寂れた宮
希望を抱きながら奮闘する決意を固めた翠媛だったが、彼女の予想と期待を裏切って、その後も妃嬪達の品定めは続いた。
翠媛に注目しているのは、妃嬪達ばかりではない。
後宮に務める宮女たちも、揃って翠媛に様々眼差しを向けてくる。
純粋に異国に興味がある者も多いようだが、中には仕える主に言われて翠媛の動向を探る者もいるようだった。
だが、抜きんでること……皇帝の寵愛を受ける可能性はないのだから、そろそろ飽きてくれないだろうか、と密かに溜息を吐く日々である。
後宮とはそんなに暇なのだろうか、と裡に問うてみたけれど。確かに、皇帝の訪れが全くないのであれば。
その皇帝の子を為す為にある後宮の意味は無いに等しいし、妃嬪達も役目を果たせず、することがない。
そのような状況では、新参者である異国の姫を観察するぐらいしか目新しい楽しみがないのかもしれない。追いかけ回される方はいい迷惑だが。
実は、人目が自分に向かなくなれば好きに出来る時間や場所も生じるだろう、と思っていた。そうすれば、密かに鍛錬を再開することも可能ではないかと。
だが、それは甘かったと思い知る。
今は人の目につかない状況を探すほうが難しい。精々が自分の部屋ぐらいだが、それだって喜娘に見張りをしてもらわないと安心できない。
このような何処に人の目があるのかわからない状況のままでは、間違ってもこっそり鍛錬などできない。出来るような場所もなければ時間も、隙もない。
御前試合に興味津々、などという様子も見せられない。何故そのような、と疑いを持たれるわけにはいかないのだ。
噂を聞きつけ後宮入りを望まれた、瑞の『天女』の心象を崩さない為には。
いくら鋼の精神と言われるほどであっても、持久戦となると消耗が激しい。
流石の翠媛も、そろそろ息苦しさを感じ始めていたある日。
少し外の空気でも吸いたいということで、翠媛は喜娘を伴って後宮内の散策に赴くことにした。
そぞろ歩きをしていても、人のあるところならば当然視線は途切れない。
興味、憧れ、称賛。そして時として侮蔑や敵意の籠った眼差しには淡い笑みを返しつつ、翠媛の足は自然と人気のない方へと進んでいく。
人の気配もそうなのだが、後宮の建物自体も翠媛にとっては溜息の種だった。
当然ながらここは大帝国の後宮。その威容の表れとも言える、随所に意匠を施された建物や調度は見事と言える。
だが、どこか人を圧する息苦しさを感じる。
美しいとは思う。でも、心が憩えない。
お前の居る場所はここでは無いのだと積み重なった歴史に言われている気がする。
作られた評判を繕い続けるお前は、ここには相応しくないのだと。皆の望む『天女』ではないなら、お前は元々望まれてなどいなかったのだからと……。
心の中に苦いものが生じるけれど、翠媛は言葉なく歩き続け。喜娘もまた黙したままそれに続く。
作り物の自分に戻らなければならない場所に戻るのがどうにも気が進まず、ただ当てもなく歩き続けていたがふと足を止めた。
周囲を見回して、ふと息を吐く。
随分奥まった場所へ来てしまった気がする。建物も大分まばらになっているし、人の姿も殆どない。
もうこの先には何もないだろう。そう思った翠媛の目に、思わぬものが映った。
奥へ、更に奥へと。導くように細く伸びた、石畳の敷かれた道があるではないか。
「この先に、何かあるのかしら……」
何もなければ畳を敷いて道を整えることなないだろう。この先には、人が訪れる何かがあるはずだ。
手入れが為されていない木々を抜けた先、道の先にあるものは。
不思議な程に胸が騒めき、気になって仕方ない。
翠媛を見て裡を察したらしい喜娘が、大分離れた場所にいる年嵩の宮女の元へと駆けていく。
そして、何やらやり取りをしていたかと思えば、礼を言うように頭を下げ、こちらへ小走りにもどってきた。
「どうやら、先の皇帝陛下の側室のお一人が賜った宮があるそうです。大分前に閉じられて、そのままだとか……」
