第32話 与謝野アキコと大逆事件(下)
※※※※
かつて日露戦争のとき、与謝野アキコと大町ケイゲツは次のような会話をしていたことがある。
「反戦家のアキコくんは、では、幸徳シュウスイたちの反戦論についてはどう思うのかね?」
「いや、アタシは別に反戦家じゃねえですよ。弟には死んでほしくないだけで」
とアキコは答えた。
「それに、幸徳シュウスイさんの反戦論は嫌いです」
「ほう――なぜ?」
「シュウスイさんは反戦主義・平和主義といっしょに社会主義も言ってるじゃないですか。でも、日本を社会主義国にしても戦争はなくならないです。
むしろ、余計に男女の自由はなくなって、もっと戦争をするようになりますよ」
アキコのこの意見は、令和の現代となっては当たり前すぎるように聞こえる。だが当時としては斬新なものだった。
史実によれば、彼女はかなり筋金入りの反共主義(共産主義クソ食らえ派)だったらしい。
そして、1911年現在に至る。
アキコは再び、大町ケイゲツと料理屋で会っていた。どうも彼女の『源氏物語』研究を大いに気に入り、直接激励しにきたのだという。
「いやあ、アキコくんの講義は素晴らしい! 紫式部こそまさに、本居宣長が言うとおり日本の心! その解読こそお国のための仕事だ!
僕はアキコくんのことを誤解していたのかもしれないなあ!」
「え、あ、はあ、どうもです」
別にそんなつもりサラサラないんだけどな――とアキコは思いながら、その表情は浮かなかった。
「? アキコくん、どうかしたのかね?」
「ああ、いや」
とアキコは言った。「ケイゲツさんは、今回の大逆事件ってどう思いますか?」
彼女がそう訊くと、ケイゲツは酒をゆっくり飲みながらこう答えた。
「陛下に逆らう者は死刑になって当然だ。だが――本当に26人すべての者が暗殺に関与していたか?
今回の政府のやりかたは、近代的とは言えまい。こんなことをしていても欧米には追いつけないと、僕は思うがね」
実は、死刑になった者には『明星』の旧メンバーもいた。大石セイノスケという男である。
また、死刑になった者には1人だけ女性がいた。管野スガという女である。彼女は与謝野アキコの熱心なファンであり、弁護人の平出シュウに対して、
「死ぬ前にアキコ先生の歌集を読ませて! 差し入れください! お願い、シュウ先生ねえ読ませて!」
そんなお願いをしていたと史実には残っている。
だが、その願いが果たされることはなかった。彼女は与謝野アキコの新作を読むことなく首を吊られて死んだのである。
傷だらけの体で。
このことが、与謝野アキコに大きなショックを与えていたのだ。
「アタシの歌を気に入ってくれてるヤツが、この事件のせいで死んだんですよ」
とアキコは呟いた。
――なんで文学者が血ィ流さなくちゃいけねえんだ!
当時の与謝野アキコは、次のような和歌を発表していた。
「産屋なるわが枕辺に白く立つ大逆囚の十二の棺」
(訳:ガキを生んだあとの枕もとに、白く突っ立ってんだよ。反逆者どもの12個の棺桶が)
これは彼女なりに、幸徳シュウスイたち犠牲になった社会主義者たちへの追悼の詩だったと言われている。
与謝野アキコはこうした活動と評論で、さらに有名になってしまった。
「不倫略奪婚エロ女の与謝野アキコが、反戦したと思ったらその次は源氏物語を解読、そしたら今度は反天皇の死刑囚どもを擁護した」
そういう評判で持ちきりになったのである。なんか、もう、世の中を騒がせることしかしないんですか?
大町ケイゲツと会話を終えた与謝野アキコは、夜の風に吹かれながら街を歩いていた。
そのときのことである。
道の向こう側に、ストレートロング黒髪ヘアに腕組みをして仁王立ちの女が立っていた。
「ごきげんよう与謝野アキコさん!」
彼女はバカデカい声で言ってきた。
「えあ、誰?」
「わたしくの名前ですか!? わたくしはスーパー・ウルトラ・フェミニストの平塚ライチョウですわ!
今宵、日本きっての女詩人、いや女評論家、いや女思想家のあなたを、迎えにきたんでございますのよ!」
ライチョウはそう言うと、ずいずいと近づいて手を差しのべてきた。
「さあ! わたくしとともに、日本の女の明るい未来をつくっていこうじゃありませんか!」
と彼女は言った。
――いや、知らねえし誰だよ?
とアキコは呆れて思ったという。
実はこれが与謝野アキコにとって、思想上の最大のライバルとの出会いになるとは誰が予想できただろうか?
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