第47話 与謝野アキコ、海を渡る(上)


  ※※※※


 同じころ。

 与謝野テッカンは、新聞と手紙でアキコのパリ到着を知っていた。最初は自分自身で駅まで迎えに行こうと思っていたのだが、

「それには及びませんよ」

 と、ホテルマンが申し出てきた。「アキコさんのことはワタシがお迎えにあがりましょう。ムッシュー与謝野はお部屋で仕事をなさっているのがよいかと」

「ああ、ありがとう。でも」

 とテッカンは言った。「フランス人のきみには、アキコくんが誰なのか分からないだろう? それで駅に行って大丈夫なのか?」

「ハハハハ」

 ホテルマンは笑った。「ご安心ください、ムッシュー。好きな男性を探しているときの女性くらい顔を見れば分かります」

 そうして彼は部屋を去っていった。

 ドアが閉まるのを待ってから、テッカンは「もしかして外国の人って、みんなキザなのか?」と頭をかいていたという。

 お前が言うなや。


 一方で、パリに着いたアキコは空を見上げながら胸いっぱいに空気を吸っていた。

 ここがあのフランスか~~!

 彼女の手には、永井カフウ『ふらんす物語』が握られていた。1909年に発禁処分を食らった本なので、かなりのレア本である。その耽美主義・快楽主義・そして政府批判が物議をかもした名著だ。

 そんなアキコのもとに、ホテルマン風の男が近づいてきた。

「あなたがマダム与謝野ですか?」

「誰だ?」

「ムッシュー与謝野の使いの者です。ホテルの部屋で彼が待っていますから、案内しますよ」


 アキコは彼に連れて行かれながら、少しだけ緊張していた。久しぶりにテッカン先生と会う、会うが、目を合わせたときにどんなことから話せばいいんだろう。

 ――変だな。

 昔はもっと図々しく生きていたつもりだったのに、相手の気持ちを考えようと思ったとたんに世界がおっかないモンに感じられてくる。

 そんなことを考えながら、彼女は部屋のドアを開けた。

 テッカンは、そこで待っていた。パリの豪奢な食事のおかげだろうか、少し顔色がよくなっていた。

「久しぶり、アキコくん。よく来てくれたね」

「あ、あ――」

 アキコは、言葉を失った。好きな男と再会できるのがこんなに嬉しいと思ったのはきっと初めてだ。


 テッカンは、少し目を伏せた。

「フランスで過ごしていて、自分を見つめ直したよ」

「――うん」

「アキコくんを守れる男になりたかった。いや、これは綺麗事だな。本当は、君に見合うだけの夫になりたかった。君が文学で名を上げて、僕の生活を助けてくれただけの恩を僕も返したかった。

 でも、ダメだった。

 僕は僕だ。僕のままでしか生きられない」

 それを聞いて、アキコは涙が流れてくるのを止められない。アタシの夫はそんなことで悩んでいたんだ、と思うと自分が不甲斐なかった。

「なに言ってんだ」

 とアキコは呟いた。

「不良だったアタシを拾ってくれたのは、テッカン先生だろ。アタシが人とケンカしたとき、助けてくれたのはテッカン先生だったろ」

 彼女はまぶたをこすった。

「先生が教えてくれたんだ。人は愛するに値するもんなんだって。文学はイイもんなんだって。

 先生がアタシを救ってくれたんだよ。

 アタシのほうこそ、自分勝手に作品を書いてばっかりで、テッカン先生になにも返せてない!」


 こんな風に、夫婦はお互いの想いを吐き出していた。

 テッカンはアキコの肩に手を置き、

「僕はアキコくんのために、なんでもしたい」

 と囁いた。「教えてほしいんだ。僕でしかいられない僕は、これからどうすればいい?

 ――僕は、アキコくんのために生きる」

 それを聞くと、彼女はとうとうこらえきれなくなって、テッカンの胸に飛び込んで両腕で腰にしがみついたのであった。

「ずっとアタシのそばにいてくれよ! もうどこにも行くんじゃねえ!

 アタシが『ここにいてほしい』って思ったときに、いつでもそこにいろ!」

 アキコは再会の喜びかどうか、ぐしゃぐしゃに泣き喚きながらそう言ったという。

 テッカンは、ほんのちょっとだけ苦笑いをした。自分よりも遥か怪物めいた文学の天才が、自分の前ではただの女の子だったから。

「分かったよ、アキコくん。もう僕はどこにも行きやしない」

 そんな彼の言葉に、アキコはただ抱き着いているだけだった。


 なお、後ろで見ていたホテルマンは、

「オーララ、これがジャポネーの『モノノアワレ』ですか?」

 と顔を赤くしていた。

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