第22話 与謝野アキコ、看病する(下)
※※※※
「そもそもね」
とトミコは言った。「私、アキコちゃんが思うほどイイ子じゃないんだよ」
「え――?」
「だって、私、まだテッカン先生のこと大好きなんだもん」
彼女はそう言ってからボーッと天井を見上げた。
「テッカン先生がタキノさんと結婚しているときも、タキノさんがいるのに先生のことが好きだった。
先生がアキコちゃんと結婚した今も、それでもテッカン先生のことが好きなの。どうしても好きなんだ」
トミコは、そこまでを静かに言った。
そして、アキコも黙って彼女の言葉を聞いたあとで、
「知ってたよ」
と言った。「アンタがテッカン先生のことを好きなのは、知ってた」
与謝野アキコは、山川トミコが自分の夫であるテッカンを愛していることに気づいていたらしい。
「それでもアタシは、さ、それでもアンタと友だちになりたかったんだよ。アンタが優しくしてくれたから――だから、知ってたよ」
そう言った。
だいたい同じ男を好きになった女同士、気が合わないわけがないのだ。
当時、トミコは次のような歌を書いていたという。
「それとなく紅き花みな友にゆずりそむきて泣きて忘れ草つむ」
(訳:なんとなく、綺麗な花は友だちにぜんぶあげちゃった。泣いてどこかに行ってしまおう。忘れるための草をつむために)
片想いの相手、与謝野テッカンに対する失恋の歌だったという。
トミコは、はは、と笑った。
「アキコちゃんには、私、なんにも敵わないのかなあ」
「お前のほうが強い女だとアタシは思ってるよ、今も」
アキコはそう答えて、しばらくしてから病室を出た。
病院のロビーでは、増田マサコが待っていたという。
「トミコさんは、大丈夫なんスか?」
「今は薬のおかげでよく眠ってるよ」
と答えたあと、とくに雑談もなく、彼女は街頭に出た。涙を流しながら鬼の形相で歩いている与謝野アキコを、誰もが避けていたという。
ここで、与謝野アキコの作品の特徴を言っておこう。
与謝野アキコの歌は、戦争を止めることができない。
与謝野アキコの歌は、戦場にいる弟を日本に連れ戻すことができない。
そして与謝野アキコの歌は、親友の難病を治すことができない。
文学は、なにもできない。
ならば、なぜ、私たちは文学を――文字を人々に向けて書き続けるのだろうか?
アキコは黙って、テッカンのいる家に帰った。彼のほうは夕食を用意して待っていたという。
「アキコくん」
テッカンが駆け寄ると、アキコはその胸に身体を全て預けてしまった。
「トミコが死んじまう――!」
「アキコくん、大丈夫か?」
「トミコが死んじまう――! イヤだ、イヤだイヤだイヤだぁ!!」
彼女はテッカンにしがみついて、ただ子供のように泣き喚いていたと史実には残っている。テッカンは、彼女を慰め、頭を撫でながら、
「とにかくごはんを食べよう?」
と言った。
「美味しくて温かいものを食べたら、哀しい気持ちも少しはなくなるよ?」
「うん、うん――」
「僕もいつかトミコちゃんのお見舞いには行くよ。今は、さ、彼女の病気がよくなるって信じようか?」
「ううううう――」
アキコは、そこで耐えきれなくなって崩れ落ちた。
このとき夫のテッカンが感じていたことはなにか。
情けなさである。
妻・与謝野アキコのデビュー作『みだれ髪』は売れた。『君死にたまふことなかれ』も売れた。そしてアキコ・トミコ・マサコの合作『恋衣』も売れた。
なのに、テッカン自身は文学的にはまだなにもできていない。
――妻のアキコくんがこんなに頑張っているのに、こんなに辛い思いをしているのに、夫の僕はなにもしなくていいのか?
いいわけがないだろう!
と、与謝野テッカンという男は思っていたらしい。
そうして彼は、北原ハクシュウ、石川タクボク、吉井イサムといった友だちに合同プロジェクトを打診した。
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