2話 深窓の令嬢、冒険する。
「もし、そこの御婦人。町役場はどちらかしら?」
実家の使用人館とほぼ同じ大きさのイブールの館をそっと抜け出し、イマは一般道へ出る。そして思い切って通りがかった女性へそう尋ねた。
メイドたちの外出時の服装を真似て、部屋着の上にショールをまとった。暑い夏に外出する経験は初めてなので、ふさわしい外套がないのだ。では冬の外套は、と問われればそれもない。過保護な両親がよく思わず、これまでめったなことでは外出などできなかったし、させてもらえなかった。よって、その環境で育ったイマには、これは一世一代の挑戦であり、冒険だった。
「ああ、この道を真っ直ぐ行ったら、右手にでかい建物が見えてくるよ。すぐにわかる」
「ありがとう」
祭りはイブールの町全体を覆い、どこもかしこも活気づいている。人口はイマの実家がある都の南地区くらいの人数で、およそ二万七千人ほど。きっと仕事を休み町人総出で騒いでいるのだろう。
目指すは、昨年読んだ週刊誌に載っていた場所だ。
ただ時間を持て余して読んだだけの娯楽雑誌。しかしそれはイマの心を捉えて離さない情報を載せていた。そのゆえにイマはメイドたちから『推し活』と呼ばれている行動へと駆り立てられたのだ。すなわち、雑誌の編集長を呼び出し、載せられていた情報に関するさらなる情報を求めた。さらには入手可能な関連書籍をすべて取り寄せ、関連絵画のレプリカも購入し、自室の一角にそのための祭壇を築いたのだ。
焦る心を抑えつつ、イマはツギハギの舗装がされた道をゆっくりと歩く。ここはイブール。イマの憧れの土地。イマにとって目に映るすべてが宝物のようだった。人生でここまで多くの人を見るのは初めてだったが、イマはそれよりも、推しと会える現実に胸が痛い。イブールの町おこし事業の中心である町役場。その入口付近にある、それは――
「――ペペイン・スリンゲルラントさまあああああ!!」
町役場前広場では町内対抗のど自慢大会が行われていた。なので幸いにもイマの絶叫はあまり注意を引かなかった。
よって、彼女がイブール開拓者の祖を模した体格のいい銅像にすがりついたこと、しまいには地に額づいて崇拝行為を成したことも、それほど目立たなかった。それほど。
「――お嬢さん、どうなさいましたか」
さすがに見咎められ声がかかる。イマは身を起こして正直に「わたくしのペペイン様を奉じておりました」と言った。声の主である青年は驚いた表情でイマを見つめて黙る。その青年は黒いくせ毛だった。ペペイン様と同じとはすばらしい。惜しむらくは瞳の色が水色で夕焼け色ではないことか。そこまで瞬時に考えてイマは即座にペペイン様を布教する姿勢に切り替えたが、青年が口を開く方が早かった。
「――なるほど、このあとのペペイン杯を見に来たのですね? のど自慢が終わり次第準備に入ります。よろしければ、どこかに席を取って休んでいてください」
聞き捨てならない単語を耳にしイマは戦慄する。ペペイン杯。とてもすばらしい予感のそれはいったいなんなのか。役場前広場に並んだ大小さまざまな椅子のひとつに腰掛け、イマはそのときを待つ。
のど自慢は準決勝が終わり佳境だった。決勝進出者たちが青天井の狭い演台の袖で次曲のために喉慣らしをしている。イマがそれを眺めていると、さっと横から飲み物の入ったコップが差し出された。
「まあ、ありがとうございます」
「あなたは、こちらでは見かけない顔ですね?」
「最近引っ越して参りました」
「……もしかして、ライテ丘のお屋敷ですか?」
「さようでございます」
先ほどの青年だ。体力がないイマは、移動しただけで汗だくになり、ありがたくその飲み物を受け取った。
「なんでまた、こんな田舎町へ?」
「わたくし、ペペイン様のファンですの」
「……ペペインの」
やはりこの青年には布教すべきだ。とても見込みがありそうだ。そう思い口を開きかけたときに、決勝進出者の一人が演台に上がり拍手が巻き起こった。青年はいなくなってしまった。
決勝は観客の拍手の大きさで勝敗が決まるらしい。イマは二人目の『イブール慕情』を歌った少女へいっしょうけんめい拍手を贈った。サビのこぶしの利き方が最高だ。ペペインを想って思わずもらい泣きをしてしまったほどだ。少女は無事に優勝を勝ち取り、どの町内でも使える商品券十枚を誇らしげに掲げた。
演台上が片付けられ次の催し物の準備がなされる。『第五十六回町内対抗のど自慢大会』と書かれた看板から、一枚紙が剥がされた。下から現れた文字は『第四回ペペイン杯』。――なんと! これまで三回も行われていたのだ! 知らなかったとはなんたる不覚!
「――さて、皆さまたいへんお待たせいたしました! 祭りの締めくくりでありイブール名物であるペペイン杯、始まります!」
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