第五章「1915年まで②」

第41話 文豪、森オウガイの手助け(上)


  ※※※※


 さて1911年、与謝野テッカンは船に乗って大きく手を振っていた。

「アキコくん! 日本で待っていてくれ! きっといつか勉強を終えてここに帰ってくるから!」

 それに対して、アキコも手を振った。

「おーう! あんまり無茶すんなよ先生ェ~!」

 こうして、テッカンは出発した。

 船が海を泳いで向こうのほうへ見えなくなると、アキコはちょっと涙ぐんだ。そのとなりで、日本近代文学最大の小説家・森オウガイがフフフと笑っていた。

「さ~て、君の夫は海外に勉強に行ってしまったな」

「――そうですね」

「では次は君の仕事の話だな! 源氏物語の現代語訳、今までできたぶんを持ってこい!」

「――え、あ、はあ?」

 アキコが呆気に取られていると、オウガイのほうは人差し指を立てた。

「校正の仕事を誰に頼む気なんだ? 金尾文淵堂に文学の専門家はいないぞ? だったらさあ、オレに無償で頼んじゃえばいいんじゃないの?」

 オウガイがそう宣言すると、アキコとしては、いよいよわけが分からないという感じだった。

「な、なんで――」

「ん?」

「なんで、あのオウガイ先生がそこまでしてくれるんですか?」

「オレは別に悪だくみなんかしてないよ?」

「オウガイ先生は今、日本でいちばん文学の知識と人脈がある人間です。そんなことアタシにだって分かってますよ。

 だったら自分でイイ仕事をすりゃあいい。

 なんでアタシとテッカン先生をそこまで助けるんだ」

「助けてもらうのが不服なのかあ? アキコく~ん?」


「不服に決まってんだろうが――!」


 と、アキコは怒鳴った。

「借りをつくるのはまっぴらだ。そんなもんがあるなら今すぐ返す。

 教えろよ。アタシはアンタからの恩にどうやって報いりゃいい?」

 アキコがそう睨むと、オウガイはヘラヘラと笑って「そんなに怒るなよ~、アキコくん」と言った。

 そして、

「オレはもうすぐ50歳なんだよ」

 と呟いた。「この歳になると分かるんだ、自分の限界とか天井みたいなもんが。まあ夏目ソウセキのバカみたいになんにも知らないまま地獄に突っ走るバケモノもいるが、オレはああいう風にはなれない」

 そこまで喋ると、オウガイはタバコを咥えてマッチに火をつけた。

「オレは知りたいんだよな。オレができない文学を書ける人間がどこにいるのか、そいつかどこまで書けるようになるのか。

 だから、色んな才能にツバつけてる。

 見返りがほしいんじゃない。ただ新しいものが見たいだけだ。文学って、そういうものじゃないのか?

 だからアキコくん、君も、負い目なんて感じなくていい」

 と言って、オウガイはゆっくりと火を消した。

「ただし――」

 と、彼は顔を近づけてくる。


「ナメた仕事はするなよ。オレは期待してるんだからなあ」


 アキコはそのとき、改めて、いや初めてオウガイの顔を真正面から見たような気持ちがした。

 ほとんど禿げ上がったアタマに、たっぷりとたくわえられた口ひげ。垂れ目のなかに潜んでいる、いくつもの戦死体を見つめてきたであろう軍医としての瞳である。

「――!」

 アキコは生まれて初めて、自分よりも明確に《強い》生き物に出会ったと、そう思った。

 だが、

 オウガイはすぐに表情を崩してニッコリと笑うと、

「じゃ、そういうワケなんで、よろしくちゃ~ん!」

 と言って去っていった。

 これが、与謝野アキコと森オウガイとの最初の出会いと別れだったと史実には残っている。


 のちにオウガイは評論のなかで、次のように書いている。

「樋口イチヨウという、めちゃくちゃイイ感じの女の文学者がいたじゃな~い? あのあとを継ぐことができるのは与謝野アキコだと思うんだよねえ。

 いや、与謝野アキコだけじゃないな。

 平塚ライチョウだ。アキコかライチョウか、どっちかが文学の女性選手代表ってことになるよねえ~?

 楽しみだあ~!!」

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