第25話 与謝野アキコ、落ち込む(上)
※※※※
与謝野テッカンたちの九州旅行は、大まかに、ふたつの成果を生み出したと言われている。
まず直接的には、旅に同行した詩人たちの創作意欲を刺激した。具体的には北原ハクシュウの『邪宗門』や、木下モクタロウの『南蛮寺門前』は、このときの旅がきっかけになって生まれたと言われている。
そしてもうひとつは、こちらのほうが重要だが、東京に九州地方のキリスト教文化を持ち帰って大きな影響を与えた。
この影響は、のちの大正時代まで残ったという。たとえば芥川リュウノスケという短編の名手は、「キリシタンもの」というジャンルで様々な名作を残した。それは与謝野テッカンたちの旅が元ネタのひとつだったと言われている。
いま『五足の靴』は、そこまで知られているような作品ではない。だが、近代文学を知る上で決して無視できない仕事をテッカンはしていたと言っていい。
「よかった――」
旅をしながら、テッカンはそう思っていた。「これで、これでアキコくんの夫として恥ずかしくない文学をつくれる!」
「楽しそうですねえ、テッカン先生」
北原ハクシュウは、九州の美しい嬢の腰を抱きながら声をかけた。
「テッカン先生は遊ばないんですか? 女の子と。どうせ奥さんにはバレないでしょう?」
「ああ、いや――」
テッカンは首を横に振った。「アキコくんは勘が鋭いから、隠しごとはできそうにないよ」
「へえ」
「それに」
と彼は言った。「僕はもう、愛する女性を裏切らないと決めたんだよ。アキコくんのことは裏切らない」
そう答えながらテッカンは酒を飲んだ。横では、九州の女がハクシュウに「あん、もっとお、もっと激しくして?」と声をかけていたが、まあ、あんまり聞こえないふりをしていたという。
ひとつだけ、思い出すことがある。テッカンはたったいちどだけ、山川トミコがいる病院に見舞いに行っていたのだ。
「テッカン先生――?」
「やあ、トミコちゃん」
彼はそう微笑んで、ベッドのとなりにある椅子に座って少しだけ世間話をした。
「ねえ、先生、ひとつお願いがあるんです」
「なんだい?」
「軽くキスして? 手の甲に、いちどだけでいいんです」
トミコはそう言ったという。
――もうすぐ病気で死んでしまうのだ。こういうお願いごとをしたからって、責められるはずもない。
テッカンは、ゆっくりと首を横に振った。
「ごめんね。いま僕は、アキコくんが好きなんだよ。いや、違うかな。アキコくんに愛されてしまった。彼女のモノになってしまったよ、僕は」
彼は、そう答えた。
その言葉を聞くと、トミコは少しだけ涙ぐんで痙攣するように笑った。
「はい。――そうやって断ってくれる人だから、私、好きになっちゃったんだと思います」
彼女はそこまで伝えてから、薬が効いたのか、眠ったという。
そして、現在。
平野バンリや吉井イサム、木下モクタロウたちが九州の地酒を飲みながら、「しかしそれにしても、奥さんのアキコ先生は今なにをしてるんですかね?」と言った。
「なにか、また新しい文学の仕事でも始めてるんでしょうか?」
「うーん、どうなのかなあ」
テッカンは生返事をしながら酒を飲んでいた。
だが、このころ与謝野アキコのほうはほとんど成果というほどの成果はない。ただトミコのそばに寄り添いながら、ファンの前で講演会をしたり、短い詩を書いたりといった日々だったという。
要するに、めちゃくちゃ落ち込んでいたのだ。
そしてそんな彼女のもとに、一通の手紙が届いた。
それはかつての日露戦争から帰ってきたあの弟、鳳チュウザブロウからであったという。
「チュウザブロウ――?」
アキコが慌てて文面を読むと、そこには、こんな風に書いてあった。
《お姉ちゃん、あの詩を読んだよ! すごく、すごく嬉しかった! いまなんの仕事してるの?
こんど会って話そうよ!》
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