第40話 夫、与謝野テッカンの憂鬱(下)
※※※※
さて、こんな与謝野テッカンの落ち込み具合に、アキコはどうすることもできなかったという。
「テッカン先生、まあ大丈夫だよ。いつかみんなテッカン先生の文学の魅力にも気づくぜ?」
「――うん、ありがとうアキコくん」
テッカンは顔を伏せながら鍋をつくっていたらしい。
この時代において、
妻よりも仕事ができず、赤字の尻ぬぐいを妻にしてもらって、そうして妻に励まされていることがどれだけ男にとって辛いことなのか、想像もつかない。
令和の現代となっては夫婦共働きが普通だからな。
だが、ここで転機が訪れる。
ひとりの男が玄関ではなくリビングの西洋窓のほうから入ってきたのだ。
「やっほー! 与謝野夫婦、お元気~?」
と、その男は言った。
彼の名前は、森オウガイである。当時の価値観で、もしも夏目ソウセキを《日本最強の小説家》と呼ぶならば、森オウガイは《日本最大の小説家》だった。
「「ギャ――!! も、もも、森オウガイ先生!!」」
アキコもテッカンも汗をダラダラ流しながら、すぐにもてなしのお茶と菓子を用意した。
森オウガイの功績は語り尽くせないほど多い。なのでここではダイジェストで書こうと思う。
彼は東京医学校を卒業し、陸軍軍医になると、ドイツにも留学。そのあと日清戦争の侵略にも貢献したと言われている。その後、軍医のトップに就きながら執筆を続けていた。
評論を書いて近代主義を啓蒙するだけではなく、数多くの作家の才能を発掘し、自分は翻訳活動で海外文学を紹介しつつ、オリジナルの小説も書いていたのだ。
そこでは告白小説、青春小説、恋愛小説、歴史小説、そして安楽死の問題を扱った社会派小説など多くのジャンルで結果を残している。
超・偉人。
特に有名なのは『舞姫』である。森オウガイはドイツ留学中に1人の女性と恋に落ちた、が、当時の日本では外国人との結婚などもってのほか。2人は離ればなれになってしまった。
オウガイはこの後悔を小説に書いて、「人間の葛藤や苦悩をありのままに描く」近代文学の道を一気に開いたと言われている。
さて、現在。
森オウガイは居間に通されて、与謝野テッカン、与謝野アキコの2人の前で座りながら茶菓子を食べていたと言われている。
「2人の噂はよく耳に入ってるよ。アキコくんは素晴らしい歌人で、今度は源氏物語の現代語訳もやるんだってねえ?」
「え、はあ、まあ、はい」
アキコも流石にオウガイの前では恐縮するしかない。
――今の日本の文壇で、いちばん偉い男が目の前にいる。
そう思って黙っていると、オウガイはテッカンのほうを見つめた。
「それに比べて、テッカンくん!」
「は、はい」
「最近の君はどうした? 明星以降の活動が全く振るってはいないではないか」
オウガイは、和服の両袖に腕を通して組んだ。
「言っておくが、オレはテッカンくんの活動には期待しているんだよ。多くの詩人を輩出した。それは君の才能だろう。その君がくすぶっていてどうする?」
そんな叱責に、テッカンはうなだれるしかない。
「――返す言葉もありません。でも、自分の創作に自信が持てないんです」
こうやって落ち込んでいる夫を見るのも、アキコは辛いと思っていた。
すると、オウガイはフンと鼻息を鳴らす。
「アウトプットが上手くいかないならさあ、まずはインプットをすればいいんじゃな~い!?」
と彼は大声で言ってから、海外行きの船のチケットを取り出した。
「外国で文学を学び直せよ、テッカンくん! 新しい景色と、新しい人々と、新しい知識を手に入れて、もういちど輝きたまえ!
そもそも君の今の代表作はなんだ? 九州に旅をしたときの紀行文だったろう! 君は新しい世界を知ることで自分の文学を鍛えるんだ!」
と、オウガイは発破をかけてきたのである。
こうして、与謝野テッカンのパリ行きが決定した。
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