思わぬ再会

 喜娘と別れ、一人、封鎖された宮の中に降り立った翠媛は探索を始めた。

 幸いにして塀の中の扉には鍵はかかっておらず、重く掠れた音と共に宮の内部へと足を踏み入れる。

 陽の光が入る部分が多く視界はそこまで悪くないが、明るいとも言い難く。翠媛は、足元に注意して歩みを進めた。

 進むにつれ、やはりこの宮は後宮の他の建物と趣が違う、と改めて思う。

 建物の細部に至るまで隙がなく精巧であり、威圧感のある他の宮とは違うのだ。

 取り立てて凝った意匠や施されているわけでも、見事な調度の類が置かれているわけではない。

 むしろ、慎ましく控えめな雰囲気があり、何処か穏やかで和やかな、人の心を寛がせてくれるものを感じる。

 もしかしたら、この宮を与えられていたという側室は、そのような人物だったのかもしれない。今は、それを確かめる術はないが。

 様々な要因で息の詰まる今の住居より、寂れたこの場所のほうが余程息がつける。

 そんなことを考えながら進む翠媛は、やがてある違和感のようなものを覚えた。

 無人の宮である故に、確かに掃除が行き届いていないとは思う。確かに積もった埃の匂いを感じるし、人の住んでいない場所独特の気配もある。

 だが、人の手が全く入っていないにしては、そこまで寂れきっていないというか。部分的に妙に人の気配を感じるのだ。

 まるで、せめて目につくところ、通る場所だけは少しでも手を入れようとしている、といったような……。

 所々に感じる不思議な気配を導きとするように廊下を進んでいくと、ふわりと甘い香りを帯びた風を感じて首を傾げる。


 怪訝な顔をしながらも足早に進むと開かれた場所へ出る。

 そこは、中庭だった。


 だが、思わず翠媛は目を見張ったまま立ち尽くしてしまう。

 艶やかな大輪の花に可憐な小花。まるで絵画のような濃淡を描きながら広がる様々な彩。

 人の住まぬ宮の庭に、予想だにしなかった、華やかで美しい光景が広がっていたからだ。

 手入れの行き届かない宮とは裏腹に、整えられた庭園には一面の花があった。

 どの花も愛情と細やかな世話を受けていることが分かる程、美しく。誇らしげに咲き誇り、妍を競っている。

 封じられていた宮で、放置されていたはずの庭である。花々は枯れ、荒れ果てていたとしても不思議はないというのに。

 翠媛の目の前に広がるのは、どう見ても『人の手が入っている』としか思えない見事な花園だった。

 ひらりと翅を揺らしながら蝶が花々の間を舞い、静かな空間には小鳥の囀りが聞こえる。

 夢でも見ているのかと我が目を疑いながら花々の間を歩んでいた翠媛は、更なる驚きに目を見張り、足を止めた。

 何でここに、と信じられずに我知らずのうちに呟く。

 閉じられた宮には有り得ざる光景に、これ以上驚くことはないと思っていたが。

 翠媛が更に目を疑うものが、庭園の一角には存在していた。

 それは、淡い輝きを帯びているようにも見える花だった。

 幾重にも重なる花弁は、触れれば溶けて消えてしまいそうな程に儚く感じる。

 翠媛は、この花が月の光のもとで一番美しく輝くことを知っている。

 もう二度と目にすることはないだろうと、寂しさと共に眺めたのが遠い過去のようにも思うこの花は……。


「月光花……!?」


 恐る恐る歩みより、近くから確かめてみる。

 その色も形も、安らぎを覚える香しい香りも。確かに、月光花と呼ばれる花の……幻の花とも言われる、瑞に咲く花に間違いなかった。

 何故、紹嘉に。それもこのような閉じられた宮の中庭に。と翠媛は半ば呆然としたまま、裡に呟く。

 この瑞でしか見られないと言われる花は、ひどく扱いが難しく繊細なのだ。

 故国にあってもこれをうまく咲かせることができる庭師はそう多くないし、瑞と環境の違う紹嘉の地であるなら難しさは更に増すだろう。

 求める園芸家は多いものの、何とか持ち出したとしても上手く根付かせることは困難であるという。

 それを、これほど見事に。一体、誰が……。

 呆気にとられ言葉を失っていた翠媛だったが、一つ息を吐く。

 この幻とも言われる花が紹嘉の閉じられた宮の庭に咲き誇っているという目の前の光景は現実だ。

 ここまで見事に月光花を咲いているということは。ここには、相当に腕が良いと同時に優しく、細やかな気配りが出来る人間がここに出入りしているということ。

 今の翠媛は、封鎖された場所に不法侵入している状態である。

