洗礼

 誰の関心も買わぬようにしつつ、後宮の片隅でひっそりと静かに、御前試合とまだ見ぬ武芸との出会いを心の支えに暮らすこと。

 慎ましい願いを以て翠媛の後宮での生活は始まった。

 ――しかし、そう思っていた通りに上手くはいかないものだった。


 喜娘を連れた翠媛は、淑やかな足取りで自分の住まいへと戻って来た。

 さりげない仕草で喜娘が周囲を伺い一つ頷く。

 それを見て、美しい装いの翠媛は姿とはうってかわって苦悩の色が濃い表情になり。一気に脱力した様子で崩れ落ちるように椅子に腰を下ろした。

「お疲れ様でございます、翠媛様」

 先程までの楚々とした佇まいは何処へいったのか、というような気の抜けた様子である。

 気遣ってくれる喜娘にかろうじて僅かに笑みを返しつつ、翠媛は息を吐く。

 流石にこのままではお行儀が悪い、と姿勢をなおして座り直しながら、喜娘へと改めて問いかける。


「……今日は、さい昭儀様がたのお茶会だったけど。明日はどなたのお招きだったかしら」


 後宮入りして、はや十日ほど経過して。

 皇帝陛下は、宣言通りにこちらを完全に無視。それに関しては、まずまず願い通りに進んでいると言える。

 あとは、静かに御前試合が開催されるのを待つだけ……のはずだった。

 だが、そこで計算外だったのは他の妃嬪達である。

 この処暫く、翠媛は新参者に対する様々な洗礼を受けていた。

 異国から後宮入りした名高き『天女』とやらを一目見てみようと、妃嬪達は次々に翠媛のもとに社交の誘いを持ちかけてきた。

 良い茶が手に入った。珍しい菓子を取り寄せた。あれこれと名目を作っては、翠媛を茶会や社交の席に招こうとするのだ。

 これだけ連日茶会続きでは、茶で水ぶくれしてしまう、などと現実逃避に益体もないことを考えてしまう。

 妃嬪達の反応は様々で、純粋に好奇心で招いてくれることもあれば、天女の仮面を暴いてやろうとするものもあり。

 時々、まるで辺境からきた珍獣扱いだ、と思うこともあるが。翠媛は慎ましく微笑みながら、出来る限りのお招きに応じていた。

 誘いを断ることで余計な波風を立てたくないからであるし、国の為に、作り上げてきた……否作られていた『天女』の心象を損なうわけにいかないというのもある。

 そして、けして目立つつもりはないとしても、ある程度の後宮の力関係、人間関係の把握はここで生きていく上で必要と思うからである。

 小国の瑞は後宮と呼ばれるものは存在せず。王家の雰囲気も牧歌的なものがあった。

 その中で育った翠媛にとってはあまり馴染みのない考えではあったが、旅立つ前に母から教えられていたのだ。

 後宮において自分の立ち位置を守るためには、自分を知ると共に、周囲を知らねばならないと。

 後宮は、皇帝の寵を競う女の園。大輪の花々のような女性達が集まり競う場所である。

 自分の姿、自分の立ち位置。何が出来て、何が出来ないかを見極め、正しく把握できなければ。

 見極めを誤り、少しでも隙を見せたなら。たちまち落ちるところまで転げおちてもおかしくない。

 絢爛を競う咲き誇る花々の足元には、無惨に散った花が落ちている。

迂闊に零したただ一言が、命運を決する致命傷ともなり得る世界なのだと……。

 知らぬうちに横顔に浮かんでいた、翠媛の心の裡にある決意を読み取ったらしい喜娘が僅かに気遣うような表情を浮かべる。

 だが、自らを納得させるように一つ頷くと、予定を記した帳面を手にした。

 そして、複雑な表情を浮かべたと思えば、静かに口を開いた。


「明日は……あん賢妃様ご主催のお茶会です」

「……急な病になりたい」


 喜娘が告げた明日の茶会の主催者の名を聞いた瞬間、翠媛の顔が見てわかるほどにげんなりしたものになる。

 いけないとは思うけれど、ついつい心の底から本音の言葉が口に出てしまう。


「翠媛様……」

「分かっているの。分かってはいるけれど、あの方を見ると苦い顔になりそうなの……」


 盛大な溜息と共に肩を落とす翠媛を見て、喜娘が苦笑いしているのを感じた。

 賢妃とは、後宮における高位の妃、四夫人の一人である。

 皇后に次ぐ高い位の妃である正一品の妃たちの中で、最高位の貴妃は現在空位。

 現在、後宮の最高位として妃嬪達を取り纏めているのはこう淑妃という女性である。

 後宮入りして程なく顔を合わせることがあったが、驕るところがなく、気取らず。新参者の翠媛に対しても、優しく優れた心遣いを見せる女性だった。

 天女というのはあのような女性をこそ言うのではないか、と翠媛は思う。

