瑞の天女
「姫様、お疲れ様でございます」
「ありがとう、
後宮の一角に与えられた居室にて、出迎えてくれたのは翠媛よりも年上の侍女だった。
喜娘は、翠媛の乳母の娘であり、幼馴染でもある。
いつも傍に居てくれた喜娘は、翠媛の後宮入りが決まった時、迷うことなく自分も行くと告げた。
向かう先が見知らぬ異国であっても躊躇うことなく供をしてくれた彼女の存在は、翠媛にとっては大きな心の支えである。
喜娘が手早く淹れてくれた茶を飲みながら、大きく息を吐きつつ周囲を見回す。
翠媛は、後宮にて九嬪の一つである修儀の位が与えられた。
けして低位ではないが、高位とも言えない。一つの国の王女に与えるには不足と見るものもあるかもしれない。
だが、悲しいかな。紹嘉に対する瑞の価値を正しく表しているのだ。
瑞は確かに独立した国であるけれど、大帝国である紹嘉にとってみればとるに足らない存在。
そして、今となってはほぼ属領のようなもの。翠媛は、もはやそこから召し上げた側室の一人でしかない。
仮にも王女を、妃嬪として後宮に納めるよう言われて、父王達は最初こそ顔色を変えて拒絶しようとした。
だが、たとえ王としての矜持が許さぬとしても、家族としての情が拒みたくても、断るにも断れない状況だったのだ。
随分と昔のことのようにも思うけれど、そう遠くはない過去に思いを馳せる。
この国よりも少しばかり温かで穏やかな気候の、翠媛が愛する祖国・瑞。
緩やかな曲線と鮮やかな彩にて飾られた、解放的な雰囲気のある王宮の、王の間にて。
父である国王と集った王子……翠媛の兄達は、深刻な表情で唇を引き結んでいた。
その様子を、翠媛は僅かな緊張を滲ませた面もちで見つめている。
皆の視線は、王の手の中あった。
先刻届けられた、大国の使者からの書状である。
嘘であってくれれば良い、という様子で王も王子達も何度も記された文面を見返すけれど、内容が変わることは勿論ない。
何度見ても、そこには彼らにとって受け入れがたい事実がある。
たおやかで慈悲深く、聡明な姫と名高い姫。笑えば花々が一斉に開き、手や足を動かせば花弁が舞う、などの数々の麗しい噂の絶えない『瑞の天女』。
翠媛王女を、紹嘉帝国皇帝の妃嬪として後宮に迎え入れたい、と……。
国としての正式な文書であることを示す印の押された書状に、国王は叶うならば握りつぶしてしまいたい、と思っているのが伝わってくる。
如何に大国と比して小さくとも一つの国である。その王女を、側室の一人として差し出せというのは王として、国としての矜持に関わるもの。
それは集った兄達も同じ様子である。
兄達は末の妹である翠媛をとても可愛がってくれていた。
その妹を、よりによってあの、と三番目の兄が我知らずの内に呟いているのが聞こえた。
紹嘉の皇帝に関する数々の噂は、辺境の瑞にまで伝わってくるほどに有名である。
それらは、けして好意的なものとはいえない。むしろ、可愛い妹を喜んで差し出せる相手と思えないものばかり。
兄達は、翠媛に降りかかった災いともいえる申し出を心から憂いている様子である。
しかし、彼らの心痛の種がそれだけではないということを、翠媛は知っている。いや、自覚していた。
『翠媛を、紹嘉になどやれるものか……』
『そうです。そのような馬鹿げた話、受け入れられるわけが……』
『大哥、二哥……』
未だ沈黙したままの父王の手にある書状を険しい表情で見つめながら、王太子である一番目の兄と、その補佐たる二の兄が唇を噛みしめる。彼らもまた、父と同じ様に書状を無かったことにしてしまいたいと思っているのが分かる。
心から申し出を拒絶したいと悲痛な面もちで呟く兄達を見て、彼らの情に胸が熱くなりかけた。
だが。
『実際に傍に呼び寄せて、噂と違う、と激怒されてしまったら……』
『実物がこんなだと知れてしまったら、どうしましょう……』
『こんな、で悪うございましたね』
感動を返せ、と思わず心の中で叫んでしまった。
