仮初の始まり
「陛下!?」
悲鳴のような声音で叫んだ翠媛の他は、誰も声すらあげられなかった。
皇帝の言葉に、その場が一瞬水打ったように静かになる。
重々しい沈黙が満ちたかと思えば。次いで、徐々に、徐々に、囁き交わす人々の声にて、場がざわめき始める。
皇帝陛下は、今何と仰ったのか、と声を潜めて言う者がいる。
莉修儀と会っていたのは男性とは……修儀の『密会』相手とは、まさか、と掠れる声で呻く者がいる。
耳に聞こえるそれらに煩わしいと言った様子で眉を寄せながら、怜悧な表情を崩すことなく皇帝は更に告げた。
「妃嬪が、皇帝と会っていた。それの、どこが不義密通なのだ?」
淑妃も徳妃も、先程まであれ程激していた賢妃も。他の妃嬪達も。それを遠巻きに眺めて事の成り行きを見守っていた宮女達も、返す言葉がない。
翠媛の会っていた相手が、皇帝であるというのなら。詮議することは何もない。
ここは皇帝の為にある後宮。彼は皇帝であり、翠媛は彼のものといえる妃嬪である。
彼の言葉の通り、どこにも不義密通と断ずる事実はない。ただ、あるべきことが、あるべき場所で、あるべき形であっただけ。
しかし、と翠媛は裡に焦りを滲ませる。
それならば、違う『何故』が生まれる。
あの宮は、彼の母が亡くなってから封鎖され、人の立ち入りを許されていなかった。
何故わざわざ、人の往来の無い忘れられた場所にて会う必要があったのか、と人々が問いを抱きつつあるのを肌で感じる。
翠媛と会うのなら、翠媛を何処へなりと召せばいい。それなのに、何故敢えて人の訪れの無い閉じた場所で……。
問いの向かう先は、揺らぐことなく佇む皇帝である。
彼の口が何かを告げようと開くのを見て、翠媛は視線に悲痛な色を滲ませて祈るように劉景を見てしまう。
言わないで欲しい。彼が必死に守り続けた秘密を暴くようなことを、翠媛の立場を守る為に明かさないで欲しい。
祈りながら縋るように向けた眼差しの先で、劉景は淡々とした声音でそれを告げた。
「莉修儀にあの宮を与える前に。見せてやろうと呼び出しただけだ」
騒めきかけていた場が、再び一気に静まり返り。皆が揃って凍り付いたように動きを止める。
皇帝は、今何と。それを問いたくても問えない。声をあげることすら憚られるような空気が場に満ちる。
翠媛もまた、劉景の言葉の意味が理解できずに呆然とした表情のまま言葉を失っていた。
劉景は、あの宮を……彼と彼の母親が暮らした百花の宮を、翠媛に与えると……?
あの場所で二人が会っていたのはその為だったと言っている……?
