


「突然、母が亡くなった」


 しかし、ある時母は突然亡き人となってしまった。

 先帝は子に恵まれず、生まれた子は皆女であり、しかも多くが夭折してしまっていた。

 無事に育っていた子であり唯一の男子であった劉景は、皇太后に引き取られる。そして、皇太后の嫡子として皇太子となり。やがて、皇帝として即位した。


「父は、母が亡くなったのが随分堪えたらしい。この宮を閉じて、そのままだ」


 母が亡くなり彼が皇太后の養子となってから。この宮は次に誰かに与えられることもなく封鎖され、立ち入りを許されなくなる。

 彼が再びここに足を踏み入れることが叶ったのは即位後だったが、その時には庭は荒れ果ててしまっていた。

 少しでも往時の姿を取り戻したいと、劉景は出来る限り時間を作っては密かにここに通い手入れをしている。

 けれど、合間を見て一人で出来る世話だけでは限度がある。

 時間をかけて確かに庭に少しずつ彩は戻りつつあるが、かつての輝きを取り戻すことは叶っていないという。


「無くなってしまった過去を取り戻したいとは、我ながら女々しいとは思うがな……」


 自分の内の何かを恥じるように皇帝が呟き、口を閉ざす。

 そこで、言葉は途切れ。二人の間には再び沈黙が満ちる。

 語り終えた皇帝は、口元に皮肉を込めた笑みを浮かべて翠媛を見据える。


「嬉しいか? 『鬼神』の正体を暴くことが出来て」

「いえ、そのようなことは、けして……」


 問われて、翠媛は言葉を濁しながら、困惑して俯いてしまう。

 嬉しいかと問われても、どう応えてよいかわからない。この場所が何であるのかを知りたかったが、彼の秘密を暴きたいと願っていたわけではない。

 大それたことを知ってしまったという畏れは確かにある。

 けれど、今はそれ以上に。『鬼神』と恐れられる青年の横顔に垣間見える、何処か傷ついたような様子が気になって仕方ないのだ。

 過去を語る様子と、自らを畏れの呼び名で呼ぶ声音に。深い痛みと哀しみが滲んでいるように思う。

 黙したままの翠媛を、恐れ故と判断したのかもしれない。

 劉景は大きく嘆息すると、再び口を開く。


「生憎、今は剣を持っていないから切って捨てることはできない。秘密の対価として何を望む」 


 怜悧な声音は変わらないし、こちらを見据える眼差しは鋭く、口元には皮肉な笑み。

 けれど……と、翠媛は心の中で呟く。

 まるで、剣を持っていないことを……翠媛を斬らずに済んだことに安堵しているような様子を感じる。

 傍らの黒獣達もまた、小さく唸り声をあげているが主を見る眼差しには気遣いがあるように思う。

 彼は、ここで翠媛が見たことが明るみになるのを恐れている。

 しかし、それと同じぐらい。翠媛を害することをも恐れているように感じたのだ。

 思わぬ遭遇に心揺れている故の、一時の気の迷いのようなものかもしれないけれど……。

 でも、と翠媛は思う。

 恐らくここで『何もいらない』というほうが、彼の疑念と不安を誘うだろう。

 彼にとって翠媛が見てしまった秘密は何にも代えて守るべきものであり、それを対価もなしに守ると告げたとしても彼の心は落ち着くまい。

 なら、何を望めばいい?

