第43話 文豪、森オウガイの手助け(下)


  ※※※※


 男と女の関係はいつも難しい。ただ反転してもイコールにならない不思議が常にそこにはある。

 明治は、近代化の時代である。

「男が稼いで女がそれを支える家庭があるのなら、逆に女が稼いで男がそれを支える家庭があってもいい」

 こういう理屈が生まれるのは至極自然のことである。

 だが、頭で分かっていても、心で割り切れるかどうかはまた別の問題なのだ。

 ――テッカンは、割り切れなかったのである。


 アキコはその日の翻訳作業をひととおり終えると、森オウガイの家、その縁側に座ってタバコを咥えた。マッチで火をつけて、煙を吐きながら夜空を眺める。

 1本だけ吸い終わったら帰ろう、そう思っていると、

「となり、いいかね?」

 とオウガイが声をかけてきた。そうしてアキコがなにか答える前に、酒を片手にあぐらをかく。

「――アキコくんは、今、なにを考えている?」

「えあ、ん~~」

 アキコは生返事をしながら、やがてこう答えた。

「源氏物語のこと。あとは、テッカン先生のこと」

「ほう?」

「初めて会ったときに、テッカン先生が言ってたんですよ。詩歌は人の気持ちをありのままに書くだけでいいんだ、って」

「彼の評論のとおりだね。オレも基本的にはそう思うよ」

「だからアタシも、自分の気持ちに素直になって書き続けてきた。

 ――でも、それだけじゃダメなんだろうな」

 アキコはタバコの灰を庭に落とした。


「自分の気持ちだけじゃなくて、他人の気持ちも考えなくちゃダメなんだ。

 世の中は女と男で成り立ってるんだから、女の都合だけで回せるはずがない。テッカン先生って男のことをもっと知らなくちゃいけないんだ」


 そこまで話すと、彼女は手もとの『源氏物語』にそっと触れた。

 紫式部の描いたその物語は、様々なヒロインが登場してイキイキと描かれているのが魅力のひとつである。

 だが忘れてはいけない。『源氏物語』には男性キャラクターも多く登場するし、なにより主人公は光源氏という孤独な「男」であるということを。

「男のことがホントに分からねえままだったら、アタシは紫式部先生には近づけねえよ」


 それを聞くと、森オウガイはフッと笑った。まるで、紫式部の後見人を務めた藤原道長のように――。

「オレが思うに、夫婦というものは厄介だからな。いったん離れてみてこそ互いが見えるということはあるものだ。

 だから彼を、まず先に海外に旅立たせたんだ」

 彼はそう言うと、懐から紙切れを取り出した。

 それは、もう1枚の海外行きの船のチケットである。

「今なら夫と話したいことが山ほどあるんじゃないのか? アキコくん」

「――!」

「もういちど言うぞ、オレは君たちに期待している。旅費ならこちらで用意してやろう。

 君もテッカンくんといっしょに、外の世界を知ってもっと強くなってこい。翻訳の原稿なら郵便でどうとでもなるさ」

 オウガイはアキコに、ほとんど無理やりにチケットを握らせた。

「どうする? アキコくん」

 その言葉を聞いて、彼女のほうはやっと自分の本心に気づいたような感じがした。


「テッカン先生に、会いたい。アタシが好きなのはテッカン先生だけだ! 海を隔ててるなんて、本当は我慢できない!」


 当時の読売新聞は、アキコを「新時代の女」の代表として扱い、彼女のパリ行きを報道した。雑誌『中央公論』では、アキコの特集が組まれることになった。

 飛行機もなにもない世界である。アキコは船に乗ってロシアのウラジオストク港に辿り着き、そこからシベリア鉄道に乗ってモスクワを経由しながらパリに向かう。


 このときの気持ちを、アキコは次のように書いている。

「いざ、天の日は我がために金の車をきしらせよ、颶風の羽は東よりいざ、こころよく我を追へ。

 黄泉の底まで、なきながら、頼む男を尋ねたる、その昔にもえや劣る。

 女の恋のせつなさよ。

 晶子や物に狂ふらん、燃ゆる我が火を抱きながら、天がけりゆく、西へ行く、巴里の君へ逢ひに行く。

 与謝野晶子」

(訳:列車はアタシのために走れ! 台風のほうがアタシを追ってこい!

 地獄だっていい、泣いて好きな男のところに行く、大昔の女の気持ちにアタシの気持ちが負けるもんか!

 女の恋って切ない。

 アタシは狂ってんだよ。メラメラ燃えてる炎を抱いて、太陽が沈む西のほうに、パリにいるお前に会いに行く!

 与謝野アキコ)


 なお、この文章は、今でも石碑になってロシアのウラジオストクに存在する。

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