第33話 ライバル、平塚ライチョウ(上)


  ※※※※


 さて、与謝野アキコ生涯のライバルである平塚ライチョウとは、どのような人物だったのだろうか?

 彼女は本名ハル、1886年、東京府東京市麹町にある金持ちの家に生まれた。父親は政治官僚で、大学講師もしていたという。

 父親は1887年に欧米視察に参加した経験もあってか、ハルに対して熱心に西洋式の教育をしていたという。だが1892年以降、時代の移り変わりとともに、日本流の国粋主義的な勉学を押しつけるようになった。

 子どもからしたら、たまったもんじゃないですよね。

 結果、平塚ハルは国粋主義教育のモデルとなった東京女子高校(今のお茶の水女子大学付属高校)に入学させられる。そこで、ありがたくもなんともない良妻賢母思想を聞かされていたという。

 ここで反抗した彼女は、日本女子大学への進学を決めることにした。「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育理念に共感したのだ。

「バカな」

 と父親は言った。「女子には女学校以上の学問など必要ない。結婚相手は私が探すから、早く身を固めて子供を生みなさい」

「いえ、それは違いますお父様」

 とハルは言った。「これからは近代化の時代。男も女も関係なく学問を修めて、お国のために尽くすべきだと思いますの。そのほうが子どもも賢く育てられますわ」

 こういう感じの説得が上手くいったらしい。彼女は日本女子大学の家政学部に入学した。

 ――実は同時期に、山川トミコも増田マサコも日本女子大学に通っている。ただし学部が違ったせいであまり交流はなかった。

 しかし日露戦争勃発後、日本女子大学もまた国粋主義に傾くところがあったようである。

 ハル、めっちゃ幻滅。

 1905年からは自分の力で禅の道場に通い、そののち道号(禅をマスターした証明)を獲得したり、二松學舍大学や津田塾大学など複数の学校に入っては、漢文や英語を熱心に学んでいたという。

 メチャクチャ金持ってるじゃねえか。実家が太いのは正義ということですね。

 1907年、さらに成美高等英語女学校というところに通うと、初めて文学、特にゲーテ『若きウェルテルの悩み』と出会ったのである。

「まあ!」

 とハルは声を上げた。「素晴らしいですわ! 人の悩みも苦しみも自由も、文字でなら、文学でならいくらでも表現できますのね!」

 そんな彼女に注目していた男がいた。

 東京帝大を出て新任教師の職についていた評論家・生田チョウコウである。

「ハルさんは、文学が好きなのかい?」

「はい! わたくしもいつか、こんなものを書いてみたいですわ!」

「――ほう」

 彼は微笑んだ。「それなら、そうだな、今度ぼくが開いている課外文学講座に来てみるといい」

 そんな誘いがあったと史実には残っている。

 彼女は喜んで、課外文学講座「閨秀文学会」に参加しにいった。そこでは生田チョウコウと、彼の学友である森田ソウヘイという男がメインになって講義をしていたという。

 ハルは、ソウヘイと目が合った。

「えっ、えああっ、あの――」

「あなたがハルさんですか?」

 ソウヘイは朗らかで情熱的な、しかしどこか優しい表情でハルを見つめていたと言われている。

「ゲーテがお好きだと聞きましたが」

「はっ、は、はい! 『ウェルテル』を読んで感動したんです! わたくし、もっともっと文学について知りたいんですの!」

 そう答えながら、ハルは自分の頬が熱くなっていくのを感じた。

 このあと、ハルは生田チョウコウに勧められるまま小説デビュー作『愛の末日』を執筆。

 それを森田ソウヘイは高く評価。彼女に応援の手紙を送って、以降、文通が始まったという。


 ハルはいつからか、文学を学ぶというよりも、ソウヘイの言葉を待つために手紙を書くようになっていった。

 これが平塚ハルの初恋、そして心中事件の始まりだった。

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