 翠媛が今、望むものがあるとするならば、それは何だ。

 思案しつつ口をつぐむ翠媛を見て、劉景は首を僅かに傾げつつ問いかける。


「地位か、寵愛か? はたまた、分かりやすく富か?」

「いえ、そういうものは結構です。特に必要としておりませんので」


 後宮の妃嬪達が喉から手が出る程欲しがるものを羅列されるが、必死に裡なる答えを模索する翠媛は手を左右に振りながら、きっぱりと拒否を口にしていた。

 は? と思わず呟いてこちらを凝視する眼差しを感じながら、翠媛は更に考えこむ。

 翠媛が今一番のぞむもの。一番、望むこと。

 それを突き詰め考えた結果、導き出された答えは唯一つ。

 皇帝の許しが頂けるというのであれば、やりたいことは唯一つ。

 翠媛は呆然と自分を見る皇帝を真っ直ぐに見据えて、確りとした声音で望みを口にした。


「武術の稽古をしていい場所が欲しいです」

「武……?」


 翠媛が望むことがあるとするならば、それは無論のこと後宮での栄達ではないし、豪奢な暮らしでもない。正直、それらに魅力を見出せない。

 波風立てずに、後宮の片隅で穏やかに。出来れば好きなことを密やかに楽しみ、日々を暮らすこと。

 まあ、既に波風に関しては大波乱と言えなくもないが、ここでの出来事は秘密とされるなら、まだ何とか。

 息を付ける場所を探した先で見つけた、人の目を気にせずに居られるかもしれない場所。

 ここでなら、もしかしたら翠媛の願い――人に知られず武術の鍛錬をしたい、というのが叶うかもしれない。

 聞いた言葉が信じられない、聞き間違いか? と言った様子で言葉のさなかで絶句してしまった劉景に、翠媛は頭を垂れながら更に願いの言葉を続ける。


「建物やお花を傷つけたりしないと約束するので、こちらの片隅でも良いので、場所を貸して下さいませ!」


 御前試合の観戦については、ほとぼりが覚めた頃に『皇帝陛下がご覧になるので』と理由をつければ何とかなるだろう。

 今のままでは人目につかずに鍛錬できる場所がない。

 だが、ここならば……と。あまり期待しすぎてはいけないと思っても、もしかしてと思ってしまう。

 相手の弱みともいえる部分に付け入る卑怯なことと言えるかもしれない。そう思って気が引けるというのが、無いとは言えない。

 望まれた『天女』が抱くには相応しくない希望である自覚もある。

 しかし、望みをと問われたならば。それに対して素直な答えを返すなら、これしかないのである。

 劉景は僅かに訝しげにこちらを見ている。

 何故武術をと言いたげな表情に、僅かな懸念を感じ取った翠媛は緩く首を左右に降った。


「武器を手にしたとて陛下を害したり、他の妃嬪に何かするつもりはありません! そんなことに興味はございませ……いえ、そのような大それたことを考えたり致しません!」

「そんなこと……」


 思わず言いかけた言葉を慌てて飲み込んで訂正したものの、皇帝の耳にはしっかり届いていたようだ。

 何か言おうとしかけたまま更に絶句した相手へ、小さく咳払いをして気を取り直し。何故に自分がこの願いを口にするのかを、出来得る限りの強さで伝えようとする。


「私は、長く武術を修めて参りました。好むものであり、生き甲斐とも言えます。故に、このまま鍛錬を出来ずに身体が錆びついていくのが耐えられないだけなのです!」


 紡ぐ言葉が見つからない様子の劉景を真っ直ぐに見つめながら、翠媛は半ば叫んだ。


「それ以外の望みはありません!」


 翡翠の眼差しに燃える焔を宿しながら、けして目を逸らすことなく必死に切々と訴える小柄な女性と、それに圧倒されて言葉を失ったまま引き気味の長身の男性。

 構図としては不思議なものであるだろうが、今の翠媛にそれを気にしている余裕はない。

 相手が真に『鬼神』と恐れられる男性であるとしても構わない。

 唯一見えた希望ともいえる機会を無駄にしたくない。

 もはや劉景は、唖然としたまま次なる言葉が出ない、という様子だった。

 二頭の黒獣達も、何となく戸惑った風な様子で主を見上げている。


「……お前は、本当に瑞の『天女』か」

「……皆が私に望む姿は」


 呻くようにして黒を纏う皇帝が絞りだしたのは、掠れた声音の問いだった。

 その言葉を耳にして、答える翠媛の表情が翳りを帯びる。

 天女、と言われる度に胸を過ぎる切なさと寂しさ、苦い思い。

 自分の望みと、皆の望み。自分の姿と、皆が望む翠媛の姿。求められるもの。その為に必要なこと。

 様々な感情が綯交ぜとなり、翠媛は我知らずのうちに複雑な笑みを浮かべていた。

 暫くの間、裡まで見透かそうとするように。皇帝は静かに自らの妃嬪を見つめていた。

 鋭いけれど、奥底に憐憫にも似た形容しがたい何かが滲む視線を、翠媛は怯むことなく、目を逸らすことなく受け止め続けた。

 翠の眼差しと、黒の眼差しが交錯し続けて、やがて。


「……わかった。対価としてこの宮に足を踏み入れるのを許そう。望み通りにするが良い」

「ありがとうございます!」


 一つ大きく息を吐いて、劉景は静かに告げた。

 望みを叶える代わりに求められているのが何であるか。それ以上彼は語らないが、翠媛は改めて問い直すことはない。

 ただ、微笑み。改めて跪き礼を取りながら、感謝の言葉を口にするだけに留めた。

 気塞ぎだった後宮での生活に一筋の光がさしたことが素直に嬉しいと思う。

 けれど、それ以外にも不思議な喜びがあることにも気付く。

 先程見た小さき者達に慕われる姿を思い出しながら思うのだ。また、あの姿を見られるだろうか、と。

 翠媛の内なる心に気付くことなく、劉景は続ける。


「ここに入る鍵を複製させて届けよう。しばし待っていろ」


 懐から重たげな金属製の鍵を取りだし翠媛に見えるように示しながら言うのを聞いて、翠媛は笑顔を浮かべて首を左右に振った。


「いえ、大丈夫です。地面がしっかりしていて、あの枝があれば何とでも入れます」

「……本当にそうやって入って来たのか」

「はい」


 朗らかなまでに言い切る翠媛に、またも絶句しかけた劉景だったが、かろうじて呻きにも似た言葉を口にする。

 躊躇いも何もなく頷いて見せると、翠媛を凝視する。

 この色々な意味で規格外な王女なら、本当にやりかねない。皇帝の眼差しは言葉に依らずともそう告げていた。


「鍵は届けさせる。だから、次は普通に入ってこい」

「……御意」


 ややあって、非常に深い溜息と共に皇帝の口から零れたのは命令ともとれる言葉だった。

 皇帝としての厳格な命令ではないものの、翠媛は瞳を伏せて頷き、粛々として返答する。

 怪我でもしたらどうする、と呆れたように呟く彼の裡には、消せない戸惑いがあるのを感じる。

 そして、自分の裡にも戸惑いがあるのを感じる。

 封じられた宮にて見つけた花園と、鬼神の思わぬ一面。

 衝撃に、困惑は消せない。望まれていた『天女』を作ることを一時とはいえ忘れてしまう程、心はまだ揺れている。

秘密を暴いたことを、嬉しいとはけして思わない。

 ただ、鬼神と呼ばれる冷徹な姿よりも、よほど『らしい』と思う姿を見られたことが、仄かに嬉しいと感じるのだ。

 それが何故かは、自分でもよく分からないけれど……。

 けれど、確かに自分は喜んでいる。

 願いが叶えられたこと。知ることができたこと。

 そして『次』があることが、翠媛は不思議なほど嬉しいと思うのだった……。

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