俄かに信じがたいが、言葉が夢や幻ではなかったのは、居並ぶ者達が皆揃って同じように愕然としている様から分かる。
「あの、長らく閉じていた百花の宮を……。
「ああ、そうだ。すぐに宮を開く手配をする」
一番初めに我に返ったのは、楊徳妃だった。
努めて何時も通りの落ち着いた声音で静かに問いかけようとするけれど、端々に動揺が滲み、声が僅かに震えている。
ああ、あの宮の本来の名前は寛寧宮というのか、と何処か麻痺したようなぼんやりした脳裏に呟く。
劉景はこともなげに問いに頷くと、傍らに控えた侍従に視線を投げかける。
侍従は一度頷くと、足早にその場から去って行った。
もはや、皆が皆。あまりの成り行きに理解も感情も追いついていない様子である。
目障りな新参者の妃嬪の罪を問い、糾弾する為の場だった。
一方的な裁きの場であり、それを眺めているだけだった。
物見高いけれど日々の娯楽に飢える人々にとって、ある種の余興のようなものだったはずだ。
それが、余にも衝撃的な事実が明らかになる場となってしまった。
今まで、後宮に足を踏み入れることすらまともにせず。どの妃嬪に対しても冷淡で、省みることのなかった皇帝が。
辺境の異国から来た新しい妃嬪に、今までになかった反応を示したのである。
誰も、何も言えずに呆然としていた。けれど、感じていた。何かが変わり始めている、と――。
人の手が入らないことにより寂れていた宮は、皇帝の勅命により慌ただしく掃除がなされ、修繕が為された。
整える為に足を踏み入れた者達は、ある事実を知ると揃って驚愕したが、固く口留めされたという。
騒動から少しして、翠媛は正式に百花の宮を与えられ、住まいとすることになる。
皇帝が、自らの母親がかつて与えられていた百花の宮を、後宮入りしてそう日もたたない新しい妃嬪に与えたという報せは衝撃と共に皇宮を駆け巡った。
それだけでも人々を震撼させたが、その後皇帝が今まで省みなかった後宮に足を運び、百花の宮に通うようになったことにより人々は更に驚愕する。
「お母様は、瑞の方でいらしたのですね」
「ああ。あの月光花も、故国から持ち出してきたのを増やしたらしい」
以前とは違い、見違えるように整えられた宮の廊下を二人で歩きながら。翠媛は隣を歩く劉景を見上げながら、控えめに問いかけた。
翠媛が百花の宮を与えられたと知って、多くの人々が数多の噂や憶測を、そこかしこで語り合っていたのだが。
偶然、やはり母君の祖国の人間は特別なのか……と語る声を耳にしたのだ。
劉景は自然な仕草で頷いて見せながら、辿り着いた先……二人がいつも時を過ごした庭。咲き誇る花々の中にて花弁を揺らす月光花を見つめる。
庭に二人が向かう時は人払いを、というのが暗黙の了解として宮に仕えるよう命じられた者達に伝えられたらしい。
それでも、視線はまだ翠媛に向いたまま。
暫くは剣の鍛錬は控えておいたほうが良さそうだ、と心で呟いた翠媛を、劉景が見ていることに気付いた。
その表情は罪悪感とも言える、とても苦い感情を滲ませている。
「……行きがかりとはいえ、暫くは寵愛を与えているように振舞わなければならない。当面の間、ここに通うことになる」
「それは、致し方ないことかと」
思い入れのある宮を与えた以上、劉景にとって翠媛は他とは違う意味合いを持つ妃嬪であると示したのと同じこと。
それならば、当面の間とはいえ、それらしく振舞う必要がある。
恐らく、今暫く……皆の好奇心が落ち着くあたりまでは寵愛している風に扱い、ほとぼりが覚めるのを待つつもりだろう。
客間を借りるぞ、という言葉からして、彼には皆の噂を事実にするつもりはないようだ。
それについては翠媛も同じであるので、不満はない。
多分、妃嬪としては嘆くべきなのだろうが。翠媛にはそれよりも心を占める感情があった――嬉しい、と。
「陛下が、夜に隠れてではなく、堂々とこの宮に訪れる理由になれるというなら。私は嬉しいです」
劉景が、何憚ることなく、人目を忍ぶこともなく。母とも思い出と、彼の慈しみに満ちた庭に足を運べるのであれば。
この場所にあることに罪の意識を感じなくてすむ理由となれるのならば、素直に良かったと思える。口実となれるのならば苦労したとて報われる。
そう口にした翠媛を見ていた劉景の瞳が、やや驚いた風に見開かれて。
一瞬おいて、複雑な声音が翠媛の耳に触れた。
「お前は、変わっているな」
「……よく言われます」
彼の口から紡がれた言葉は、褒め言葉とも言えない言葉ではあったけれど。
それが何故か不思議と温かく耳を擽るように思えて、翠媛ははにかむように微笑んだ。
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