盛大な溜息と共に続いたのは、あまりな内容だった。
兄達の様子を見ながら、今度は翠媛がため息を吐く番である。
言いたい事はわからないでもない。自覚は確かにある。だが、物には言いようというものがあるだろうと
そもそも、誰が天女だ、と翠媛は心の中で盛大に溜息を吐く。
亜麻色の髪に、翡翠色の瞳。小柄で華奢な、可憐な容姿と讃えられることはある。
伏し目がちに楚々と佇んだならば、客観的には天女と称するに足るかもしれない――出で立ちさえ他にすれば。
優美な線を描く襦裙に、軽やかな披帛をまとい。髪を結い上げ花飾りや歩瑶をさしてでもいれば、天女と呼ばれていても、少しは可笑しくないかもしれない。
だが、今の彼女が纏うのは、短い上衣に長い下衣。靴は革の長靴。
お世辞に見積もっても姫君の服装とは言えない。むしろ王子である兄達に近い……いや、それよりもっと実用的で簡素なものだった。
更にいうなら、腰には剣まで佩いている。
どう見ても姫君ではなく、一介の兵士と言ったほうがぴったりくる装束の翠媛は、顔を顰めて腕組みをしつつ、嘆く兄達を見つめる。
瑞王の末娘、第一王女・莉 翠媛。
趣味は武術の鍛錬と乗馬、特技は剣の目利き。並の兵士ではいくら集めても敵わないほどの強さを持つ根っからの武人だった。
兄達に、身の回りはある程度守れた方が良いと護身用の武術を習った結果、幸か不幸か資質が盛大に開花したらしい。
確かに、見た目こそはかなげで可憐な花とも愛らしい小動物とも言われる。
だが、翠媛を身近で知る者達は言う。鍛えに鍛えているせいで、精神も身体も鋼な猛者であると。
『どうしようも何も。自業自得ではありませんか』
翠媛は、自分に集まった父と兄達の視線を感じ、更に溜息を吐く。
組んでいた両腕を静かに腰に当てると、顔を顰めて叫んだ。
『そもそも兄様達が! 勝手に必要以上に、私の評判を盛ったのがいけないのでしょう!』
翠媛が怒りと呆れと様々な複雑な感情を込めて放った言葉を聞いて、少しばかりばつ悪そうに父や兄達が視線をす……と逸らす。
腰に両手を当てて、肩で息をしながらその様子を軽く睨みつけていた翠媛は、ここに至るまでの経緯を思う。
深窓の姫は本来、家族の前以外に早々簡単に姿を現わさないもの。
その評判は、概ね伝聞で作られるところが大きい。ならば、娘に良いご縁を望むために評判を盛ることは、ある程度はしかたないのかもしれない。
だが、父と兄達はやり過ぎた。
母が呆れて諫めても、あれも、これも、と娘の良い噂を流し続けたのだ。
翠媛は大層美しく教養があり、花の如き姫であると。天が祝福するほどの麗しい淑女であると。
そして、気づいた時には瑞には『天女』がおわす、と語られるようになっていた。
無論、全てが全て偽りではない。評判に違わぬようにと努力をして、相応のものは身に着けて来た。だが、限度というものはある。
父達が、悪意を以て過ぎた評判を築いたわけではないことは知っている。
翠媛に良縁を与えてやりたいという親心と兄心から始まった噂は、翠媛可愛さが先だつ欲目も手伝って、きらきらしい装飾まとって転げながら膨れ上がり。
麗しき『天女』である瑞の王女の評判は、もはや一人歩きどころか暴走の域。
そして、あろうことか。それを聞きつけたらしい紹嘉帝国から申し出があったのである。姫君を後宮に迎え入れたい、と。
実物は確かに『こんな』ですけど、と苦い顔で心に呟きながら、翠媛はため息と共に再び口を開く。
『いっそ、護衛としてでも差し出したらいかがでしょう?』
『あちらは、あくまで妃嬪としてとのことだ。さすがに無理があろう』
父の努めて冷静であろうというのが伝わる言葉に、それはそうだろう、と翠媛は頷く。
相手が望むのは、あくまで嫋やかで麗しき天女である。剣を振り回して戦う護衛を求めているわけではない。
兄達は溜息交じりに会話を続けているし、父王も息子達を見ながら渋面である。
だが、翠媛は気付いていた。
父と兄達は、一つの事実から目を背けている。否、背けようとしていることに。
