紹嘉後宮百花譚 鬼神と天女の花の庭
響 蒼華
邂逅
豊かにして広大な国土を持ち、その威光は遍く大陸を照らすと言われる
国を開いた始まりの皇帝は、四人の天仙の助力を得て国を興し後に繋げたとされている。
天仙達は国の安定を見届け天に帰ったが、一人だけ地上に残ったものがいるという。
かつては神仙の加護故に異能と呼ばれる不思議の力を有する者達が存在していたが、今では各地のおとぎ話に語られるのみとなっている。
平らかな治世を人々が謳歌する中。晴れ渡った蒼穹が美しいとある春の日に、辺境の小国である瑞の王女が、時の皇帝の後宮に妃嬪として迎えられた。
その場に居合わせた人々は、こう囁いたという。
――天女が鬼神の贄に差し出された、と……。
確かに積み重ねた歴史の重みが小さな細工の意匠にすら感じられる、紹嘉帝国の皇宮。
その中核に位置する
「
一際高く告げられた声が場に足を踏み入れる許しとなり、細く儚げな一つの人影が集った多くの人間の視線を集めながら進み出た。
そして、高みに設えられた玉座から距離を置いた場所にて立ち止まり、流れるように優雅に叩頭する。
淡い翠に繊細な刺繍を施した斉胸襦裙に軽やかな披帛。結い上げた髪には美しい歩揺。
文句のつけようのない所作に花を象った繊細な細工の歩揺が揺れる。涼やかな音が響くと共に、淡い色の披帛がふわりと舞う。
「
王女は面を伏せ、礼を取り続けたまま。震える事もなく確かな、玲瓏たる声音で口上を述べた。
居並ぶ人々が、息を飲んで成り行きを見守っているが翠媛に伝わってくる。
様々な思惑を含んだ沈黙の中、翠媛はいまだ伏したままだ。
この場で、彼女に頭をあげるのを許すことが叶うのは唯一人――。
「……顔を上げろ」
そう、静まり切った場に波紋を呼ぶ一言を投じた、感情の籠らない怜悧な言葉を告げる唯一人。
漆黒の色を纏い、他を圧する空気を纏い。この世ならざる存在と見てわかる二頭の黒き獣を従え、万乗の尊き座にある男性のみ。
言葉に応じ翠媛が緩やかに面を上げた先。翠媛と皇帝の眼差しが静かに交錯する。
翠の眼差しが見つめた人……大帝国である紹嘉を統べる皇帝、
皇帝にのみ許された龍の意匠を施した装束を纏う、漆黒の髪と瞳、堂々たる体躯を持つ強面の美丈夫である。
そこに一かけらでも微笑みがあれば心を奪われる女性は多いだろうと思うけれど、あるのは他者への拒絶と人々の心を恐怖で縛する凍てついた空気。
噂によると、即位してから一度として人々が彼の笑みを見たことはないらしい。
幼子が見れば泣き出すであろう威圧感のある皇帝に、更なる畏怖を呼び起こす一因となるのは彼の足元に控える二頭の獣だ。
艶やかで美しい毛並みを持つ獅子にも似た獣は、獰猛な空気と不可思議な炎にも見える靄を纏っている。どう見ても、この世の理の外にある存在だ。
あれが、と翠媛は心の中で呟く。
今はおとぎ話として語られる異能。目の前におわす皇帝陛下は、その異能を持つ存在であるという。
人の世ならざる獣達は、彼に従い。皇帝の目となり、意の代行者となって変幻自在にあらゆる場所に姿を現わすと聞いた。
理ならぬ力を備えることもまた、彼の『鬼神』という二つ名の由来であるとか……。
顔を上げた翠媛を見た人々が、ややざわつき始める。
人々の声音に少しばかり期待が滲んでいる気がする。
『天女』の如しという噂はまことであったのか。海棠の雨に濡れたるが風情、とはまさにこのことか、という囁きが聞こえた。
黙っていても耳に入る称賛の言葉に些か面映ゆいのを慎ましく押し隠して。皇帝への謁見が叶うと聞いて、侍女の手を借りて支度した時。翠媛は鏡に映した自分の姿を思い出す。
緩やかに波打つ亜麻色の髪は結い上げ、房飾りと玉飾りのついた歩揺を挿し。あくまで薄くに止め白粉をはたき、紅をさした。衣装も、皇帝に拝謁するのに礼を失さぬように留意しつつも、華美にならないように注意して。
翡翠色の瞳にまず及第点と映った我が身は、果たして黒曜石の眼差しを持つ皇帝にはどのように映っているのだろうか。
玉座におわす皇帝陛下は、尚も無言のままである。
凍てつくような冷たい眼差しをもって、翠媛を見下ろし続けるばかり。
険しい表情が、この場にあることが彼の本意ではないと伝えている。
重苦しい沈黙に、周囲の人間が徐々に耐えきれない様子で戸惑いを露わにし始めた。
声を潜めていても、徐々に人々の囁きは場に漣のように満ちていく。
次なる言葉を許されず、翠媛の背筋に冷たいものが伝いかけた時、その言葉は紡がれた。
「身分に応じた暮らしは保証してやろう。だが、それ以上は望むな」
ざわめきが一瞬にして掻き消え、水を打ったようにその場が静かにになる。
言葉を発したのは皇帝である。
大仰にため息と共にそう告げると、もう用は済んだとばかりに立ち上がり、慌てる側仕え達を押しのけるように歩き出す。
翠媛はその場に膝をついたまま、務めて冷静さを保とうとしていた。
今、皇帝が示した意向は、どう聞いても『拒絶』である。これが歓迎と聞こえる人間が居たらお目にかかりたい。
初めての顔合わせで明確に翠媛を拒んだ皇帝は、去り際に肩越しに振り返ると鋭い眼差しを翠媛に向けた。
「……死を望むのでなければ、私に近づこうと思わぬことだ。寵愛など期待するな」
脅しともとれる更なる拒絶を告げた皇帝は、黙したままの翠媛と、呆気にとられて言葉の出ない様子の人々を残して姿を消した。
暫くの間、場には何とも言えない沈黙が満ちていたが、やがてそれは違うもの――諦めの空気に転じていく。
礼をとった姿勢のままの翠媛を見つめながら、あちこちから聞こえてくるのは溜息だ。
この姫君もまた今までと同じになるのか、と嘆息と共に囁かれるのが聞こえてくる。
人々は、これ程の美貌にも心動かさぬとは、と最後の拒絶を紡いだ後は振り返ることも、足をとめることもしなかった皇帝が消えた方を見据えている。
妃嬪として迎えられながら、その立場を確かなものとする唯一の術と言える皇帝からの寵愛を与えぬと宣告され、翠媛はなおも沈黙を保ち続けている。
嘆く人々の目にはその身の行く末を憂えているように見える、今にも消え入りそうな儚き風情の姫君は心に呟いていた。
――ああ、良かった、と……。
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