 閉じられているということで油断していたが。見つかれば、どう入りこんだかも含めて説明に困る事態となるだろう。

 これは、早く戻って喜娘と合流し、離れなければ。

 そう思い身を翻しかけた翠媛だったが、次の瞬間強張った顔で動きを止めた。


 ――誰かが、この庭に近づいてきている。


 緩やかな足取りであるが、固い靴音が聞こえる。そして、それは徐々に大きく、確かなものになっていく。

 間違いなく、誰かがここに現れようとしている。

 迂闊だったと悔やんでも既に遅い。それならば、せめてその人物の目につかないようにしなければ。

 そう思って翠媛は、音が聞こえてくる方角から死角になる方向にある柱の影に身を隠す。

 こうなっては、近づいてくる人間が再び去るまで隠れてやり過ごすしかない。

 見つからないように祈りつつ、翠媛は探るような眼差しを近づく靴音の方角へと向けて。


 そして、目を見開いた。

 ともすれば叫んでしまいそうになったのを、自制心を総動員して抑える。

 何で、どうして。一体どういうこと。

 今日何度目か分からない問いを心の中で何度も繰り返す。

 現れた人物を目にした時、翠媛は我が目を疑った。幻でも見ているのではないか。或いは、自分は実は寝ていて、これは夢ではないかと。

 頬を抓るが痛みを感じたので、夢ではない。現の響きを伴う靴音が、それは幻ではないと告げている。

 だが、鋼の精神とも称される翠媛ですら思わず息を飲んでしまう程有り得ない光景が、震える翠の眼差しの先にあった。

 その人物は中庭に足を踏み入れると、片隅に寄せていた園芸道具を手にして花へと歩み寄る。

 微笑みを浮かべ、一つ一つの花の具合を確かめながら庭園を歩くのは。

 艶やかな黒髪に切れ長な黒曜石の瞳。堂々たる体躯をこの国において唯一人が許される袍に包む美丈夫だった。


 ――そう。あの日、玉座から冷たく翠媛を見下ろし、絶対的な拒絶を口にした皇帝・辿 劉景その人だった。


「遅くなってすまなかったな。……今日は政務が押してしまった、許してくれ」


 嘘ではないかと疑いたく成程に柔らかな声音で彼が話しかけているのは、庭園に咲く花々だ。

 人と接する時は絶対に武器を手放さないという皇帝は、寸鉄帯びることなく、宝物でも扱うような手付きで花々の様子を確かめ安堵の息を吐く。

 その表情には、溢れるような慈しみと情がある。

翠媛に寵愛は期待するなと告げて突き放した時の冷たい雰囲気の片鱗もない。

 おおよそ人の心がないと言われる程に冷酷、自らに逆らうものは容赦なく切り捨てるとされる『鬼神』の姿はどこにもない。

 別人だと言われたほうがまだ納得できるが、翠媛の直感は告げている。

 あれは、間違いなく皇帝陛下本人であると。

 それを裏付けるように、彼の側には二頭の黒い獣が従っている。

 その獣達すら、玉座の間に在った時のような不可思議な畏れを呼び覚ます獰猛な佇まいではなく、大人しく理知的な空気を纏っている。

 皇帝と獣達の側に、いつの間にか姿を現した栗鼠などの小動物や、舞い降りた小鳥たちが寄り添う。

 絶句したまま、息をすることすら忘れそうな翠媛には気づかないまま。

 皇帝と獣達、集った小さきものたちの間には和やかな空気が流れている。


「お前たちも来たのか? 木の実を持って来た。こら、少し待て。出せないだろう」


 皇帝は懐に手をやり小さな袋を取り出しながら、じゃれつく小動物を制しつつ、朗らかな笑顔をそれらに向けた。

 二頭の人の世ならざる獣達は、集った小動物と楽しげに戯れている。

 それを見守る皇帝が温かな声音で言葉をかけると、それを理解した様子で皆は皇帝に身体を寄せる。

 小鳥たちは彼の肩にて羽を休めているし、警戒心の強い小さなものたちは、皇帝に心を許しきった様子で彼の側で憩う。

 遠目にそれを眺めていた翠媛は、目の前の光景を真実と受け入れられない心と、間違いなく真実であると思う心の間で葛藤していた。

 だが、やがてそれにも決着がつく。

 あそこで獣を従え、小さな生き物たちを慈しみ。花に優しく語り掛ける青年は、確かにあの日会った皇帝である。

 血も涙もないと言われ、鬼神の二つ名で国内からも外からも恐れられている存在だ。

 けれど、あれは鬼ではない。どう見ても人間だ。それも、飛び切り人が良くて温和で、優しげな。

 伝え聞いている噂と、あの日目にした彼の姿と。今目にしている繊細とも言える人となりを見せる青年との間にあまりに大きな乖離がある。

 唖然としたまま、翠媛が己を落ち着けようと無意識に大きく息を吸い込み、吐いてしまった時。