それに気付いた翠媛は、目を伏せて一つ息を吐くと、もう一度瞳を開いて父達を真っ直ぐに見据える。
『紹嘉に参ります』
『翠媛!』
悲鳴にも似た叫びが、次々に兄達からあがる。
そう、父達は益体もない話をしながら、目を背けていた。
翠媛を紹嘉に差し出さない、という選択肢が自分達にないという事実に。
瑞は「水の国」と呼ばれるほど水の資源に恵まれた国ではあるが、時としてそれは人々に牙をむく。
先だって、瑞では大規模な水害があり、国の大部分が大きな被害を受けた。
立て直しに休む事なく連日協議を続け、人々が駆け回るさなか、けして相容れない立ち位置にある異国が瑞に狙いを定めたという報せが届く。
そしてそれを裏付けるように国境付近にて小競り合いが生じるようになり、他国からの侵略の恐怖はより真実味を帯びる。
迎え撃ちたくても、国全体が疲弊している状況だった。
このままでは、と王達が焦りを滲ませたところに、紹嘉からの使者はやってきた。
外敵からの庇護と引き換えに、名高き『天女』を我らが皇帝陛下の後宮に是非と……。
家族の愛情故に、翠媛を正式な妻ではなく側室として送り出すことを拒んでくれていることにも気付いていた。
けれど、父は王であり、兄達はいずれ国を背負うものである。
為政者である以上、今は家族の情を捨てねばならない時もあるはずだ。
そして、それは今だ。
災害に疲弊し、外敵に脅かされている瑞には、申し出を受け入れる以外の選択肢が残されていないことにだって気付いている。
父達が難色を示すのは、何も側室であるという理由だけではない。
紹嘉の現皇帝は、おおよそ人間の心がないと言わしめるほどに冷酷非情であると聞くからだろう。
自らに逆らう者には欠片の慈悲もなく、容赦なく粛清するかなりの強硬な武闘派と言われている。
けして人に心許さず、人と接する時に武器を手放すことはない。
武人としての才も確かで他国との戦は負け知らず。今では、皇帝に対する畏怖故に事を構えようとする国がないという。
今ここで、紹嘉の意向を拒否し、彼の国の怒りを買ったならばどうなるか。
大国の申し出を拒絶すれば、国が更に危ういことになることに気づかない程、翠媛は愚かではない。
そして、そのようなことを知らないと言える程、情薄い人間ではない。
家族を、民を。自らを育んでくれた瑞という国を、愛している。
口惜しさに唇を噛みしめながら。或いは、無力さに涙しながら。俯き言葉を失う父達に向かって、翠媛は微笑んだ。
『私はこの国の王女です。国を守るため、民を守るため。私に出来ることがあるというならば、喜んで紹嘉に参ります』
装いが違えども、まさしく天女と称するに相応しい穏やかで美しい表情を見せながら。
翠媛は、愛するものの為に心を定めた。
慈しんでくれたもの全てを守りたいという心に偽りはない。その為にできることがあるというなら、喜んで我が身とて投げうとう。
姫として生まれた以上、何れはどこかに嫁ぐことになったはず。それが、異国の後宮であったというだけだ。
ただ、心にふとよぎるのは。今までのように鍛錬や乗馬が出来なくなること。それが、少し寂しいという想いだった。
翠媛の言葉に、父は長い葛藤の末、やがて紹嘉の申し出を受け入れることを決めた。
話を聞いた母は、驚き、一度は涙し娘を抱き締めた。
けれど、翠媛の決意が固いことを知ると、自ら先頭に立って娘を送り出す為の支度を整え始める。
如何に辺境の小国であっても、一国の姫として。けして笑われぬよう、恥ずかしくないよう、せめてもの心と共に送り出す為に。
何処にあってもどうか貴方らしく幸せに。
万感の思いの籠った母の言葉を胸に、大勢の人々に見送られながら。翠媛は、瑞の国を後にした。
そして、畏怖と共にその名を語られる皇帝と対面することになった。
しかし……。
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