第42話 文豪、森オウガイの手助け(中)
※※※※
こうして、与謝野アキコの翻訳作業が始まった。少しずつ訳してその度に単行本として出版する作業。そのなかでだんだんと、アキコの翻訳はただのダイジェストではなく原文に忠実な訳に変わっていったと言われている。
その理由は2つある。
まず、出版社社長の金尾タネジロウが現代語訳の売上と読者の反応をきちんと見ていたのだ。メイン読者の女学生は、こんな風に言っていたという。
《もっと読みたい! 超面白い! お願い、完結なんかしないでえ!》
そういう声を聞いたタネジロウは、「後半はもっと詳しく訳して、単行本の巻数を増やしてみようか!」とアキコに提案したという。
まあ、そりゃ長く売れたほうがいいですからね。
――少し前の週刊少年ジャンプでも、人気作品は編集者の意向で展開を引き延ばされてダラダラと続いていく。同じことが明治でも起きていたということだ。
もうひとつの理由は、アキコ自身の意向だったという。
「みんな源氏物語って言ったら、前半のストーリーはだいたい知ってるんだよ。教科書とかでな。でも後半の物語はぜんぜん読んでねえだろ?
そこは詳しく書いてやろうと思ってよ――」
こんな風に、タネジロウの商売根性とアキコの文学精神が上手く嚙み合って、『源氏物語』現代語訳は長く飛ぶように売れていったのである。
そして、その校正をしていたのが日本最大の小説家・森オウガイだったのだ。
当初は、アキコは自宅で原稿を書くとオウガイの家に日々郵便を送っていたらしいのだが、途中から、
「どうせオウガイ先生が読むなら別々で働くのは面倒くせえな」
という理由で、オウガイの豪邸に入って翻訳作業を進めるようになったと史実には残っている。
アキコはオウガイの妻・シゲが用意した茶菓子を食ったり、シゲの娘・ミリの宿題の面倒を見てやったりしながら翻訳を進めていった。
そのときのことだった。
「なあ、アキコくん?」
とオウガイは言った。「君の夫、テッカンくんが海外に行ったのはどうしてだと思う?」
「え――」
アキコは戸惑った。
「そりゃあ、テッカン先生が文学者だからです。立派なもんを書くために外の世界を知るんです」
「はい、違いま~す!」
そうオウガイは笑った。
「テッカンくんが日本を出たのは、彼が男だからだ。君は自分の文学的栄光が、どれだけ夫を惨めな気持ちにさせているか分かっていないな? ちっとも!」
「え――」
「考えてみろ。彼はなにもできていない、なにかをやったら失敗する、その失敗は自分の愛する女が尻ぬぐいをするんだぞ?」
これが明治の男にとってどれだけ屈辱か分かるか。
「だから彼は、君に相応しい男になるために旅立ったんだよ。その意味を少しくらい承知したまえ」
「そ、んな――」
アキコは少しだけ、下を向いた。
「アタシ、そんなの気にしたことなかった。
アタシ、だって、テッカン先生には、そばにいてくれるだけでよかったのに」
彼女がそう呟くと、オウガイはフンと鼻を鳴らした。
「女のほうはそれでよくてもね、男という生き物は、女ほどには論理的には生きられない道化師というものさ。
そのくせ何事にも理屈という名の軟膏をつけたがる。
君が彼の赤字を帳消しにするたびに『僕は頼りにされていない』と思うんだよ、男というヤツはねえ」
とオウガイは言った。
アキコは、右手の平で顔を覆った。
「あ、アタシ――まさか、テッカン先生の気持ち、なんにも分かってやれなかったのか?」
――アタシが稼げばいいんだろうと思ってた。実際、稼げた。テッカン先生のつくる料理も美味しかった。
テッカン先生が文芸で失敗したって、アタシが仕事で取り戻せるから問題ないと思ってた。
ずっと、それが、そんな態度がテッカン先生という男を悩ませてしまっていたのだろうか?
アキコはそう感じた。
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