 微かな息遣いを感じたらしい黒獣たちが頭をもたげ、警戒するような微かな唸り声をあげた。


「……誰だ!?」


 小動物たちは怯えたように散っていき、瞬時に皇帝の表情に警戒の色が浮かぶ。

 獣達の向く先――柱の陰にいる翠媛の方向へと、かすかな動揺を滲ませる誰何の叫びをあげた。

 翠媛は思わず呻いてしまうけれど、事がここに至ってしまってはもう隠れていることは出来ない。

 沈痛な面持ちのまま柱の陰から進み出ると、無言のまま皇帝の前にて叩頭する。

 この場所に自分以外の人間がいることに驚愕し言葉を失っていた様子だった皇帝は、翠媛の顔を見ると険しい声音で続けて叫ぶ。


「お前は……莉 翠媛!」


 ああ、拒否はしたものの、一応覚えていてはくれたようだ。

 皇帝の口から自分の名が紡がれたことに軽く驚いた翠媛は、心の中でぼんやりとそんな事を呟く。

 理由あって閉じられていたであろう宮に侵入した上に、恐らくけして目にしてはならないものを見てしまったという衝撃に心が麻痺しているのかもしれない。

 これはもう目に留まらず平穏にてひっそりと、どころではない。相当な驚愕を以て、一対一の状況で凝視されている。


「どうやってここに入った……?」


 唸る二頭へと落ち着くよう言葉をかけながら、皇帝は努めて冷静であろうとしているのが分かる声音で問う。

 まずはこちらの言い分を聞こうとしてくれているらしい。

 ただ、鍵にて厳重に封鎖されていた上に高い塀で護られていたはずの場所に、翠媛がどう侵入したのか。

 あまり『天女』ならざる手段を説明するわけにいかず、翠媛はひとまず何とか誤魔化せないかと試みようとした。


「……庭を歩いていたら、大鷲に攫われて。気が付いたらここに」

「つくなら、もう少しましな嘘をつけ」


 だが、口元を抑えつつ恐ろしい目にあった、という風な素振りを見せながら、震える声を作っていってはみたものの。

 殆ど間髪いれずに返ってきた答えに、敢え無く一刀両断される。

 ですよね、と翠媛は思わず裡にため息を吐く。

 咄嗟の誤魔化しとはいえ、我ながらもう少しうまいことをいえないものか。

 信じないにきまっている。だって、こんなおとぎ話みたいな話、私だって信じない。

 皇帝の眼差しは険しく、次に偽りを口にすれば恐らく無事では済まないだろうと感じる。

 仕方ない、と翠媛は心の中で溜息をつくと再び口を開いた。


「十分に助走を付けて地面を蹴って。次いでその勢いを使って壁を伝い上に跳躍し、枝から塀へと移って。そこから飛び降りました」

「……どうあっても真実を語る気はないと?」


 嘘偽りなく素直に、ここに入り込んだ方法について翠媛は説明したのだが。返ってきた答えは非常に冷たいものだった。

 今度は本当なのに、と翠媛は密かに拗ねる。

 若干恨めしい思いで見つめる翠媛の心の裡には気づかぬままに、皇帝は頭を抑えながら苛立たしげに溜息を吐く。

 彼も翠媛をどうするべきか計りかねている様子である。

 仕草の端々に動揺が滲んでいるのは多分気のせいではない。

 翠媛が有り得ぬものを見てしまって心揺れているのと同じく。彼もまた、見られてはならないものが翠媛の目に触れたことに揺れている。


「鍵は俺しか持っていないのに、一体どうやって……」


 皇帝としての一人称すら忘れた様子で、苛立ちと共に髪をかき上げながら劉景は呟く。

 先に述べた説明以上にどう申し開いたものか、と戸惑う翠媛だったが、恐る恐る口を開いた。


「あの、この宮は……」


 後宮の中でも他から離れた場所にある、封鎖された寂れた宮。

 彼の父である先帝の側室に与えられたという、穏やかな雰囲気を持つ場所。

 閉じられていた場所を開く唯一の手段を彼が手にしていたというならば、微かに感じた人の手の痕跡も。そして、有り得ざる花が咲き誇る庭園も、恐らく彼の手によるものだ。

 けれど、それならば。皇帝とこの不思議な宮の関係は一体と抱いた問いを口にする翠媛。

 皇帝は暫く翠媛を険しい眼差しで見据えながら沈黙していた。

 暫しの間どちらも口を開かず、開くことができず。その場には痛いほどに重苦しい空気が流れる。

 ややあって、それを破り再び言葉を発したのは、表情に複雑な色を滲ませた皇帝だった


「……ここは、俺と母が暮らしていた場所だ」

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