第45話 ライチョウの新たな恋(中)
※※※※
平塚ライチョウは、それから奥村ヒロシのアトリエをよく訪れるようになった。彼も彼女の家に来ては、彼女が読書をしたり、編集作業や原稿執筆に追われている横顔をスケッチしていたという。
ヒロシは絵を描くだけではなく、指輪を制作したり、俳優として舞台に立つこともあったようだ。
演目はゲーテの『ファウスト』だった。
覚えているだろうか? そもそもライチョウが文学に目覚めたきっかけはそのゲーテである。
役者として声を張り上げ、色男に扮するヒロシを、彼女は観客席からドキドキした気持ちで眺めていたという。
だが、2人が同棲を始めるとちょっとしたトラブルが起きた。
『青鞜』のメンバーには、リーダーの平塚ライチョウが色恋にうつつを抜かしていることに難色を示す者もいたらしい。
たとえば、
《あたしたちは女が男に負けないことを示すために仕事をしているんでしょう? なのに、編集長のライチョウさんが優男とニャンニャンしてるなんて皆にどう説明すればいいんですか!》
とか、
《しかも相手は年下で、仕事もまだほとんどなくて、そんな男を自分の家で甘やかしているなんてふしだらですよ! 不潔です!》
こういう声が上がっていたという。
イヤですね~。
だが、女たちの非難にいちばん傷ついていたのは、ライチョウではなくヒロシのほうだった。
彼はライチョウの家で絵を描きながら、こんな風に言ったという。
「ぼくと関わっていると、ライチョウさんが迷惑してしまわないですか? ぼくみたいな甲斐性のない男が相手では、あなたの名誉も人脈も傷つく」
「え――」
「静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ、一羽のツバメが飛んできて、平和を乱してしまったということです。
だから、若いツバメは池の平和のために飛び去っていくほかないのです」
ヒロシは泣きそうな目をしながら言った。
この言葉を聞いたライチョウは、カッとなって彼の顔を胸に抱き寄せた。
「ヒロシくんは、そんなこと気にしないでいいんですのよ」
「ライチョウさん――」
「いいの、もう、愛情を失うのはわたくしはこりごりですわ。
あなたが若いツバメというなら、どうぞ、わたくしを止まり木にしてください。わたくしは、それだけでいいんですのよ」
そこまで彼女が言うと、とうとうヒロシも耐えきれなくなって、ライチョウにしがみつきながらその着物を脱がしていったという。
2人は法的結婚をせず事実婚という形を取った。ライチョウのほうは、純粋な男女の愛が「制度」などという無粋なものに縛られるのが性に合わなかったらしい。
芸術肌のヒロシも、そのほうがいいと言ったようだ。
彼女はすぐに『青鞜』で、2人の関係性を公表した。そして『独立するに就いて両親に』というエッセイで、改めて父親からの卒業を宣言したのである。
ここまで覚悟を決められちゃったら、まあ、周りの部外者はなにも口出しできませんよね?
もちろん、とやかく言う者もいるにはいる。詩人の木下モクタロウはライチョウの決断を大いに祝福したが、小説家の近松シュウコウという男は彼女のことを公然と罵倒したという。
「なんだよ! 結局フェミニズムだの男女同権だの偉そうなこと言っておいて、イケメン野郎と出会ったらコロッとイカれちまうんじゃねーか! バーカ!」
そんな感じだったらしい。
しかし、ライチョウもヒロシも誹謗中傷は気にしなくなっていた。病弱で仕事の少ないヒロシをライチョウが支える、愛があればなんの不満もない、2人はそう思っていたのだ。
ライチョウは鼻歌を歌いながら街道を歩いていた。
そこに立ちはだかる人影が見えたのは、冬のことだったと言われている。
尾竹ベニヨシ。かつてライチョウと同性愛関係にあった女が、彼女の前に深刻な顔で待ち構えていた。
「男と結婚って、どういうことですか!? ライチョウさん!!」
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