何の情報を得てきたのか、と僅かな好奇心を以て見つめる翠媛へ、喜娘は視線で小道の先を示しつつ言う。
喜娘と同じように奥に続く道を見つめていた翠媛は、少し首を傾げる。
宮を賜るということは、ある程度以上の寵愛を得ていた妃嬪だろう。
このような寂れた場所の更に奥に宮があることにも驚いたが、そこが閉鎖されたままというのも気になる。
他の宮は現皇帝の妃嬪たちにそれぞれ与えられているのに、ここだけそのまま。
一体どのような理由があって皇帝はここをそのままにしているのだろうか。
場所故に妃嬪達から好まれないと思った為に、誰にも与えず閉じている? あの鬼神と称される冷徹な皇帝が。
純粋に利便故のことかとも思うけれど、どうにも気になって仕方ない。
「行ってみましょう!」
「……そう仰ると思いました」
閉じられているというからには、内部に立ち入るのは難しいかもしれないが。伺い見るだけでもしてみたい。
目を輝かせて告げた翠媛に、喜娘は優しい苦笑いを浮かべつつ頷いて見せた。
二人は石畳の道を静かに進んでいく。
人気のない場所から鬱蒼と茂る木々の合間を抜け。尚も続く石畳に導かれるように歩み。
やがて、その建物は二人の前に姿を現した。
そこにあったのは、時が止まったような空気に漂う、寂れた宮だった。
他の美しく絢爛で、大国の威容を見せつけるような建物とはどこか趣を違えている。
周囲の樹々や草花と調和し、周囲の空気に溶け込むような穏やかさを持っているような気がする。
規模こそそこまで大きくないものの、住んでいた妃嬪の人柄を感じるような。不思議な好ましさを感じるのだ。
二人は宮の門の前に辿り着いたが、当然といえば当然であるが、門は錠により固く閉じられている。
宮の周囲は護るように高い塀に囲まれており、立ち入ることは難しいように思えた。
さすがに道具もなしに錠前をどうにかすることはできない。
翠媛は、今日は一先ずこの宮の存在について知ることが出来ただけ収穫かと思い諦めようとした。
しかし後ろ髪を引かれる思いがあり、少しだけ……と口にしながら塀の周囲を見て回り。
そして、その地点を見つけてしまった翠媛は、ふと立ち止まった。
喜娘の問うような視線を感じながら、翠媛の口元には我知らずのうちに笑みが浮かんでいた。
地面は衝撃を受けても大丈夫な固さがあり、塀の側面も同様である。
調度よいところに立派な木の枝もある。
更には、着地地点を探るのに良い『道』も建物を巡るようにしてあるではないか。
――ああ、これならいける。
なかなかの『好条件』が重なった環境に、思わず満面の笑みを浮かべてしまう翠媛。
くるりと軽やかに振り向いて喜娘に笑いかけると。
「ちょっと、中を見てくるわ」
「ひ、姫様……?」
何を言っているのか、と言いたげに目を瞬いている喜娘へと再び背を向けると、翠媛は即座に行動に出た。
呆然とした様子の侍女の目の前で、妃嬪の一人たる姫君は。
優雅だが重たげな衣を意にも介せず軽やかに駆けだしたかと思えば、十分な助走をつけて地を蹴って。
次いでその勢いを使って、壁を中継として更に上へと跳躍し、張り出した立ち木の立派な枝にふわりと憩う鳥の如く飛び乗ったかと思えば。
枝から舞うように塀の屋根瓦に着地し、巡る塀をまるで猫のような身軽さで駆けていく。
呆然と固まったままの喜娘を残して、着地点に良い場所を見つけたらしい翠媛の姿は、揺れる披帛の残影を残して塀の向こうへと消えた。
残されたのは、人気のない場所にぽつんと残された喜娘の姿。
「ああ……。あれは、大分鬱憤が溜まってらしたのね……」
一応周囲を見回して人の目がなかった事を確認しつつも、喜娘は溜息交じりに呟いた。
誰にも見られていないことに、ひとまず安堵しつつも。
瑞の『天女』と呼ばれる姫君の、愛すべき本当の姿を垣間見て。
長らく彼女を見守って来た侍女は、優しい苦笑いを浮かべたのだった。
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