素顔

「清々しいまでの拒否だったわ」

「中々、手強いお方にございますね」


 物思いから現へと戻り、空になった茶の椀を卓に置くと、喜娘がお代わりを問うように翠媛を見る。

 緩く首を左右に振りながらしみじみと呟いた翠媛に、茶碗を片づけながら喜娘は頷いた。

 故国の人に見送られ、長い旅路を越えてたどり着いた先。何が待つかと少しの緊張と共に初めて顔を合わせた皇帝は、出会い頭に拒絶を突きつけて去ったわけである。

 正直に言うと、心の底から安堵していた。

 元より皇帝の寵愛など望んでいない。

 瑞の為には、この身が後宮に妃嬪として在りさえすればいいのだ。恐らくは人質のような意味合いもあったのだろうと思っていた。


「期待していた人が居たら、申し訳なかったとは思うけれど……」


 翠媛が溜息と共に呟くと、聞いた喜娘が複雑な様子で苦笑いする。

 皇帝に謁見した場にいた人々が囁いていた様子が蘇る。

 言葉に滲んだ期待と、そこから転じた「また駄目か」といった風な落胆。もしかしたら、翠媛が皇帝の寵愛を受けることを期待していた人間が居たのかもしれないと思う。

 事前にある程度は、現在の紹嘉の後宮については知らされていた。

 皇帝には正妻たる皇后も子もいない。跡継ぎを求める人々により後宮に数多くの美女が集められているものの、皇帝は全く興味を示さず、足を運ぶことすらない。

 寵愛を受けるものは今まで一人として居らず、省みられることのない後宮は半ば形骸化していた。

 嘆きと共に囁かれた、今までと同じになるのか、という言葉は『また省みられることなく、打ち捨てられるのか』ということなのだろう。

 家門の期待を背負い後宮入りしてきた姫君達。寵愛を受け皇帝の子を産み、更なる栄達を望む者達にとっては由々しき状況なのかもしれない。

 だが、翠媛はむしろ良かったと思っている。

 出来れば放っておいて欲しいと願ってすらいたのだ。それが叶って寧ろありがたい。

 皇帝の目に再び映ることなく、後宮の片隅で何れ朽ち果てようと。波風立てずに過ごせるならば。そしてそれが、故国の安寧に繋がるのならば。むしろ喜んでそれを受け入れようと思っている。

 けれど、それは諦めではない。何も望みを抱いていないわけではない。

 翠媛には、とある希望があった。

 無論、寵愛などではない。何度もいうがそんなもの欲しくない。欲しい人達が、好きなように奪いあっていてくださいと思う。

 心の中を明星のように照らすもの。翠媛が、他に何も望まないから、せめてこれだけはと説に願うものはといえば。


「それとなく、次の御前試合がいつか調べないと……!」


 声を抑えてはいるけれど、どうしても声音に興奮が滲んでしまうのは仕方ない。

 御前試合、それは紹嘉に来る前に出来得る限りでこの国やその後宮について調べた時に翠媛が掴んだ希望の光である。

 何でも、妃嬪は皇宮で開催される様々な武術の試合を観戦できるというではないか!

