第26話 与謝野アキコ、落ち込む(下)


  ※※※※


 待ち合わせ場所にいたのは、弟のチュウザブロウと兄のヒデタロウだった。

 チュウザブロウのほうは、自分をモデルにした詩が書かれていたことを素直に喜んでいたらしい。いちど正式に会って話したかったそうだ。

 ヒデタロウのほうは、派手な作品ばかり書いて騒ぎを起こしまくっている妹のアキコに文句のひとつでも言ってやりたかったという。

「ま~ったくアイツは筆を持ったら恋愛、恋愛、おまけに反戦か。ウチの家をなんだと思ってんだかな」

「姉ちゃんのこと、悪く言わないでくださいよ。ボクは嬉しかったんだから――」

「昔からお前はアキコに甘いんだよ。ま、気持ちは分からんでもないが」

 ヒデタロウはブツブツ言いながら、そんな感じでチュウザブロウについてきたのだわけだ。

 だが、

 実際にアキコの顔色を見た彼は、叱るだの注意するだのという気持ちがすっかり消えてしまった。

 そのくらい、当時のアキコはテンションだだ下がりの状態だったのである。

「えっ、アキコ――だよな?」

 ヒデタロウは、ほとんど別人みたいになっている妹に対して言葉を失った。


 こうして3人は近くの料理屋に入った。

「マジでどうしたんだ、お前」

 ヒデタロウがそう訊くと、アキコは目の前の軽食をもそもそと食べながら(食欲もなかったらしい)、こんな風に答えた。

「友だちがさ――病気になっちまって」

「あぁ? 病気?」

「医者の説明を聞いたら、もう治らねえって――」

 アキコは箸を置いた。

「アタシ、けっこう図々しく生きてるだろ? そうじゃないヤツのほうが先に死ぬって、意味わかんないっていうか――もうどうしたらいいか分かんなくて」

 彼女は、夫の前でもこんな弱音を吐いたことはなかった。

 彼女なりに、テッカンの仕事を邪魔しないようにとは思っていたのである。トミコの前でも、なるべく励ますように明るく振る舞っていた。

 だが、心は真っ黒だったのだ。

「アタシ、アタシさ、なんで文学やってんのかなあ」

 彼女が弱り果てた姿を見せると、ヒデタロウはとっくに怒る意欲も失せていた。

 そのときのことだった。

 チュウザブロウが、「お姉ちゃん」と言いながら茶碗を置いた。


「その気持ちも、いつか綺麗な歌になれるよ」


 その言葉に、アキコは顔を上げた。チュウザブロウはちょっと不器用に笑う。

「ボクは歌ってもらえてよかった。手紙でも書いたけど、それを伝えにきたんだ、今日は」

「え――」

「そしたらさ、アキコ姉ちゃんの歌が色んな人を元気づける日もくる。戦争で困ってる家族も、病気で悲しんでる家族も、恋愛で悩んでる女の子も。そう言いたかったんだよ」

「チュウザブロウ――?」

 そこに、ヒデタロウが割って入った。

「今の落ち込んでるお前なんか、説教する気にもならねえぞ?」

 彼は湯呑みのなかの茶を全て一気に飲んでしまった。

「気張れよ。お前の取り柄なんかそのツラと才能だけだろうが。

 それともお前が凹んでたら、お前のダチ公は『私のために憂鬱になって仕事できなくなってくれてありがとう!』って感謝するような女なのか?

 オレはその女のことはなんも知らん。でも、違うと思うけどな」

 彼がそこまで言い終えると、アキコは目を見開いた。

 ――思い出していたのは、最初に文学に夢中になった日のこと。兄、ヒデタロウの部屋で読んだ『源氏物語』。

 親に愛されず、愛を求めて、そして運命に奪われ続けた男の物語である。

 物語は、歌は、いつか大切なものを失う悲しみに耐えるために書かれるのだ。


「ああああ~~ッ!」

 与謝野アキコはそこで、両手で顔を覆った。「アタシの周りにいるの、アタシより良いヤツばっかりじゃねえかよお!

 ――なにやってんだよ、アタシ!」

 ヒデタロウはそれを訊いて、「お前より不良な人間がいっぱいいてたまるか。さっさと立ち直れバカ」と言いながら味噌汁を飲んだ。


 1907年、与謝野アキコは調子を取り戻す。

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