第48話 与謝野アキコ、海を渡る(下)
※※※※
それから与謝野アキコとテッカンの2人は、ただ外国を見て回って楽しんでいたという。
もちろんフランスのパリだけではない。イギリスのロンドン、ベルギーのブリュッセル、ドイツのベルリン、オーストリアのウィーン、オランダのアムステルダムなどを観光していたらしい。
そこで当地の政治経済、文化芸術、教育制度、そして自然科学の成果などを学んでいった。この出来事はアキコに大きな影響を与えた。
「すげえなあ、テッカン先生!」
「うん、そうだね」
「アタシさあ、今まで、アタシとかライチョウの文学が日本でやってることはけっこう進んでるほうだって思ってたんだよ。でも、そうじゃないんだ」
彼女は目を輝かせていた。
「西洋は日本より、二歩も三歩も先に行ってんだ! 道を歩いてる女なんか見てみろよ! ライチョウが目指してる女の自立ってなあ、こっちじゃ当たり前だぜ!?」
こういう感動を胸に抱きながら、アキコはホテルに帰るとすぐに執筆作業に取り掛かった。
原稿の内容は『源氏物語』の現代語訳である場合もあったが、その多くは、海外での刺激をそのまま詩歌にするものだったという。
テッカンがホテルの1階で酒を飲んで寝室に帰ってくるころには、アキコは、ただブツブツと呟きながらペンを走らせるだけのケモノになっていた。
彼がどれだけ話しかけても、彼女は作業に没頭しすぎるあまり、返事をしなかったと史実には残っている。
いるんですよね、天才ってやつが。
ところで、こんなに外国を巡っていて言葉の問題は大丈夫だったのだろうか? と思う人がいるかもしれない。
しかし、そのあたりは心配なかったようである。
まず、アキコはデビュー以前の時点でほとんどの外国語を習得していた。なので意思疎通に問題はなかった。
テッカンのほうはアキコほどの語学力はなかったが、彼女よりも人たらしの術は身に着けていた。
なので、アキコが現地の外国人とケンカしそうになったときは、間に入って上手く交渉を進めることができたのであった。
与謝野夫婦は、互いにないものを持っていたと言っていい。なら、どうして相手に劣等感など覚える必要があるだろうか?
男女とは、そういうものである。その絆を、2人は海外渡航の間に取り戻したのだった。
アキコとテッカンは、こうして日本に帰る時期を迎えようとしていた。2人が行くのはフランスのマルセイユ港である。
船に乗り込んだ夫婦は、もう和服ではない。それぞれの地方で買った洋装に身を包んで、ご機嫌に出発を待っていた。
アキコは、「色んな国を回ったけど、結局いちばんメシが美味いのはフランスだったなあ」と言った。それはそうである。
テッカンも頷きながら笑っていた。
彼女は次に、こんなことを言った。
「それぞれ外国の女たちは、まあその国ごとの問題もあるんだろうが、少なくとも今の日本の女よりは自由だったな。
みんな好きな格好をして、好きなところを歩いて、好きなことを考えたり喋ったりできて、好きな男と結ばれることができてたんだ。
どうすりゃ日本も同じになれる?」
そういう彼女の言葉を聞き、テッカンは、上手く答えられそうにない己自身を感じていた。
「え――っと、やっぱり文明の進歩なのかな?」
「その文明を進歩させる方法が知りてえんだよ、アタシは」
アキコはそう言いながら、船の外に広がっている大きな海原をただ眺めていた。ガラス窓に、自分の顔が反射して映り込んでいるのを見た。
「教育だな――まずは勉強しないとどうにもなんねえもんなあ――」
と彼女は言った。与謝野アキコはパリ行きから帰って以来、学校教育、特に女子教育に力を入れていったと史実にはある。
それは、外国人女性の自由な生きかたを見た影響が大きいらしい。
そりゃそうですよね。
アキコの手もとには、森オウガイの『舞姫』と、夏目ソウセキの『倫敦塔』が握られていた。
多くの大文学者が海外を知って己を広げるように、彼女もまた自分を広げていたのであった。
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