 無論、皇帝の臨席がある御前試合に留まるが。その際、希望する妃嬪には席が与えられるという。

 例え武に興味が無かろうと、皇帝がその場にある以上、少しでも皇帝の目に留まりたいと艶やかに装い席を希望するものが少なくないとのことだった。

 そして翠媛は、皇帝ではなく武に興味がある。

 紹嘉は大国として他国を圧するほどの軍を擁するのだ。

 当然ながら用兵に長けたものも多いが、それを支える個々の武術の水準もかなりのもの。数多の武術が存在し、多用な武具が取り入れられていると聞いた。

 瑞では見た事もない武器や、戦術も数多くあるだろう。

 見たことのない異国の武器が鳴らす剣戟の音。

 武の達人たちが惜しむ事なく披露する、洗練の域にすらある武技の数々。

 更には、紹嘉の軍には多くはないが女性もあるという。彼女達は、どのような武器を手に、どのように戦うのだろう。

 ああ、見て見たい。叶うならば、話もしてみたい。

 想像するだけで心が踊る。身を焦がすような熱を感じ、心がときめく。

 もしかして、恋とはこのような心持ちをいうのではなかろうか……。


「姫様。……お顔に出ています」


 喜娘の冷静な声に、いつの間にか立ち上がり、恍惚とした表情で小躍りしかけた翠媛はぴたりと動きを止める。

 そして、小さな咳払いをしつつ、澄ました表情で淑やかに腰を下した。

 気質の根本が根っからの武人である翠媛は、武具や武術について考えると我を忘れかける事がある。

 故国ではいつものことだと呆れ顔で受け入れられたことも、今は異国の後宮にある以上慎まねばならない。

 皇帝は早々に完全拒絶の意向を示してくれたが、他の人間までそうとは限らない。

 到着したばかりの見知らぬ場所。何処に誰の目があり、何と囁かれるかわからないのだ。

 閉じた空間に新しい闖入者があれば、自然とそこにいる人々の目は向くだろう。

 しばらく気は抜けないのだから、と釘をさす侍女に、翠媛は苦笑しながら頷いて応える。

 何しろ、翠媛は淑やかで麗しい『天女』の評判を買われてしまってここにいるのだから。

 話が違う、と大国の怒りが故国に向かない為にも、当面の間……少なくとも人々の興味が翠媛から逸れてしまうまでは、演じなければならない。

求められていた、噂通りの完璧な瑞の『天女』を。

 まあ、例え天女であろうと、人間であろうと。異能により人の世ならざる獣達を従え、冷酷非情な『鬼神』と恐れられる皇帝にとっては関係のない話のようだが。

 正直に言えば、そこまで後宮にも妃嬪にも興味がないなら何故召した、と思わなくもない。周囲に何か言われても拒否するなりできるだろうに。

 恐らく、皇帝にも思うところがあり、事情があるのだろう。

 ただ、その胸の裡や思うところは、遠い拒絶の向こう側だ。

 この先知りようもないだろうし、危険を冒してまで知りたいとも思わない。

 翠媛は心の底から思っているのだ。皇帝が後宮に無関心で良かった、と。

 寵愛など期待するな? 

 上等である。はなからそのようなもの期待していない。

 この女の園において、そんなものは有ったほうが地獄である。

 皇帝の寵愛は、後宮において願いを叶える為の力であり、欲望そのもの。

 得た者は栄華が約束されるが、皇帝の意向一つで容易く揺らぐ危険を伴うもの。

 寵を巡り争い堕ちた女達の逸話は、翠媛も聞いたことがある。それ故に数多の悲劇があり、時として国を揺らす程となり得えたことも。

 翠媛は、多くを望まない。身に過ぎたものを望むつもりもない。

 少なくとも待遇は保証されるというなら、波風を立てない為にも目立たぬほうが吉というもの。

 守りたいと願うものの為に、静かにこの場所で生きること。それだけが、今の翠媛が自分に与えた存在意義なのである。

 だが。

 国の為に、民の為に。皆を護る為に受け入れた後宮入りだ。そのこと自体に後悔はない。自分に出来ることを、立場故の責任を果たす為に出来ることだったと思っている。

 しかし、それでもささやかなご褒美、というか良いことがあってもいいではないかとも思うのだ。

 鍛錬や馬術はできなくなってしまったが、少しでも武への焦がれる思いを慰めたい。せめてもの心の支えがあって欲しい。

 省みないというならそのほうが良い。放っておかれたほうが、好きに出来るではないか。

 皇帝の目をどう誤魔化そうと考えなくていい分助かった、としみじみと心に呟きながら。

 自分という存在から周りの興味関心が消え失せ、御前試合を観覧出来る日が一日でも早いようにと願いながら。

 躍る心を抑えつつも、努めて淑やかな笑みを浮かべてみせたのだった。

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