 次いで、よう徳妃という女性がいる。

 皇族出身であるという寡黙な妃は、実際に相対しても、その考えているところが今一つ読めないというのが第一印象である。

 翠媛に対して友好的ではないものの、敵対的でもないように感じる、人となりが掴みにくい女性ではあった。

 そして問題は、四夫人最後の一人である安賢妃という女性だった。

 この女性は、実に分かりやすく翠媛に対して敵愾心を露わにしてきた。

 紹嘉の名門貴族の出身であるという賢妃は、翠媛のことをあからさまに辺境の蛮人と侮る様子を見せている。

 異国の姫とはいえ、取るに足らないと思うならそのまま放っておいてくれれば良いのに。何故か彼女は、翠媛に対して明確なまでの敵意を抱いているのだ。

 これで、翠媛が皇帝の寵愛を受けている、というなら分かるが。何故そこまで自分を目の仇にしようというのかが分からない。

 何故か数日と空けずに翠媛を招いては、あれやこれやと難題を吹っ掛けてくる。或いは、他の妃嬪の前であからさまに見下した扱いをする。

 如何に大らかな翠媛であっても、名を聞いただけついつい苦い顔になってしまうのだ。

 だが、面倒なことに確かな後ろ盾を持つ上位の妃の招きであれば、余程の問題がない限り断れない。明日は一体何をされるのか、と憂鬱になりながら、盛大に溜息を一つ。

 他の妃嬪達は、未だ出方を伺っている様子がある。

 上位の妃たちの動向と、実際の翠媛の人となりを自らの目で確かめてから決めようとしている。

 故に、翠媛への眼差しも様々である。

 あれは自分達にとって敵になるか、味方に取り込んだほうがいいか。

 万が一、局面を変える決定打となり得ることがあれば……新しい妃嬪が、皇帝の寵愛を得るようなことがあれば……? と伺っているようだ。

 後宮に生きる女性達は、和やかな席の水面下で油断なく翠媛を値踏みし、対応を定めようとしている。

 隅々まで探られるような心持ちに落ち着かない日々が続いていて、気を抜けば裡ではなく表に出して溜息をついてしまいそうになる。

 けれど、と翠媛は心に呟く。

 まあ、それもそう長いことではあるまい、と翠媛は一つ息を吐く。

 新しい妃嬪もまた自分達と同じように皇帝に省みられない、と分かればいずれ興味を無くすだろう。

 彼女達の注意が翠媛に集まっているのは、新しくやってきた者であるから。そして、皇帝が翠媛をどう遇するか分からないから。

 宣言された通りに寵愛をうけることはなく過ぎ。更に、翠媛が後宮にいることが日常となっていったならば。注目するだけの材料が翠媛になくなれば、放置しておいても構わないと思うようになるはず。

 あとは、翠媛が自分から波風を立てるような行動さえしなければ、片隅で平和にいきられるだろう。

 そして、機を見て御前試合を観戦して。出来る限りの、紹嘉の武器や武術について学んで。更に叶うならば、女性の兵士とも交流を持てたら……。


「……翠媛様」


 口元が緩みかけたところに、喜娘の固い声音が聞こえ、翠媛は動きを止めた。

 何事かと問う前に、翠媛は一瞬にして様子を変える。

 砕けた雰囲気から、嫋やかにして淑やかな『天女』の佇まいへと。

 先んじて気配に気づいた喜娘の見る先には、いつの間にか何やら書面を携えて顔を覗かせる、見覚えのない侍女の姿がある。

 多分、また妃嬪の誰かが何らかの誘いを持ちかけてきたのだろう。ついでに、様子も伺ってこいと命じて。

 油断も隙もあったものではない、と心の中で呻きながら、翠媛は柔らかな声音で優しく来訪者へ言葉をかけた。

 不調法を詫びるように恐縮する侍女へ嫋やかな笑みを浮かべて見せながら、翠媛は思う。当面の間は『天女』を演じ続ける必要がありそうだ、と。

 歩く自分を物陰から見る数多の眼差しや、社交の場での測るような眼差し。

自分の一挙手一投足に注視する後宮の妃嬪らを思い出しながら、翠媛は心の中で盛大に何度目か分からない溜息を吐いていた。

 しかし、だからといって心折れるわけにはいかない。

 ここで自分が妃嬪として生きていくことで、瑞は安寧を得る。故国の皆を守るための翠媛の戦いがここにあるというのなら、逃げ出すわけにはいかないのだ。

 いつか、この騒ぎが落ち着いて平穏を得て。

 飽くなき武芸への探求が叶う日がくることを希望の灯火と胸に抱いて、今暫く頑張ろうとは思う翠媛だった。

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