第46話 ライチョウの新たな恋(下)
※※※※
尾竹ベニヨシは、ただ道の真ん中で平塚ライチョウを睨みつけていた。ショートボブの黒髪に、執着心の強そうな三白眼。
和服の着つけは少し乱れているようだった。
「なにか御用ですか?」
とライチョウは訊いた。「ベニヨシさん、あなたはもう『青鞜』のメンバーではございません。わたくしと関わる必要はないはずですわ」
「なんでそんな冷たいこと言うんですか? 私とあんなに愛し合ったくせに」
ベニヨシは、ねっとりした口調で言ってくる。
彼女のほうの噂は、ライチョウはなんとなく耳にしていた。『青鞜』を去ったあとベニヨシは森オウガイの援助を受け、新しい雑誌『番紅花(サフラン)』を創刊していたらしい。
「私、ライチョウさんがまた悪い男に騙されてるんじゃないかって心配で、ここにきたんですよ?」
「余計なお世話ですわね。ヒロシくんは立派な芸術家ですし、わたくしは殿方に騙されたことなど生涯一度もございません」
ライチョウが素っ気なく応じると、とうとうベニヨシのほうも我慢の限界という感じだった。
「ライチョウさんは、女の能力を示すんじゃなかったんですか!? 男を見返すんじゃなかったんですか!? なのになんでまた男と愛し合ってるんですか!
ライチョウさんには、そんなの似合わないですよ! あなたが納得しても私は納得できない! どうしてなんですか!」
それを聞くと、ライチョウは首を横に振った。
「わたくしは殿方と敵対したいのではありません。真にとなりに立って助け合う仲になるために、己の心意気を見せたいというだけのことです。
変えたいのは、その間柄を阻む社会の仕組みです。ですから――そうですね、男を憎いと思ったことはございませんわ」
彼女の主張は、ベニヨシにはほとんど理解できないものだった。裏切りだ、とさえ感じたと史実にはある。
ベニヨシは懐から『煤煙』という小説を取り出す。あの森田ソウヘイが心中未遂事件をありのままに振り返った告白小説だ。
「読みました!? これ!
森田ソウヘイが描いたヒロインのモデルがあなたですよ!
でも、これのどこが平塚ライチョウなんですか!? 結局ソウヘイという男は、あなたのことなどちっとも理解してない!
自分のアタマのなかで都合よく女って生き物をデッチあげてるだけです! そのくせ自分だけはカッコつけて、いっしょに死のうなんて誘ってライチョウさんを殺しかけたんだ!」
「心中に誘ったのはわたくしです」
「今度の奥村ヒロシとかいう男だって! どうせ森田ソウヘイと同じですよ! ライチョウさんを消費して搾取したいだけ!
だったら――だったらもういちど私と――!」
「黙れ、ベニヨシ」
ライチョウはそこで、ようやくキレた。
「ソウヘイさまとは、もう離ればなれになりましたが、それでもわたくしが過去想った人であることに変わりはありません。彼に対する侮辱は、わたくしに対する侮辱と同じだと知れ」
彼女はそう告げると、少しずつ歩き始めた。
ベニヨシに近づいているわけではない。たまたま進行方向にベニヨシがいる、というような雰囲気だった。
「ヒロシくんを罵ることも許しません。今のは聞き流しましょう、今後は節度を持った交友を保ちたいですわね」
そうしてライチョウは、ベニヨシの真正面10センチメートル以内まで接近した。
ベニヨシのほうは、ただ気圧されていた。
――これが与謝野アキコと肩を並べる女、平塚ライチョウという生物なのである。
「彼の待つ家に帰るために、あなたの位置が邪魔ですわね。ベニヨシさん、おどきください」
ライチョウが睨みつけると、ベニヨシは怯えながら道をゆずった。そして、ライチョウが脇目もふらずに去っていくのを見届けてから彼女は泣き喚いたという。
静かな夜である。
過去の清算は、こうして終わった。
なお、
余談なのだがベニヨシはこのあと、富本ケンキチという陶芸家の男とアッサリ結婚して、『番紅花(サフラン)』という雑誌を畳んでしまったという。
まあ、そんなもんですよね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます